カウンダ(読み)かうんだ(英語表記)Kenneth David Kaunda

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カウンダ」の意味・わかりやすい解説

カウンダ
かうんだ
Kenneth David Kaunda
(1924―2021)

ザンビア政治家北ローデシアのベンバランド州のルブワで生まれる。父はマラウイ人で宣教師。教員養成学校卒業後、教員となる。1949年アフリカ民族会議(ANC)に入り、1953年議長ヌクムブラHarry Nkumbula(1916―1983)の下で書記長となる。1958年ANCから脱退し急進的なザンビア民族会議を結成したが、翌1959年非合法化され投獄された。獄中で知り合ったチョーナMainza Chona(1930―2001。のち副大統領)が1960年統一民族独立党UNIP)を結成し、出獄後カウンダが党首となり独立運動を進めた。1963年ローデシア・ニアサランド連邦(1953~1963)の解体後、北ローデシアは宗主国イギリスとの制憲会議を経て1964年10月ザンビアとして独立。カウンダはその初代大統領に就任した。ヒューマニズム社会主義を標榜(ひょうぼう)し、一連の企業の国有化を実施した。1972年改憲して一党支配体制に移行。1975年の銅価格の暴落とともに、産銅国ザンビアは経済苦境に陥り、1983年、構造調整計画(SAP)を導入した。1980年代、南部アフリカの地域協力機構である南部アフリカ開発調整会議(SADCC。現、南部アフリカ開発共同体:SADC)と東南部アフリカ特恵貿易地域(PTA。現、東南部アフリカ共同市場:COMESA)結成に中心的役割を果たした。1988年大統領に6選。しかし、SAPに対する国民の批判は高まり一党制を放棄、複数政党制を認めたが1991年選挙でカウンダ、UNIPはチルバFrederick Chiluba(1943―2011)の率いる複数政党制民主主義運動(MMD)に敗れた。1996年大統領選挙に再出馬しようとしたカウンダに対し、チルバ政権は両親がザンビア国籍という資格を課したため、再出馬できず、選挙をボイコットした。1997年12月、カウンダは未遂に終わった軍事クーデターに関与したとして逮捕されたが、のちに釈放された。2000年に政界から引退した。

[林 晃史]

『林晃史編『南部アフリカ諸国の民主化』(1993・アジア経済研究所)』『Zambia shall be free ; an autobiography(1981, Heinemann, London)』『Stephen ChanZambia and the decline of Kaunda, 1984-1998(2000, Edwin Mellen Press, Lewiston)』

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改訂新版 世界大百科事典 「カウンダ」の意味・わかりやすい解説

カウンダ
Kenneth David Kaunda
生没年:1924- 

ザンビアの民族主義運動の指導者で,初代大統領。マラウィ出身の牧師兼教師の子としてザンビア北東部に生まれ,成人後タンザニアで教師となったが,1947年帰国し,産銅地帯で社会福祉の仕事に就く。2年後バングウェウル湖近くの村で農業協同組合を組織,以後政治活動に入る。初めアフリカ人民族会議のヌクンブラHarry M.Nkumbulaの下で働いたが,のち袂をわかってザンビア・アフリカ人民族会議(非合法化されてから統一民族独立党)を結成,その党首となり,64年の独立と共に大統領に就任した。非暴力主義と人道主義に基づく社会主義を旗印に一党制国家をつくって国内開発に努めるなど,穏健派路線を歩んできたが,白人支配への強硬な対決姿勢は終始変わっていない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カウンダ」の意味・わかりやすい解説

カウンダ
Kaunda, Kenneth (David)

[生]1924.4.28. 北ローデシア,チンサリ
[没]2021.6.17. ザンビア,ルサカ
ザンビア独立の指導者,政治家。白人支配のローデシア=ニアサランド連邦に強く反対し,1960年統一民族独立党 UNIPを結成,党首となり,1964年首相。同年 10月ザンビアの独立に伴い初代大統領に就任。1969年8月銅山の国有化に着手。1970年9月アフリカ統一機構 OAU議長。1971年1月イギリス連邦首脳会議でイギリス連邦原則宣言草案を提出し,南アフリカへのイギリスの武器輸出再開に対する抗議運動の先頭に立つなど活発な動きをみせた。10月には中国との経済,技術協力協定のもとにタンザン鉄道の建設に着手。また,対南アフリカ前線諸国の指導者として,ローデシア問題の解決のために手腕をふるった。1988年10月の大統領選挙で 6選されたが,経済の悪化を背景に民主化運動が高まり,1991年10月の大統領選挙では複数政党民主主義運動 MMDの指導者 F.チルバに大差で敗れた。

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百科事典マイペディア 「カウンダ」の意味・わかりやすい解説

カウンダ

ザンビアの政治家。初め教師であったが1950年ころから独立運動に専心,1960年統一民族独立党(UNIP)を創立,党首となる。1964年北ローデシア首相,次いで同年ザンビア独立とともに初代大統領。1988年6選されたが,1991年の選挙でチルバに7選を阻止された。1997年クーデタ事件で逮捕・起訴されたが,1998年釈放されUNIP党首を辞任した。
→関連項目ザンビア

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世界大百科事典(旧版)内のカウンダの言及

【アフリカ】より

…したがって民族形成ないし国民的統合は,独立後のアフリカ諸国に共通する緊急の課題となった。〈われわれの目的は,植民地主義者が全大陸を分割してつくったぶざまな加工品から真のネーションを創りだすことである〉というザンビア共和国大統領カウンダの言葉は,このことを的確に物語っている。カウンダのいうネーションとは,むろん国民的に統合された近代的民族国家のことである。…

【ザンビア】より

…南ローデシアの白人入植者はこの資源に着目し,イギリス領ニヤサランド(現在のマラウィ共和国)のアフリカ人労働力と合わせて3植民地で連邦を結成することを計り,イギリスとアフリカ人の反対を押し切って53年にローデシア・ニヤサランド連邦を結成した。白人の利益を優先する連邦結成にアフリカ人は反対し,H.ヌクンブラがアフリカ人民族会議(ANC)を結成,カウンダも参加した。しかし急進的なカウンダは58年脱党し新党をつくったが,非合法化され投獄された。…

※「カウンダ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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