アメリカの哲学者。マサチューセッツ州の生まれ。ハーバード大学で学び、ペンシルベニア大学、ハーバード大学などで教えた。博士論文を準備しつつ美術ギャラリーを運営し、ハーバードで芸術研究のゼロ・プロジェクト、夏期ダンスセンターを創始するなど、芸術とのかかわりが深い。その哲学説の中核は記号学的な世界認識の学である。世界は事実として与えられているのでなく、われわれが構成する。その構成に際して用いられる記号体系の違いにより、また世界のなかのいかなる要素に注目して構成するかによって、いくつもの世界が現れるが、それらはすべて実在の世界とみなされる。この世界制作は言語記号によってなされるだけでなく、美術や音楽などによってもなされる。芸術は世界解釈の一つの形式にほかならず、その美的体験は世界の構成に変更をもたらすダイナミックな過程である。
[佐々木健一 2015年10月20日]
『N・グッドマン著、雨宮民雄訳『事実・虚構・予言』(1987・勁草書房)』▽『ネルソン・グッドマン著、菅野盾樹・中村雅之訳『世界制作の方法』(1987・みすず書房/ちくま学芸文庫)』▽『N・グッドマン、C・Z・エルギン著、菅野盾樹訳『記号主義――哲学の新たな構想』(2001・みすず書房)』
アメリカのクラリネット奏者。本名ベンジャミン・デビッド・グッドマン。貧しいユダヤ人の仕立屋の息子としてシカゴに生まれる。12歳でプロ活動を始め、1926年ベン・ポラック楽団に参加して注目された。34年に自身の楽団を結成し、ピアニスト兼作・編曲家フレッチャー・ヘンダーソンFletcher Henderson(1897―1952)の名編曲による明快な楽しい演奏で翌35年に爆発的な人気を得、スウィング・ジャズ大流行の口火を切り、スウィング王と称された。楽団にピアノ奏者テディ・ウィルソンTeddy Wilson(1912―86)ら黒人も加えて人種差別の壁を破った功績も大きい。また若いころからクラシック音楽にも関心をもち、バルトークやコープランドの作品の初演を行うなど、この面でも世界的名声を得ている。
[青木 啓]
『ブルース・クロウサー著、大島正嗣訳『ベニー・グッドマン』(1989・音楽之友社)』
アメリカのクラリネット奏者,バンド・リーダー。〈スイングの王様〉として知られた。シカゴの貧しい仕立職人の家庭の9人兄弟の末子として生まれた。幼時からクラシック音楽の教師についてクラリネットを学び,16歳で人気バンド,ベン・ポラック楽団に入り,1930年代初めの大不況時代,ニューヨークで最も多忙なフリー・プレーヤーとなった。35年春スイング・バンドをつくり,吹込みとラジオ出演を始めたが,同年夏ロサンゼルスのパロマー・ボールルームに出演したとき,突如爆発的人気をよび,〈スイング時代〉が始まった。リズミカルで健康なサウンドは〈世直し音楽〉として全米を熱狂させたのである。また優秀な黒人プレーヤーを雇い,人種の壁を打破した最初のリーダーでもあり,クラシックの殿堂〈カーネギー・ホール〉でジャズ・コンサートを開いた最初のジャズ・ミュージシャンでもある。
執筆者:油井 正一
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…この時期に現れた天才ルイ・アームストロングは,すべての楽器奏者,歌手,編曲家に甚大な影響を与えた。そのなかでベニー・グッドマンは,大不況からようやく上向きに転じた35年,ラジオとレコードを通じて〈スウィング・ブーム〉をまきおこした。演奏そのものはアームストロングが在籍した黒人バンドを率いていたフレッチャー・ヘンダーソンJ.Fletcher Henderson(1897‐1952)の編曲をゆずりうけ,白人的なサウンドで演奏したビッグ・バンド・ジャズであったが,彼はジャズという言葉を避け,〈スウィング・ミュージックswing music〉と呼んだ。…
…とくに24年以後1年間,シカゴから天才アームストロングを入団させて体質を一変,30年代に活躍した大物は,みなこの楽団の出身者であった。大不況で解散した後,その編曲を譲り受けたベニー・グッドマンはスウィング王となった。その波に乗って再びバンドを編成したが永続きせず,グッドマン楽団の編曲者・ピアニストに雇われた。…
※「グッドマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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