リベラ(読み)りべら(英語表記)Mariano Rivera

デジタル大辞泉 「リベラ」の意味・読み・例文・類語

リベラ(Rivera)

ウルグアイ北部の都市。ブラジルとの国境に位置し、同国のサンタナ‐ド‐リブラメントという都市と隣接する。両国の友好を記念して建てられたオベリスクがある。首都モンテビデオとブラジルを結ぶ鉄道・幹線道路が通る交通の要地。周辺に農牧地帯が広がり、農産物の集散地となっている。

リベラ(Diego Rivera)

[1886~1957]メキシコの画家。力強い色彩と造形感覚で、メキシコの神話や歴史、民衆の生活をテーマに多くの壁画を制作。

リベラ(José de Ribera)

[1591~1652]スペインの画家。主にイタリアで活躍。劇的な明暗法と徹底した写実を特色とし、宗教画を多く描いた。

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精選版 日本国語大辞典 「リベラ」の意味・読み・例文・類語

リベラ

  1. [ 一 ] ( Diego Rivera ディエゴ━ ) メキシコの画家。ヨーロッパでキュービズムの影響を受けたのち帰国し、民衆芸術と社会主義思想の影響を強く受けたダイナミックな作品を制作。多くの壁画制作によって知られる。代表作は大フレスコ「アラメダ公園における日曜の午後の夢」など。(一八八六‐一九五七
  2. [ 二 ] ( José (Jusepe) de Ribera ホセ(ジュゼペ)=デ━ ) スペインの画家。スペインの支配下のナポリで活躍。カラバッジョの作風を継承し、明暗の巧みな対比と鋭い写実主義をもって、多くの宗教画を制作。スペイン、イタリアのバロック絵画に大きな影響を及ぼす。代表作は「マギーの礼拝」など。(一五九一‐一六五二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リベラ」の意味・わかりやすい解説

リベラ(Mariano Rivera)
りべら
Mariano Rivera
(1969― )

アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のニューヨーク・ヤンキースで投手としてプレー。時速150キロメートル近いカット・ボール(小さく変化する速球)を武器とする名抑え投手(クローザー)である。

 11月29日、パナマのパナマ市で生まれる。1990年にドラフト外でヤンキースに入団。マイナー・リーグのルーキー級で、7回参考記録ながら、プロ1年目からノーヒットノーランを達成して才能の片鱗(へんりん)を見せつけた。1992年から先発専任となり、95年にはまたも5回参考記録ながらAAA級でノーヒットノーランを達成した。その年のシーズン途中から大リーグに昇格。先発10試合、救援9試合と双方で起用され、5勝3敗の成績を残した。1996年からは救援専任となり、当時の抑え投手ジョン・ウェッテランドJohn Karl Wetteland(1966― )につなぐセットアップ投手として大活躍。8勝3敗、5セーブ、防御率2.09、投球回数107と3分の2で奪三振130をマークし、ヤンキースのワールド・シリーズ制覇に貢献した。1997年からは、テキサス・レンジャーズへ移籍したウェッテランドにかわって抑え役となり、99年(45セーブ)と2001年(50セーブ)にはセーブ王を獲得するなど、98年からのワールド・シリーズ3連覇の原動力となった。2002年は右大腿部(だいたいぶ)や右肩の故障で28セーブと不調のシーズンとなったが、03年には40セーブをあげ、復活。2004年は球団新記録となる53セーブ、05年は43セーブをマークして8年連続地区優勝に貢献した。

[山下 健]

2006年以降

2006年は救援投手として63試合に登板し、防御率1.80、34セーブ。防御率は2003年以降4年連続1点台をキープ。また、7月の対シカゴ・ホワイトソックス戦では、大リーグ史上4人目となる通算400セーブを達成した。翌07年は67試合に登板したが、30セーブに終わり、防御率も3.15。救援投手へ転向してから初めて防御率が3点台となった。

 2007年までの通算成績は、登板試合787、投球回953、62勝44敗、セーブ443、防御率2.35、奪三振857、完投0、完封0。獲得したタイトルは、最多セーブ3回。

[編集部]


リベラ(Diego Rivera)
りべら
Diego Rivera
(1886―1957)

メキシコの画家。オロスコ、シケイロス、タマヨとともにメキシコ画壇四大巨匠の1人。メキシコ市のサン・カルロス美術学校で絵画を学んだのち渡欧し、パリでピカソ、ブラック、クレーらと知り合い、キュビスムの洗礼を受けた。その後イタリア・ルネサンスの大壁画を実際に見て、特権階層美術愛好者に気に入られる気遣いをしながら小さなタブローに絵を描いていることに疑問を抱き、メキシコ内乱終結とともに1922年帰国すると、シケイロスらと美術家組合をつくり、活発な壁画運動を展開した。とくにメキシコの神話、歴史、庶民生活を取り上げて、たくましい量感と土俗的エネルギーに満ちた壁画にした。代表作にプラド・ホテルの大フレスコ『アラメダ公園の日曜の夢』、クエルナカバのコルテス・パラシオの『農民指導者サパタ』、文部省内廊の連作などの壁画、タブローでは『刺繍(ししゅう)する女たち』『ソチミルコの花運び』などがある。

[深作光貞]


リベラ(JoséEustacio Rivera)
りべら
JoséEustacio Rivera
(1889―1928)

コロンビアの詩人、小説家。法律を学び、その仕事で平原地帯に、続いてベネズエラとの国境制定委員としてアマゾンに赴く。その強烈な体験をもとに『大渦』(1924)を発表。これは、都会を逃れ平原に、そして密林に入り込んだ若い恋人たちの目を通して、自然の掟(おきて)に従う牧童や過酷な労働を強いられるゴム林労働者たちの姿を、そして西欧文化が密林の前ではいかに無力なものであるかを描いたもの。この作品の真の主人公は、無の大渦に人間を呑(の)み込むアマゾンの大自然といえよう。この一作で世界的名声を獲得したが、ほかに、近代主義(モデルニスモ)の香り漂う唯一のソネット集『約束の地』(1921)がある。

[安藤哲行]


リベラ(Miguel Primo de Rivera y Orbaneja)
りべら

プリモ・デ・リベラ


リベラ(José Antonio Primo de Rivera y Sáenz de Heredia)
りべら

プリモ・デ・リベラ

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百科事典マイペディア 「リベラ」の意味・わかりやすい解説

リベラ

メキシコの画家。グアナフアト生れ。サン・カルロス美術学校でアカデミズム絵画を学んだのち1907年渡欧,キュビスムの画家と交わる。一方,イタリアでルネサンスのフレスコ画に接する。1921年帰国し,オロスコシケイロスらと画家組合を組織して壁画運動を展開。メキシコ民衆の生活や歴史に取材したものが多く,またメキシコ革命をたたえる大壁画を官公庁や学校などに描いた。1929年フリーダ・カーロ〔1907‐1954〕と結婚。1930年‐1933年にはデトロイト美術研究所をはじめ米国でも壁画を制作したが,社会主義的なテーマゆえに破壊されたものもある。1937年,メキシコに亡命したトロツキーをかくまうなど,自らの思想に忠実でありつづけた。
→関連項目石垣栄太郎ウェストンカーロシャーンネベルソンバスコンセロス

リベラ

スペインの画家。バレンシア県のハーティバ生れ。バレンシアでリバルタに学んだのちイタリアに行き,1616年以後ほとんどナポリに定住し,スペイン美術とイタリア美術の仲介者的役割を果たした。そのためイタリア風にジュゼッペと呼ばれる。作風はカラバッジョ風の鋭く劇的な明暗の対比を特色とするが,晩年の色彩は同時代のムリーリョを思わせる明るさを見せている。代表作に《聖ヒエロニムスと天使》(1626年,ナポリ,カポディモンテ美術館蔵),《聖アンデレ》(1630年ころ,プラド美術館蔵),《えび足の少年》(1642年,ルーブル美術館蔵)などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「リベラ」の意味・わかりやすい解説

リベラ
José de Ribera
生没年:1591-1652

スペインの画家。バレンシア県ハティバJátivaに生まれ,ナポリ近郊ポシリポPosillipo没。リバルタの工房で学んだという説もあるが不明。若くしてイタリアに渡り,スペイン領であったロンバルディアとパルマで数年を過ごし,遅くとも1615年にはローマにいた。その間,チンクエチェント(16世紀)の巨匠たちやカラバッジョの作品,さらに古典彫刻を学び,16-17年以後スペインの副王領ナポリに定住,歴代副王の宮廷画家として活躍した。彼の名ホセがイタリア風にジュゼッペJusepeと呼ばれるのも,ロ・スパニョレットlo Spagnoletto(〈小柄なスペイン人〉の意)の愛称で知られるのもそのためである。また,聖人像と殉教図を主体とした宗教画のほかに,肖像画,寓意画,神話画,古典的主題,風俗画と,対抗宗教改革時代のスペイン人画家としては例外的に作域が広いのも,イタリアで制作したことによる。卓絶したデッサン力,構図の巧みさ,対象の自然主義的な解釈などの点で,並ぶ者のない冴えを見せた。

 画風は時代によって変化するが,35年ころまでは,カラバッジョの明暗法と自然主義をより深化させ,厚塗りによる分析的なレアリスム技法で,《バルトロメオの殉教》《アンドレアの殉教》など多くの殉教図を描いた。それ以後も,主題や伝統的な図像が要求する場合は,明暗法を用いたが,35年からは《処女懐胎》《ヤコブの夢》のように,対象表現は柔らかさを,色彩はベネチア派風の輝きを増し,構図も雄大になり,風景に対する関心も強まってくる。この傾向は,51年に完成した大作《使徒たちの聖体拝領》(ナポリ,サン・マルティーノ美術館)において集大成される。リベラの作品は相当数が本国向けで,スペイン・バロック絵画の発展に影響を与えた。彼は,ヨーロッパ諸国で評価された最初のスペイン人画家であるが,とくに版画は,デッサンの優れた手本として尊重された。
執筆者:


リベラ
Diego Rivera
生没年:1886-1957

メキシコの画家。グアナフアト生れ。オロスコ,シケイロスとともに壁画の画家として有名。1896年サン・カルロス美術学校入学。1907年奨学金を得てマドリード,パリに滞在する。この時期にキュビスム風の絵画を描く。20年シケイロスに出会い,ヨーロッパ絵画の移入に終始していたメキシコ画壇に抗して革命後の新時代にふさわしい芸術を民衆のために興そうという考えに共鳴し,壁画研究のためイタリアを旅行し,21年帰国するや,国立高等学校(1922),チャピンゴ農学校(1926-27),国立宮殿(1925-35)などの壁画を精力的に制作した。30-33年にはアメリカ合衆国でも壁画を制作したが,社会主義のテーマを真正面より描いたため破壊されたものもある。長くうもれていた民衆芸術の先駆者J.G.ポサダを再評価したのも彼である。油彩画にも見るべき作品が多く,画面構成は正統的であるが,対象を量塊として把握表現する画面処理とそれをきわだたせる力強い線は彼独特のものである。メキシコ市の南にリベラ自身が設計したアナワカリ美術館があり,彼の収集した古代メキシコの考古美術品の逸品が多く展示されている。
壁画運動
執筆者:


リベラ
José Eustasio Rivera
生没年:1889-1928

コロンビアの作家。オリノコ川の平原(リャノ)とアマゾンの低地を舞台にし,ゴム園の労働者の生態を描いた《大渦巻》(1924)は,ガリェゴスの《ドニャ・バルバラ》とともに〈大地小説〉の傑作と評価されている。彼自身も熱帯密林の生活を体験し,この作品は主人公アルトゥロ・コバの姿をかりた自伝小説でもある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リベラ」の意味・わかりやすい解説

リベラ
Rivera, Diego

[生]1886.12.8. グアナフアト
[没]1957.11.25. メキシコシティー
メキシコの画家。サン・カルロス美術学校で学んだのち政府の奨学金を得てヨーロッパに長期留学。 1911~20年スペインからパリに出てキュビスムの影響を受け,20~21年イタリア・ルネサンスのフレスコ画を学び,21年帰国後,社会主義政府の新しい建造物のために壁画装飾を担当。メキシコシティーの国立宮殿,文部省などの大壁画を制作した。またアメリカにおいても,30~33年カリフォルニアの株式取引所,デトロイトのインスティテュート・オブ・アートなどの壁画を手がけた。彼の社会主義リアリズムは民族芸術の形式と階級闘争の諸課題を結びつけることによって実現され,これによってメキシコの現代芸術を力強く推進した。夫人のフリーダ・カーロもメキシコの代表的画家として知られる。

リベラ
Ribera, José(Jusepe) de

[生]1591.2.17. 〈洗礼〉ハティバ
[没]1652.9.2. ナポリ
イタリアで活躍したスペインの画家。バレンシアで F.リバルタに師事したとされる。若くしてイタリアに渡り,パルマ,パドバ,ローマで修業し,当地ではロスパニョレット (小さいスペイン人) と呼ばれた。 M.カラバッジオの深い明暗法の影響を受けた写実主義的作風を確立。 1616年以降スペイン支配下のナポリに定住。宮廷や修道院の壁画を描き,版画やデッサンなども多数制作。主要作品は『聖アンドレアスの殉教』 (1628,ブダペスト国立美術館) ,『曲り足の少年』 (42,ルーブル美術館) 。

リベラ
Rivera, José Fructuoso

[生]1790? パイサンドゥ
[没]1854
ウルグアイの政治家,軍人。大統領 (在任 1830~35,38~42) 。 J.アルティガスとともにスペインからの独立運動を指導。 1830年初代大統領,38年第2代大統領。コロラド (赤) 党を組織し,M.オリベのブランコ (白) 党と派閥争いを展開,43年アルゼンチンの独裁者 J.ロサスに支援されたオリベによりモンテビデオで包囲攻撃され,45年の戦闘に敗れてブラジルに亡命,53年ウルグアイ臨時政府高官の一人に加えられた。

リベラ
Rivera, José Eustasio

[生]1889.2.19. ネイバ
[没]1928.2.19. ニューヨーク
コロンビアの小説家。近代主義的な作風で熱帯の自然と生活をうたい上げたソネット集『約束の地』 Tierra de promisión (1921) で詩人として出発。その後アマゾン川上流の奥地に旅行,この体験をもとに,圧倒的な大自然の脅威のもとで人間性を喪失していくゴム園労働者の悲惨な現実を描いた『渦巻』 La vorágine (24) で国際的な名声を得た。

リベラ
Rivera

ウルグアイ北部,リベラ県の県都。ブラジルとの国境沿いに連なるサンタアナ丘陵上に位置する町で,国境をへだててサンタナドリブラメントに相対する。背後に農牧地帯を控え,その商工業中心地として,穀物,野菜,果実,ウシなどを集散し,織物,たばこ,装飾タイルなどの工場がある。首都モンテビデオからドゥラスノ,タクアレンボを経てブラジルへ通じる鉄道,道路が通り,ブラジルとの取引も盛ん。人口5万 6335 (1985) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リベラ」の解説

リベラ
Diego Rivera

1886~1957

シケイロス,オロスコなどとともに,メキシコ革命の壁画運動を推進した社会主義の画家。1907年渡欧し,ピカソマティスモディリャーニなどと接触し,キュービズムの影響を受けた。ミュンヒェン,イタリア,ロシアにも滞在したが,1921年帰国してからは,ヨーロッパ絵画を超越するダイナミックな表現形式によって,メキシコ革命の民衆やアステカ文明,マヤ文明を主題とする壁画を描いた。メキシコ市の美術殿堂,国立自治大学,国立宮殿などに代表的作品が多い。

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旺文社世界史事典 三訂版 「リベラ」の解説

リベラ

プリモ=デ=リベラ

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世界大百科事典(旧版)内のリベラの言及

【バロック美術】より

…また北方のトリノでは17世紀末から18世紀にかけて,ユバラ,グアリーニなどの大建築家が輩出し,装飾画家,スタッコ・デザイナーも空前の盛況を呈した。
[スペイン]
 スペインは,その植民地であったナポリを通じて直接にカラバッジョ主義をうけ入れ,J.deリベラ,スルバラン,ベラスケスなどはその影響のもとに,エル・グレコを代表とするマニエリスムを克服した。このうち,フェリペ4世の宮廷画家であったベラスケスは,ルーベンスとベネチア派の強い影響のもとに円熟した絵画様式を確立し,バロックにおける最大の画家の一人となった。…

【壁画運動】より

メキシコ革命(1911)後の新時代にふさわしい美術を創造し,革命の意義を壁画に描き,広く長く大衆の間に伝えようと考えたシケイロスリベラオロスコを中心にメキシコで興った美術運動el movimiento muralismo。メキシコ革命を記念する壁画構想はすでに1910年代からあったが,その実現は22年,時の文部大臣J.バスコンセロスによって国立高等学校の壁面が提供されたときに始まる。…

※「リベラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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