文化記号学(読み)ぶんかきごうがく(英語表記)sémiologie de la culture フランス語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「文化記号学」の意味・わかりやすい解説

文化記号学
ぶんかきごうがく
sémiologie de la culture フランス語

文化記号学を字義どおり解せば「文化記号の学」であって、「自然記号の学」である自然記号学と対立するように思われないでもない。事実、前者を単に〈記号学sémiologie〉とよび、後者を〈徴候学séméiologie〉と名づけて区別する学者もいる。ビュイサンスE. BuyssensとプリエートL.-J. Prietoに代表される機能主義学派がその立場であるが、彼らによれば、私たちの日常生活における〈記号signe〉なる概念はまことに多種多様である。「血は傷の記号だ」といったエピクロス流の考え方に従うなら、まず黒雲は嵐(あらし)の記号であり、煙は火の記号、高熱は病気の記号ということになる。また数学の演算記号、交通信号、地図の標識モールス信号、海上信号をはじめ、多くの身ぶり、さらには衣服や絵画や彫刻や音楽も、一種の記号と考えられないことはない。ところが、前記のようなさまざまな記号がすべて〈記号学〉の対象であると考えたら誤りであるという。なぜならば、嵐を告げる黒雲に代表される記号は自然記号つまりは徴候であって、そこには他の文化記号が有するようなコミュニケーションの意図が存在しないからである。空には気象学者と交流しようとする意図はまったくないし、38度の熱が医師になにかを通報しようとするものでもけっしてない。これらが自然現象であるのに対し、人工的記号は人間がつくったコードに属している。プリエートたちの定義によれば、記号学とは、すなわち〈文化記号学〉であり、コミュニケーションの意図と了解を前提とする〈信号〉の研究であった。

 このように自然と文化を截然(せつぜん)と分けることが可能とする考え方は、いわゆる物理学帝国主義の下で自然科学がつくりだした事実信仰に基づいている。事実は事実であって動かしがたい。科学理論はこの〈事実の世界〉との照合によって確保され、その体系真偽は、理論の外にあって理論を裁くアンパイヤーとしての事実が定めるとするベーコン主義であるが、このベーコン主義もまた一つの理論でしかない。私たちはニュートンのように「我は仮説をつくらず」という立場にたつことはできないだろう。ニュートン自身が、絶対時間や絶対空間、同一原因・同一結果とよばれる因果律を仮説として出発し、その理論によって逆にデータを生み出しているからである。〈文化記号学〉と〈自然記号学〉、もしくは〈記号学〉と〈徴候学〉を区別する根拠はすでに奪われているといわねばならない。そこで、〈指標indice〉も〈徴候symptôme〉も〈信号signal〉も〈象徴symbole〉もいっさい含めた意味での広義の〈記号signe〉が文化記号学の対象ということになる。そして、こうした諸記号の典型としての言語記号をめぐる考察から記号の本質を探ろうとしたのが、2000年以上にわたる長い歴史をもつ〈現前の記号学〉であった。〈現前の記号学〉とは、記号を実在の表象ないしは代行・再現物とみなす記号観をその根にもっている。つまりはオリジナルを指(ゆび)さすコピーとしての記号であり、「本物を指さす代用品」といってもよい。たとえば、「停止せよ」という命令が本物であるとすれば、これにかわってその命令を伝えるのが文明社会で用いられる赤信号という記号であり、ある未開社会における神の怒りが本物であるとすれば、これにかわってそれを伝えるのが洪水という記号であると考える。これと同じように、〈愛〉という普遍的観念の代用品は、ときに「アイ」であり、ときにloveであり、またときによってはamourやLiebeであったりする。当然にも、本物とは、ア・プリオリに現前するものとして一度も疑われることがなかった。だからこそ、哲学者も言語学者も、「現前と記号」「ロゴスと声」「事物と名称」「観念と表象」との間の関係のみを探究してきたのであり、これはプラトン、アリストテレス以来の「存在とは恒常的現前性である」とする形而上(けいじじょう)学と同じ根をもつ記号学である。

 ソシュールの文化記号学が、こうした〈現前の記号学〉へのラディカルな批判とみなされるのは、彼が記号概念を狭義のことばや符号から有形無形の文化現象一般に拡大したからだけではけっしてなく、文化自体を一つの記号とみなした点にある。この〈文化という記号〉が意味する記号性とは、もはや「自らに外在する実体を告知したり指示したりする表象」という意味ではなく、自らもいっさいの根拠をもたぬ〈非実体的関係・恣意(しい)的価値〉の謂(いい)であった。したがって、文化記号学とは、個別文化内で用いられるさまざまな記号を分類したり記述したりすることではなく、〈文化という記号〉の解明から出発して、関係論的視座にたつ文化学・人間学に至ることを目ざす営為である。文化とはそもそも本能図式には存在しなかった〈記号=ことば〉によって生み出された、これまたもう一つの〈記号=共同幻想〉にほかならないことが、こうして明らかにされたのである。

[丸山圭三郎]

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世界大百科事典(旧版)内の文化記号学の言及

【ソシュール】より

…したがって,言語記号は自らに外在する指向対象の標識ではなく,それ自体が〈記号表現〉(シニフィアンsignifiant)であると同時に〈記号内容〉(シニフィエsignifié)であり,この二つは互いの存在を前提としてのみ存在し,〈記号〉(シーニュsigne)の分節とともに産出される(なお,かならずしも適切な訳語とはいえないが,日本における翻訳紹介の歴史的事情もあって,signifiantには〈能記〉,signifiéには〈所記〉の訳語がときに用いられる)。これはギリシア以来の西欧形而上学を支配していたロゴス中心主義への根底的批判であり,この考え方が次に見る文化記号学,文化記号論の基盤になったと言えよう。言語学
[記号学]
 これは社会生活において用いられるいっさいの記号を対象とする学問で,非言語的なシンボルもそれが文化的・社会的意味を担う限りにおいて一つのランガージュとしてとらえられる。…

※「文化記号学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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