ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ローデシア問題」の意味・わかりやすい解説
ローデシア問題
ローデシアもんだい
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少数白人の人種主義体制と複雑に絡み合ったイギリス植民地南ローデシアの独立問題。
南ローデシアでは南アフリカ、ナミビアに次いで人種差別が厳しく、1960年代に入ってアフリカ植民地が次々と独立していくのをよそに、27万人のイギリス系白人移民が620万人のアフリカ人をあらゆる面で抑圧し続けていたが、多数支配への漸次的移行、人種差別制度の廃止などを要求するイギリスの姿勢を不満とした少数白人政権(スミス政権)は、1965年11月に一方的独立を宣言した。イギリスはただちに経済制裁に踏み切り、その後も断続的に交渉を続けたが実らず、スミス政権は1970年3月新憲法を実施して共和制に移行し、少数白人支配による独立体制をいっそう強化した。
その後1974年のポルトガル政変、1975年のモザンビーク、アンゴラの独立と続く情勢変化によって、南部アフリカの少数白人支配体制に対する圧力が強まったため、1976年10月スミス政権は「2年以内の黒人多数支配移行」を骨子とする英米共同提案を受諾し、ジュネーブで一連の制憲会議が開催されたが、同年12月に決裂した。さらにスミス政権は1977年の英米提案も拒否し、愛国戦線のゲリラ闘争が強まるなかで、1978年3月ムゾレワ、シトレ、チラウらの黒人穏健派と、同年末を目途に黒人多数支配のもとで独立する協定を結び、1979年1月の新憲法採択、4月の総選挙実施に続いて、6月にムゾレワを新首相とする新国家ジンバブエ・ローデシアを樹立させた。国連安保理は4月の総選挙を無効とする決議を採択し、この新国家を承認する国はまったくなかった。他方、宗主国イギリスは同年8月の英連邦首脳会議の決定を受けて、9月からロンドンで南ローデシア全当事者会議を開催し、独立憲法案を示して12月に全当事者の合意を得た。
この結果、1980年2月に総選挙が実施され、ジンバブエ・アフリカ民族同盟-愛国戦線(ZANU-PF)が圧勝して、4月にはムガベ首相のもとに新国家ジンバブエ共和国が誕生し、いわゆるローデシア問題は解決をみた。
[小田英郎]
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