日本大百科全書(ニッポニカ) 「イコン」の意味・わかりやすい解説
イコン
いこん
Ikon ドイツ語
聖画像。英語はicon、ロシア語はиконаで、ともに「形象」を意味するギリシア語のeikōnに由来する。東方教会の文化圏で発達したもので、ビザンティン美術に属し、主としてキリスト、聖母、聖者たちの像を描いた礼拝用の画像である。その素材はテンペラ技法による板絵が主流であるが、モザイクなどでも制作されたことがある。
起源については、いわゆる「人の手によらざるイコン」とよばれる聖骸(がい)布像がある。これは、ゴルゴタの丘を登るキリストが布で顔をぬぐったところ、その布の上に彼の顔が生き写しになったという伝説から生まれたもので、キリストの顔を布の上に描いた簡潔な図柄である。もっとも、初期キリスト教ではイコン崇拝は行われず、2世紀以降から始まって4世紀ごろに盛んになったといわれている。その後8世紀から9世紀にかけてビザンティンの神父たちの間ではイコン破壊の闘い(イコノクラスムiconoclasm)が起こっている。このため、初期イコンの発展状況についてはいまなお十分な解明が行われていない。しかし、秘境にあったために難を免れたイコンもあり、6世紀ごろの制作と考えられるものも現存する。
843年にふたたびイコン崇拝が公認され、イコンは新しい発展段階に入っていく。すなわち、ギリシア正教が布教されている土地、小アジア、ギリシア、ブルガリア、セルビア、ルーマニア、ロシアの各地へ広く伝播(でんぱ)した。また、9世紀以降西欧へのビザンティン美術の流出も多く、イコンの美的世界は13世紀のイタリア美術にも色濃く影響を与えている。たとえば、ジョットの聖母子像などにも、イコンの直接的影響を読み取ることができる。
しかし、なんといってもイコンがいちばん花開いた土地はロシアであった。ロシアは10世紀にギリシア正教を国教として受け入れ、上からの権力で布教に努めたが、その際イコンのもつ宗教的な力を十二分に活用したからである。
[木村 浩]
ロシア・イコン
ロシアにおけるイコン崇拝が急速に広がった背景には、それ以前の異教信仰とも微妙な関係があるように思われる。すなわち、かなり長期にわたって一般民衆の間に異教との「二重信仰」が続いたために、異教の要素を摂取したイコンを制作することによって、異教からの改宗を容易にしたからである。
ロシアにおけるイコンの普及は、教会における大型イコンとイコノスタス(会堂の内部にイコンを何段にも並べて、内陣と一般信者の座る場所とを壁状に仕切ったもの)のほか、信者の家庭(ということは全ロシアの各家庭を意味する)にそれぞれのイコンが二つや三つは存在していたことを考えれば、たいへんな数であったといえるだろう。それらイコンはロシア人の信仰生活と密接に結び付いており、ロシア人の精神形成に微妙かつ深刻な影響を与えた。
こうしてロシアではイコン制作がノブゴロド派(12~14世紀)、モスクワ派(15世紀以降)などによって精力的に行われたが、このほかウラジーミル派、プスコフ派などの仕事にもみるべきものが少なくない。もちろん、イコンは宗教美術の枠を出るものではなく、あくまで信仰の対象であるが、ロシア人がギリシア正教を国教として選んだ背景には、その美的儀式への感動があったといわれており、ロシア正教会でのイコンの美的世界は、それなりに大きな比重をもっているといえよう。
ロシア・イコンの歴史では、14世紀中ごろにコンスタンティノープル(イスタンブール)からノブゴロドへ渡来し、多くの弟子を育てたフェオファン・グレッグ(ギリシア人テオファネス)、その弟子でロシア・イコン画家の頂点にたつアンドレイ・ルブリョフ、その作風を受け継ぎ、色彩のうえで新しい仕事を残したディオニーシーの3人を特記しなければならない。もともとイコンの制作は工房単位で行われることが多く、作者名が明らかなイコンは少ないが、上記3人のイコンは例外的にその傑出した美的世界を今日に伝えている。
今日、イコンはその宗教的性格を離れて、純粋に美術品として評価されることが多くなっている。しかし、ロシアにおいてもイコンをそのような目で評価しだしたのは20世紀になってからである。フランスの画家マチスはかつてロシア・イコンについて「これこそ真の民衆芸術であり、芸術探究の源泉である」と喝破したが、今後ともイコンの美的世界はますます再評価されていくであろう。
[木村 浩]
『浜田靖子著『イコンの世界』(1978・美術出版社)』