改訂新版 世界大百科事典 「サイードパシャ」の意味・わかりやすい解説
サイード・パシャ
Sa`īd Pasha
生没年:1822-63
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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近代エジプト、ムハンマド・アリー朝第4代総督(在位1854~63)。王朝創立者ムハンマド・アリーの末子。1854年反動的な甥(おい)アッバースの後を継いでエジプト総督(ワーリー)に就任後、土地・税改革を中心に、カイロ―スエズ間鉄道敷設、スエズ運河開削計画決定に象徴される一連の開明的政策を実施し、次のイスマーイール(サイードの甥)期におけるエジプト近代化政策の本格的展開を準備した。また62年における近代エジプト最初の外国債起債は、その後エジプト財政が外債依存に傾斜していく先駆けとなった。
[加藤 博]
『中岡三益著「十九世紀中葉におけるアラブ社会の変容――エジプトを中心として」(『岩波講座 世界歴史21 近代8』所収・1971・岩波書店)』
… 1840年のロンドン四ヵ国条約締結は,ムハンマド・アリー一族によるエジプト総督の世襲化の道を開いたが,このことは同時に,ムハンマド・アリーによる国内産業独占政策の放棄と,西欧資本主義に対するエジプト国内市場の開放をも意味した。以後,サイード・パシャ,イスマーイール・パシャの統治下にあって,スエズ運河開設に象徴される一連の近代化政策が実施され,その間,エジプト財政の外資依存と綿作モノカルチャー農業構造の進展によって,エジプト経済の対西欧従属過程が進んだ。76年におけるエジプト財政の破産に端を発した一連の政情不安の中で,近代エジプト最初の民族主義運動であるアラービー運動(1879‐82)が発生したが,イギリス軍によって鎮圧され,以後エジプトはイギリスの軍事支配下に置かれ,エジプト経済の対西欧,とりわけ対英従属化は強化された。…
※「サイードパシャ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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