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赤松則良 あかまつのりよし

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百科事典マイペディアの解説

赤松則良【あかまつのりよし】

海軍軍人,日本近代建艦技術の先駆者。江戸に生まれ,はじめ吉沢大三郎と称した。長崎海軍伝習所で測量術・航海術などを学び,1860年遣米使節として渡米,1862年西周らとオランダに留学。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

赤松則良 あかまつ-のりよし

1841-1920 明治時代の軍人,造船技術者。
天保(てんぽう)12年11月1日生まれ。長崎海軍伝習所でまなぶ。咸臨(かんりん)丸にのりくみ渡米。文久2年オランダに留学して造船学をおさめる。明治9年横須賀(よこすか)造船所長,のち佐世保,横須賀の鎮守府司令長官などを歴任した。20年海軍中将,30年貴族院議員。大正9年9月23日死去。80歳。江戸出身。本姓は吉沢。通称は大三郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

赤松則良

没年:大正9.9.23(1920)
生年:天保12.11.1(1841.12.13)
幕末明治期の海軍軍人。幼名大三郎。江戸幕府御家人吉沢雄之進の次男。播磨国網干(姫路市)の商家であった父方の祖父赤松家を継ぐ。下田奉行与力として外国船の応接に当たった父の勧めで蘭学を学び,安政4(1857)年蕃書調所句読教授出役,同年中に長崎での海軍伝習生に選ばれ6年3月まで伝習。万延1(1860)年咸臨丸に乗り組んで米国に航海。文久2(1862)年オランダへ留学,明治1(1868)年まで造船学を学ぶ。3年兵部省出仕。7年台湾出兵の際は艦隊を指揮した。造船技術に優れ,9年には従来フランス人が主導権を握っていた横須賀造船所の所長となり,日本人のみの手になる初の本格的軍艦「磐城」の建造を指揮した。19年には海軍技術の最高責任者たる海軍造船会議議長兼兵器会議議長。20年に男爵,海軍中将に進む。佐世保鎮守府の建設を指揮し,22年その初代司令長官となる。のち横須賀鎮守府司令長官。長女登志子は森鴎外に嫁す。<参考文献>赤松範一編『赤松則良半生談』

(鈴木淳)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

あかまつのりよし【赤松則良】

1841‐1920(天保12‐大正9)
明治・大正期の海軍軍人。日本近代建艦技術の先駆者。幕臣の子として江戸に生まれる。1847年実祖父を継ぎ吉沢大三郎を赤松則良と改名。オランダ語を学び,長崎海軍伝習所に派遣され,測量術,航海術などを研修,勝海舟を知る。60年遣米使節として咸臨丸で渡米。62年西周,津田真道榎本武揚らとオランダ留学を命ぜられ,造船学,製図などを学ぶ。68年沼津兵学校で数学教授となる。70年勝の勧告で新政府(兵部省)に仕える。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

赤松則良
あかまつのりよし
(1841―1920)

明治・大正期の造船技術者、海軍中将。幕臣吉沢雄之進の次男で、通称は大三郎。のち実祖父の家を継ぎ赤松姓となった。坪井信道(つぼいしんどう)の塾で蘭学(らんがく)を修め、長崎海軍伝習所で航海術その他の伝習を受け、軍艦操練所などに勤務した。1860年(万延1)士官として咸臨丸(かんりんまる)に乗り組みアメリカに渡り、1862年(文久2)には内田恒次郎(正雄)(1839―1876)、榎本釜次郎(えのもとかまじろう)(武揚(たけあき))、西周助(周(あまね))らとともにオランダ留学を命ぜられ、造船術を学んで1868年(慶応4)帰国した。しかし幕府は崩壊しており、徳川家に従って沼津に移り、西周と沼津兵学校の創設とその教育にあたった。1870年(明治3)より兵部(ひょうぶ)省に出仕、以後海軍にあって造船や鎮守府(ちんじゅふ)の設定、整備などに活躍し、横須賀造船所長、主船局長や佐世保、横須賀鎮守府司令長官などを歴任した。1870年日本初の生命保険に関する論文を発表したり、数学教科書の編集に関与するなど、明治初期には数学の啓蒙(けいもう)の面でも活躍した。[菊池俊彦]
『赤松範一編註『赤松則良半生談――幕末オランダ留学の記録』(平凡社・東洋文庫)』

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