日本大百科全書(ニッポニカ) 「赤松則良」の意味・わかりやすい解説
赤松則良
あかまつのりよし
(1841―1920)
明治・大正期の造船技術者、海軍中将。幕臣吉沢雄之進の次男で、通称は大三郎。のち実祖父の家を継ぎ赤松姓となった。坪井信道(つぼいしんどう)の塾で蘭学(らんがく)を修め、長崎海軍伝習所で航海術その他の伝習を受け、軍艦操練所などに勤務した。1860年(万延1)士官として咸臨丸(かんりんまる)に乗り組みアメリカに渡り、1862年(文久2)には内田恒次郎(正雄)(1839―1876)、榎本釜次郎(えのもとかまじろう)(武揚(たけあき))、西周助(周(あまね))らとともにオランダ留学を命ぜられ、造船術を学んで1868年(慶応4)帰国した。しかし幕府は崩壊しており、徳川家に従って沼津に移り、西周と沼津兵学校の創設とその教育にあたった。1870年(明治3)より兵部(ひょうぶ)省に出仕、以後海軍にあって造船や鎮守府(ちんじゅふ)の設定、整備などに活躍し、横須賀造船所長、主船局長や佐世保、横須賀鎮守府司令長官などを歴任した。1870年日本初の生命保険に関する論文を発表したり、数学教科書の編集に関与するなど、明治初期には数学の啓蒙(けいもう)の面でも活躍した。
[菊池俊彦]
『赤松範一編註『赤松則良半生談――幕末オランダ留学の記録』(平凡社・東洋文庫)』