メキシコの画家。12月29日チワワ州に生まれる。サン・カルロス美術学校で絵を学んだ。在学中からメキシコ革命運動、社会主義の闘士、指導者、芸術家として活動したが、その後、大使館付武官としてヨーロッパに滞在(1919~22)し、当時のパリ前衛絵画に接し、帰国後はリベラやオロスコとともに美術家組合をつくり、壁画運動に取り組んだ。スペイン内戦が勃発(ぼっぱつ)すると、共和派側に味方して参戦したが、共和派敗北でメキシコに帰国。1940年にはメキシコ亡命中のトロツキーの家を襲撃する事件を起こした。政治活動のため幾度も投獄されたり国外追放を受けたが、そのたびに北米や南米で壁画を制作した。画風はダイナミックなリアリズムを基調としているが、ヨーロッパ的美学を無視し、むしろアルカイックな伝統から奇怪で衝撃的な造形や空間を引き出し、平面に飽き足らず突出をつくったり、絵具のかわりにエナメルを使用するなど、リベラ、オロスコ亡きあとも運動を野心的に推し進め、メキシコ壁画運動の三大巨匠の一人に数えられる。主要作品にメキシコ市のプレパラトリア(国立高校)、大学、ブエノス・アイレスやロサンゼルス美術学校、アート・センターなどの壁画、大きな板にデュコ(自動車塗料)で描いた『叫びのこだま』などがある。晩年はメキシコ共産党の指導者であったが、74年1月6日に没し、国葬をもって遇せられた。
[深作光貞]
メキシコの画家。オロスコ,リベラとともに壁画の巨匠の一人。メキシコ革命に鼓舞され,1911年アカデミア・デ・サン・カルロスの教育改革をめざすストライキを指導。14年にはカランサ軍に入り,後に大佐にまで昇進する。19年パリ大使館付文化担当官として赴任,当地でリベラと接触し,共にイタリア壁画を研究する。22年に帰国し,国立高等学校の壁画を制作する一方,革命的職業画家・彫刻家・版画家組合を組織。その後政治活動に没頭し逮捕される。機械技術をとり入れることにより壁画の現代的意味を強化しようと,31年カリフォルニアに行き化学素材とスプレーガンを使った技法の研究に熱中する。36年には野外壁画のための新材料開発のための実験工房をニューヨークに設置。スペイン内戦参加後,トロツキーの暗殺事件にかかわって国外追放され,チリ,ハバナで制作。1944年帰国。彼の壁画表現は直接的で,色も刺激的で構図も平面の限界を追求している。60年にも政治的活動によって10年間投獄されたが,この間も精力的に制作している。
→壁画運動
執筆者:加藤 薫
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1896~1974
メキシコ革命後の壁画運動の指導者として,リベラ,オロスコらとともに活躍した現代画家。早くから社会主義運動に参加し,1919年から3年間,メキシコ大使館の文化担当官としてパリに滞在中,前衛絵画の影響を受けた。帰国後,メキシコの土着社会の形象を,ヨーロッパ的な美学を無視した強烈な革命的技法によって壁画に表現した。数回の投獄や追放を受けながらも,南北アメリカの各地で制作を続けた。晩年にメキシコ市で完成した「ポリフォルム」は,面積4500m2,世界最大の絵画である。
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…メキシコ革命(1911)後の新時代にふさわしい美術を創造し,革命の意義を壁画に描き,広く長く大衆の間に伝えようと考えたシケイロスやリベラやオロスコを中心にメキシコで興った美術運動el movimiento muralismo。メキシコ革命を記念する壁画構想はすでに1910年代からあったが,その実現は22年,時の文部大臣J.バスコンセロスによって国立高等学校の壁面が提供されたときに始まる。…
…そのなかでもハイチやニカラグアの素朴画は注目に値する。この時代,西欧モダニズムに対抗できる運動を確立したのはメキシコで,D.リベラ,オロスコ,シケイロスが中心となった壁画運動であった。メキシコはまたJ.G.ポサダに代表される挿絵や版画などの領域ですぐれた作品を生み出している。…
※「シケイロス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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