翻訳|Suez Canal
エジプト北東部にあり、地中海と紅海を結ぶ全長約193キロの運河。フランス人元外交官レセップスが事業を手掛け1869年に開通した。アフリカを回らずに欧州とアジアを結ぶ世界の海上交通の要衝。英国とフランスの支配を経て1956年にエジプトのナセル大統領が国有化を宣言し、第2次中東戦争に発展した。スエズ運河庁によると、2020年の年間通航量は約1万9千隻で、1日平均約50隻が通過した。拡張工事によって、将来の通航量は年3万3千隻に増やす見通し。(共同)
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地中海とスエズ湾、紅海、そしてインド洋を結ぶ世界最大の水平海洋運河で、アジアとアフリカの海峡をなすスエズ地峡を貫く。地峡部の長さは162.5キロメートル、南北の進入用水路設備を含めると全長195キロメートル。
[酒井傳六・鈴木聡士]
スエズ運河の歴史は、世界の交通、そして各国の政治・経済・軍事等のさまざまな思惑が交錯する結節点であったことに大きく影響されている。スエズ運河の最初の建設時期は、紀元前2000年ごろといわれ、古代エジプト第12王朝の王センウスレト1世が飲料・農業用水の確保などを目的として運河を掘り、ナイル川と紅海を結び付けたとされる。このコースは、ナイル東端の支流の要地ザガジグに発し、ワディ・ツミラト凹地を東進してティムサ湖に入り、ついで南下してビター湖を経て、スエズ湾、紅海に達するものであったといわれている(紀元前600年ごろに建設されたという説もあるが、これによると、第26王朝の王ネコ2世が建設したが途中で放棄し、それを第27王朝の王ダリウス1世が引継ぎ完成させたという)。
この運河はその後継続的に活用されたが、政治および軍事的理由などにより8世紀以降放置されて土砂に埋まった。15世紀に喜望峰回りの航路が発見されて、この航路による東西交易が活発になると、地中海のもっとも精力的な通商民族ベネチア人が、スエズ地峡を掘って地中海と紅海を直結する短距離経路をつくるようエジプトのスルタンに提案したが拒否された。しかしその後、この考えはことあるごとにヨーロッパ人をひきつけた。
1798年12月30日、ナポレオンのスエズ地区視察隊はナイル川と紅海を結ぶ古代運河の跡を発見した。このことがきっかけとなり、地中海と紅海を結ぶ直行運河の建設の可能性を探るため、建築家ル・ペール率いる調査隊がスエズ地峡部のさまざまな調査を行ったが、その結果、二つの海の水位差を9.9メートルであると見誤り、この報告によって建設を断念するに至った。しかし、この人類史上初の専門的調査が、1832年にエジプトへ領事代理として赴任したフランス人フェルディナン・ド・レセップスの気持ちを刺激した。さらに1847年、技師リナン・ベイの調査によって二つの海の水位差はほとんどないということが報告された。
1849年に駐ローマ大使を最後に外交官生活を離れたレセップスは直行運河の構想を進めていた。そして1854年、サイード・パシャが総督に即位し、このことが直行運河実現の第一歩となった。サイード・パシャは少年時代、レセップスを教師としてフランス語と文化を学んでおり、レセップスと特別の友好関係にあった。そしてレセップスはこの機会をとらえて直行運河の建設を実行に移した。同年11月30日、レセップスは総督から建設許可書を受け取った。この許可書のなかには、設立される万国スエズ海洋運河会社の権利期限(99年間)や、運河の国際無差別性と自由航路などの基本条件が示された。
この計画に対してイギリスは、エジプト以東インドに至るイギリスの権益が脅かされるとの不安から、さらには1850年にアレクサンドリア―カイロ―スエズを結ぶ鉄道建設を始めていたことなどから強硬な反対運動を始めた。エジプト総督と宗主国のオスマン・トルコ皇帝はイギリスからさまざまな形の圧力を受けたために、トルコ皇帝が最終的工事許可書を出ししぶり、計画はしばしば危機に見舞われた。しかしレセップスは1858年12月15日スエズ運河会社を設立し、トルコ皇帝の許可を待たずに翌年4月25日に地中海側の出発点(今日のポート・サイド)で起工式を行った。イギリスの妨害はやまず、このためトルコ皇帝とスエズ運河会社が対立し、さらにはエジプト総督も工事中止命令を出した。この事態はナポレオン3世の仲裁(1864)によって改善され、1866年に新たな協定が調印された。この協定のなかで初めて「スエズ運河会社はエジプトの会社であり、エジプトの法と習慣で律せられる」という内容が明記された。また同年、トルコ皇帝の最終工事許可書が発行された。かくして運河は開通し、1869年11月17日、世界諸国の元首、貴顕名士を招いて盛大な開通式が行われた。
1869年スエズ運河が開通した当時、イギリスの自由党グラッドストーン内閣(1868~1874)は、かつて同じ自由党のパーマストン内閣がその建設に強硬に反対を唱えていたのに対し、公平にスエズ運河の世界史的価値を認めてレセップスを支持した。外務大臣は賞賛と祝賀の電報をレセップスに送った。1855年以来レセップスをもっとも悩ませた「イギリスの敵意」はこのとき終わり、以来イギリスは最大の運河利用国となり、運河会社に発言権を持つようになった。
1875年、エジプト副王イスマーイール・パシャが財政上の理由から運河会社の持株17万7000株を売りに出したときも、イギリスは躊躇(ちゅうちょ)することなくこれを買い入れた。会社全体の40万株の半分に近い数である。続いて起こったエジプト国庫の赤字増大(1876)、イギリス・フランス両国によるエジプト財政の管理(1878)、副王イスマーイールの強制退位(1879)と続く一連のできごとは、一方でイギリス・フランス間の協調を促し、他方でエジプト国民の民族意識に火をつけた。その結果、1882年にアレクサンドリアで反ヨーロッパ人暴動が起き、民族主義者である軍人オラビ・パシャの指揮する軍が介入、約50人のヨーロッパ人の死者が出た。イギリスはヨーロッパ人の安全とスエズ運河の通航確保という名目を挙げてエジプトに出兵し、スエズ運河地帯を占拠、通航を2日間禁止した。通航禁止の解除はレセップスの強硬な抗議で実現したが、これを契機として通航の自由に関する諸国間協定の必要が広く認識され、1888年にヨーロッパ列強9か国による条約がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)で調印された。各国はただちに批准したが、イギリスだけは軍事占領のために批准を延ばした。イギリスの批准が終わり条約が有効に機能するようになったのは1904年のイギリス・フランス協商調印後である。その後もイギリスの占領は続き、第一次世界大戦では1日、第二次世界大戦では断続的に計76日間運河が閉鎖された。
イギリスはまた、1936年のイギリス・エジプト条約でスエズ運河地帯の駐留権を適法化した。これに対し1952年のエジプト革命で登場したナセル中佐と、1953年6月に大統領兼首相に就任したナギブ将軍らは、早期撤兵のための協定をイギリスに承認させ(1954)、これに基づいた撤兵が1956年6月に終わって、実に72年ぶりに運河地帯はエジプトの主権下に戻った。
1956年7月19日、アメリカがアスワン・ハイ・ダムへの融資を撤回する旨をエジプトに通告し、イギリスと世界銀行もこれに倣ったため、同月26日ナセル大統領はスエズ運河会社(契約上は1968年まで権利があった)の国有化を宣し、その収益によってアスワン・ハイ・ダムをつくると宣言した。これを契機にイギリス、フランス、イスラエルによるエジプト攻撃(スエズ戦争または第二次中東戦争)が起こったが、エジプトの抵抗と国連の介入によって英、仏、イスラエルの軍隊は撤退し、国有化が確定、エジプトは旧会社に補償金を支払った。運河はスエズ戦争のために5か月間にわたって閉鎖された。1967年6月の第三次中東戦争で運河は再度閉鎖され、第四次中東戦争後の1975年6月、8年ぶりに再開された。さらに同年11月には第1期拡張工事が着手され、1980年12月に完成。引き続き第2期拡張工事が計画されていたが、イラン・イラク戦争(1980~1988年)、さらには湾岸危機と湾岸戦争(1990年8月~1991年2月)などの影響によってこの計画は凍結された。しかしエジプト政府は1991年7月末、第2期拡張工事計画を実現するため、世界銀行と日本に資金援助を求め、その後行われた第2期拡張工事によって、マンモスタンカーの航行も可能になった。さらに1996年エジプト政府は「スエズ架橋」計画を発表、日本はそれに対して4年間で総額118億円の無償資金協力を行うことで合意。1998年5月には、鹿島建設、日本鋼管(現、JFEスチール)、新日本製鉄(現、日本製鉄)3社の企業連合が、エジプト政府と受注契約を交わした。この架橋は、スエズ運河をまたぎ、エジプトとガザ、イスラエルを結ぶもので、全長約4キロメートル、橋部分約730メートル。2001年に完成した。
[酒井傳六・鈴木聡士]
1869年の運河開通に伴って、南アフリカの喜望峰回りの航路に比べて著しく距離が短縮された。リバプール―ボンベイ(現、ムンバイ)間で42%、リバプール―横浜間で24%の短縮となり、その分だけ輸送の日数と経費を減らすことになった。
おりしも帆船から蒸気船に移る時代であったこともあり、通航船の数は年とともに増え、1869年にはわずか10隻の通航であったものが1873年には1000隻を超えた。通航船の数はその後も増え続け、1976年に1万隻、1977年には2万隻台に達し、1982年には2万2811隻を数えて、1日当り62.5隻という通航量に達した。これに伴い積載貨物の量も増え、東西の物資の交流に大きな役割を果たしている。第二次世界大戦前の主要貨物は食料品、原材料、工業製品などであったが、大戦後は石油の占める比率が飛躍的に増大し、オイルタンカーの通航数は1975年に69隻、1977年に2000隻、1981年に3000隻、1983年には3602隻に達し、ヨーロッパで消費される石油の大半がこの水路を通って運ばれている。
一方、通航料金がエジプトに与える経済効果は大きく、1975年に9900万ドルの収益であったものが1979年には5億8700万ドル、1982年には9億5600万ドル、1994年には約19億ドルに達した。通航料金は、在外エジプト人労働者からの送金と輸出品に並び、エジプトの重要な外貨収入源となっている。
このように、レセップスが起工式にエジプト人労働者に向かって言った「あなたがたが運ぶものは、単なる土であるにとどまらないのであります。あなたがたは、家庭とこの美しい国に繁栄を運ぶのであります」ということばは真実のものとなった。
[酒井傳六・鈴木聡士]
スエズ運河はスエズ地峡部を開削して地中海と紅海を結ぶ全長162.5キロメートルの水平式運河である。
最初の専門的調査は、18世紀末にナポレオンの命令によりル・ペールによって行われたものであるが、この調査の結果では、紅海のほうが地中海よりも9.9メートル高いということであった。これに対しナポレオン調査団に属する数学者のJ・B・ジョゼフ・フーリエとピエール・シモン・ラプラスは、二つの海は物理学的にみて同一水位にあるはずだと主張した。しかし先の測定値は以降50年にわたり、学者と技術者を拘束することとなった。そして1845年、技師リナン・ベイはスエズ地峡を調査し、1847年に地中海と紅海の間に水位差がほとんどないことを報告した。その後、1855年10月にはスエズ運河調査国際委員会がパリで結成され、さらに1859年4月25日、起工式が地中海の突端の地で行われた。
この工事は壮大な夢であったが、土木技術上の目新しい試みはほとんどなかった。掘削した陸地の最高所でも標高15メートルにすぎず、運河の約5分の1は天然の湖水であり、路線も単調で北側はほとんど直線であった。土質は砂や粘土で人力掘削が可能であったため、1859年の工事開始後1863年までは、当時のエジプト総督サイード・パシャにより月々約2万5000人の労務者が提供され、ラクダによる土砂運搬が行われた。しかし、総督がサイード・パシャからイスマーイール・パシャにかわったことや、1863年にトルコの外務大臣からレセップスに対して労務者の強制労働の廃止、2万5000人の労務者を6000人に減らすこと、労務者の給料を上げることなどの申し入れがなされたため、その後は機械の導入が積極的に進められた。その代表的なものは蒸気機関を備えた60台のバケット浚渫(しゅんせつ)機であり、70メートルのシュート(樋(とい))によって、さらった土砂を両岸に積み上げることができた。
しかし、二つの海の合流は単純なものではなかった。合流に伴う波動と衝撃は予想を超えるものであった。それは地中海の水位が紅海のそれより25センチメートル低かったことによるものである。堤防は多くの場所で崩れ、困難な堤防補強と再建工事が不安のなかで続けられた。1869年8月18日、ようやく水の動きが安定した。かくしてスエズ運河は、同年11月17日に約7500万立方メートルの総土工量を掘削して完成した。しかしその陰には12万人以上の犠牲者を出したといわれている。
形状は薄い台形の断面形状であり、1869年の開通当初は、幅22メートル、深さ8メートル、喫水深5メートルであった。その後漸次拡張され、スエズ運河会社がエジプトにより国有化された1956年には延長171キロメートル、深さ13メートルないし15メートル、水表面の幅140メートルで、喫水深11メートルのところの幅は60メートル、ある地区では100メートルを超えていた。1975年11月からはエジプト政府によって第1期拡張工事が着手され、日本などの援助を受けて1980年12月に完成した。この工事の完成記念式典でサダト大統領は、「この拡幅・増深計画は技術、工事、資金を含め、日本の貢献によって実現できた」と日本の協力を讃えた。この工事の結果、深さ19.5メートル、幅160メートルとなり、原油積載量15万トン級のタンカーの通航が可能になった。エジプト政府はさらに第2期拡張工事を実施、これによりマンモスタンカーの航行も可能となった。その後、1994年、1996年、2001年に拡張工事を継続し、2010年時点においては、全長193.30キロメートル、深さ24メートル、幅205メートルとなり、原油積載量24万トン級のタンカーの通行が可能となった。
[五十嵐日出夫・鈴木聡士]
『酒井傳六著『スエズ運河』(1992・朝日新聞社)』▽『土木学会編『土木用語大辞典』(1999・技報堂出版)』
アジアとアフリカの両大陸の境界にあるスエズ地峡を貫く運河。アラビア語ではQanāt al-Suways。地中海と紅海を航行可能な運河で結ぶ必要性は歴史とともに古くから痛感されていた。事実,紀元前の古代エジプト王朝のころやアラブ・イスラム教徒がエジプトに侵入した直後の7世紀半ばの一時期に,実際に地中海からナイル川を経て紅海と結ぶ運河が掘削されていたことが知られている。これらの運河はその後荒廃し,砂漠に埋もれてしまった。
スエズ地峡を南北に掘り割って地中海と紅海を結ぶ現在のような運河は,19世紀以降英仏などヨーロッパ列強によるアジアでの植民地経営が発展し,ヨーロッパとアジアの間の物資移動と連絡が迅速化される必要性が強まる中から生まれた。
喜望峰回りの航路に代わって地中海からエジプトを通って紅海に至るルートのうち,経由するエジプトをどのようにして抜けるかをめぐり,イギリスは鉄道計画(アレクサンドリア-カイロ-スエズ)を推進したのに対し,フランスはスエズ運河計画を推進し,エジプトにそれぞれの計画を採用させようとして抗争した。エジプトはまずイギリスの鉄道計画を採用したのであるが,鉄道建設がまだ途中の段階でフランスのスエズ運河計画をも採用し,それへの出資を約束した。エジプトはこの二大プロジェクトに要する費用を英仏などからの借入れに頼ったことから財政的に行き詰まり,やがてイギリスの経済的・政治的支配を許すことになるのである。
フランス人レセップスは1854年スエズ運河の利権を入手し,58年にスエズ運河会社を設立,翌59年には建設工事に着工した。10年の工期を要して69年総延長162.5km(その後付け加えられたポート・サイド・アプローチ・チャンネルとスエズ・エントランス・チャンネル部分も含めれば188.5km)のスエズ運河は完工した。工事は,〈どぶさらい人足の壮大な夢〉といわれたように,土木技術上の新しい点はとくにみられなかった。
エジプトは当初スエズ運河会社の株式44.4%を所有し,最大の株主であったが,イギリスはエジプトが財政困難に陥ったことにつけ込み,75年エジプトの持株をそっくり買い取り,第2次世界大戦までイギリスはスエズ運河通行船舶の過半を占め,経済的利益を享受した。スエズ運河への発言権を失ったエジプトはその後イギリスによって植民地化され,スエズ運河に対する主権を回復するのは,第2次大戦後ナーセルの指導で成就したエジプト革命(1952)の後である。
すなわち,1956年エジプトはスエズ運河収益をアスワン・ハイ・ダム建設費に当てるため,スエズ運河国有化を宣言した。スエズ運河会社の大株主であった英仏はこれに反発し,イスラエルを語らってスエズ運河地帯に出兵した(第2次中東戦争またはスエズ動乱)。しかし,英・仏・イスラエルは国際世論の憤激に屈して撤兵したため,エジプトはようやくスエズ運河の主権を回復した。この戦乱でスエズ運河は5ヵ月間閉鎖された。
67年の第3次中東戦争でシナイ半島がイスラエルによって占領され,スエズ運河は再度閉鎖された。再開されたのは8年後の75年6月であった。
1950年代半ば以降,石油を運ぶタンカーがスエズ運河を通航する船舶の中でもっとも重要となっていた。しかしスエズ運河が閉鎖されていた8年の間に,タンカーの大型化がすすみ,スエズ運河を通航できない大型タンカーが多くなっていた。エジプトはスエズ運河の再開についで,運河の拡幅・増深工事を実施し,80年末までに水深を14.5mから19.5mに,有効幅(水深11m)を99mから160mとする工事を完工した。これで空船で30万トン(満載で15万トン)クラスのタンカーまでが通航可能となった。この工事での日本政府と民間企業の資金・技術面での貢献は大きかった。タンカーはさらに50万トン,70万トンと大型化がすすみつつあるため,スエズ運河の拡幅・増深も幅190m,水深23.5mを目ざす工事が計画されている。スエズ運河の通航料収入は閉鎖前の1966年で2.4億ドル,79年6億ドル,81年には9億ドルで,エジプトにとって貴重な外貨収入源となっている。
執筆者:石田 進
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地中海と紅海とを結ぶ著名な運河(全長約160km)。1869年フランス人技師レセップスによって完成。75年,イギリスは,スエズ運河株式会社の財政難に乗じてエジプト政府の保有株(44%)を買収し,運河に対する発言権を確保した。82年には内乱に乗じて運河地帯を軍事占領,エジプトをその支配下に収めた。1952年,ナギブ将軍による民族革命が成功するや,イギリスの勢力は退潮を余儀なくされ,56年運河はついにナセルによって国有化され,ここにはじめてスエズ運河は本来の持ち主であるエジプト人の手に帰した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…第2次大戦後にはボルガ・ドン運河(1952)が開かれ,この両大河の航路はボルゴグラードの西方ではじめて連結された。 以上のような諸地域のほかに,世界の交通上きわめて重要なものにスエズ運河(1869)とパナマ運河(1914)とがある(国際運河)。前者は水平運河,後者は閘門を備えた階段状の運河であるが,ともに2大陸を連ねる地峡に開削されたので,海上航路を著しく短縮して世界の幹線航路に革命をもたらした。…
…ティー・クリッパーは年を追って改良され,69年に出現したカティーサークで頂点に達した。しかし,同じころ開通したスエズ運河によって汽船での中国茶航路が開かれたため,ティー・クリッパーは急速に衰退した。汽船では燃料補給が困難だったオーストラリア航路に転進した帆船は,羊毛を運んでウール・クリッパーと呼ばれた。…
…また,国際河川の場合と違って,国際運河については,一般的な条約はなく,個々の条約で国際化が規定される。現存する国際運河は,スエズ運河とパナマ運河である。 地中海と紅海を結ぶスエズ運河を国際化したのは,領域国トルコ(現在はエジプト)など9ヵ国の間で締結された1888年のコンスタンティノープル条約である。…
…19世紀半ば〈開国〉を強いられたアラブ地域も,同様に分割と領有にさらされた。とりわけスエズ運河の開通(1869)は,アジア・ヨーロッパ間の貿易関係に革命的な変化をもたらしたのみならず,アラブ地域内部の構造変革を促進し,やはりモノカルチャー型経済の形成を強要することになった。 アジアにおいては,中国に対する〈門戸開放政策(門戸開放主義)〉が,中国の事実上の分割を招いた。…
…エジプト北東部,スエズ運河の地中海側の入口にある都市。人口46万(1992)。…
…1860年ナポリのロスチャイルド家は閉鎖され,フランクフルト,ウィーンでも家運は衰退に向かった。しかしパリでは67年クレディ・モビリエの瓦解後,ロスチャイルド家は再び指導的な地位を回復し,ロンドンでもクリミア戦争での公債引受け,スエズ運河購入にあたっての金融などで依然として力を発揮した。普仏戦争後の講和交渉でフランスの償金支払を保証し,また早期支払を可能にしたのもロスチャイルド家の金融力であった。…
※「スエズ運河」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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