日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンスタンティウス」の意味・わかりやすい解説
コンスタンティウス(2世)
こんすたんてぃうす
Flavius Julius Constantius Ⅱ
(317―361)
ローマ皇帝(在位337~361)。コンスタンティヌス大帝の三男。父帝の死後、次兄コンスタンティヌス2世、弟コンスタンスと帝国を三分して東方諸州を統治。338年以後対ペルシア戦に忙殺されていた間に、西方では次兄が弟と対立して倒れ(340)、残った弟も350年簒奪(さんだつ)帝マグネンティウスMagnentiusに倒されたので、以後単独皇帝となった。351年ムルサMursaの戦いでマグネンティウスを破り、2年後ガリアでこれを討った。355年従弟(いとこ)ユリアヌスを副帝に任じ、ガリア統治を託したが、360年ユリアヌスがパリで正帝位に擁立されると翌年その討伐のため西征し、途上キリキアで病没。神学に深い関心を寄せ、アタナシウスと対立してアリウス派に加担した。教会内の統一に腐心したが、失敗に終わった。
[後藤篤子]
コンスタンティウス(1世)
こんすたんてぃうす
Flavius Valerius Constantius Ⅰ
(250ころ―306)
ローマ皇帝(在位293~305副帝、305~306正帝)。コンスタンティウス・クロルスともよばれる。イリリクムの低い身分の出。遅くとも289年には内縁の妻ヘレナ(コンスタンティヌス大帝の生母)と離縁し、西の正帝マクシミアヌスの義娘と結婚。293年ディオクレティアヌス帝により西の副帝に任じられた。ブリタニアにたった簒奪(さんだつ)帝カラウシウスCarausiusからブローニュを奪回(293)、296年ブリタニアに渡り、カラウシウスにとってかわっていたアレクトゥスAllectusをハンプシャーで倒した。298年アラマン人の侵入をラングルで撃退。305年西の正帝となるが、翌年ピクト人に対する勝利ののち死去。有能な武将にして温情ある為政者で、大迫害下のキリスト教に対しても寛容であった。
[後藤篤子]