改訂新版 世界大百科事典 「ウラジーミル大公国」の意味・わかりやすい解説
ウラジーミル大公国 (ウラジーミルたいこうこく)
Vladimiro-Suzdal'skoe knyazhestvo
中世ロシアの一公国。11世紀半ば以降キエフ・ロシアが細分状態に入ると,その北東部に位置するこの公国はいち早く強い自立傾向を示し,12世紀後半にはキエフとは別に大公位を称した。1299年にはロシア府主教座がキエフからウラジーミルに移された。14世紀半ばになると,キエフを含む南西ロシアがポーランドとリトアニアによって併合されるという状況が生まれ,その中でウラジーミルは名目的ではあれロシア統一の象徴的役割を果たし,タタール支配下のロシアで中心的位置を占めていた。やがて15世紀末にロシア統一の中心となるモスクワ公国も比較的若い公国として,この大公国内の一公国を構成していた。
ウラジーミル大公国は,当初,古くからの都市ロストフとスーズダリを中心に発展したので,ロストフ・スーズダリ公国と呼ばれていた。その基礎を築いたのはウラジーミル・モノマフの息子ユーリー・ドルゴルーキー(?-1157)で,ユーリーの息子アンドレイ・ボゴリュプスキーがこの公国をいっそう強化した。アンドレイの時,首都がウラジーミル市に移され,公の権力強化が図られた。1169年のアンドレイによるキエフ占領は,キエフの没落を決定的なものとし,76年に公となったフセボロド大巣公(1154-1212)もウラジーミルを政治的中心として,ウラジーミル大公の称号を採用した。その結果,キエフの政治的位置の没落がいっそう明白となり,ウラジーミル市の地位の高まりは顕著なものがあった。以後この公国はウラジーミル・スーズダリ公国と呼ばれることになる。フセボロドの死後大公国内にいくつかの小公国が形成されたが,依然としてウラジーミルは大公国の中心であり,フセボロドの子孫が大公位を争うことになる。〈タタールのくびき〉のもとで,大公国内の小公国の自立化がいっそう強まり,ウラジーミル大公国は国家としての実体を伴わない状態に陥るが,大公位は統一の象徴的存在として機能し続けた。しかし,このような機能もモスクワ公国の台頭の中で意味をもたなくなってくる。なお12~13世紀,この国内にウラジーミル・スーズダリ派と呼ばれる芸術家の一団が形成され,イコン,建築などの面で中世ロシアの芸術に大きな足跡をのこした。
→ウラジーミル
執筆者:細川 滋
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報