日本大百科全書(ニッポニカ) 「カッテンディーケ」の意味・わかりやすい解説
カッテンディーケ
かってんでぃーけ
Willem Johan Cornelis, Ridder Huijssen van Kattendijke
(1816―1866)
幕末に来日したオランダの海軍軍人。カッテンダイケともいう。江戸幕府はそれまでの鎖国から開国へその政策を転ずるに際して、西欧式海軍の創設を図り、長崎に海軍伝習所を設けた。そしてオランダから教師を招き、近代科学ならびに海軍に関する教育を受けさせることとし、あわせて軍艦の建造と購入をオランダへ依頼した。海軍二等尉官のカッテンディーケはオランダの第二次海軍教育班として、オランダで建造した軍艦ヤパン号(咸臨丸(かんりんまる))を回航して1857年(安政4)長崎に来航した。同地で勝海舟(かつかいしゅう)、榎本武揚(えのもとたけあき)や諸藩の伝習生の教育にあたり、1859年に離日するまで2年余り、日本海軍の創設に尽くした。帰国後、中佐に昇進。のち軍職を去って政界に入り、海相となって、日本からの留学生内田恒次郎(正雄、1839―1876)、西周(にしあまね)らの学修を斡旋(あっせん)し、開陽丸建造の際にも尽力した。一時は外相も兼ねたが、1866年2月、海相在任中に病没した。著書に『日本滞在日記抄』(1860)がある。
[片桐一男 2018年8月21日]
『カッテンディーケ著、水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』(平凡社・東洋文庫)』