アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のニューヨーク・ヤンキースで投手としてプレー。時速150キロメートル近いカット・ボール(小さく変化する速球)を武器とする名抑え投手(クローザー)である。
11月29日、パナマのパナマ市で生まれる。1990年にドラフト外でヤンキースに入団。マイナー・リーグのルーキー級で、7回参考記録ながら、プロ1年目からノーヒットノーランを達成して才能の片鱗(へんりん)を見せつけた。1992年から先発専任となり、95年にはまたも5回参考記録ながらAAA級でノーヒットノーランを達成した。その年のシーズン途中から大リーグに昇格。先発10試合、救援9試合と双方で起用され、5勝3敗の成績を残した。1996年からは救援専任となり、当時の抑え投手ジョン・ウェッテランドJohn Karl Wetteland(1966― )につなぐセットアップ投手として大活躍。8勝3敗、5セーブ、防御率2.09、投球回数107と3分の2で奪三振130をマークし、ヤンキースのワールド・シリーズ制覇に貢献した。1997年からは、テキサス・レンジャーズへ移籍したウェッテランドにかわって抑え役となり、99年(45セーブ)と2001年(50セーブ)にはセーブ王を獲得するなど、98年からのワールド・シリーズ3連覇の原動力となった。2002年は右大腿部(だいたいぶ)や右肩の故障で28セーブと不調のシーズンとなったが、03年には40セーブをあげ、復活。2004年は球団新記録となる53セーブ、05年は43セーブをマークして8年連続地区優勝に貢献した。
[山下 健]
2006年は救援投手として63試合に登板し、防御率1.80、34セーブ。防御率は2003年以降4年連続1点台をキープ。また、7月の対シカゴ・ホワイトソックス戦では、大リーグ史上4人目となる通算400セーブを達成した。翌07年は67試合に登板したが、30セーブに終わり、防御率も3.15。救援投手へ転向してから初めて防御率が3点台となった。
2007年までの通算成績は、登板試合787、投球回953、62勝44敗、セーブ443、防御率2.35、奪三振857、完投0、完封0。獲得したタイトルは、最多セーブ3回。
[編集部]
メキシコの画家。オロスコ、シケイロス、タマヨとともにメキシコ画壇四大巨匠の1人。メキシコ市のサン・カルロス美術学校で絵画を学んだのち渡欧し、パリでピカソ、ブラック、クレーらと知り合い、キュビスムの洗礼を受けた。その後イタリア・ルネサンスの大壁画を実際に見て、特権階層美術愛好者に気に入られる気遣いをしながら小さなタブローに絵を描いていることに疑問を抱き、メキシコ内乱終結とともに1922年帰国すると、シケイロスらと美術家組合をつくり、活発な壁画運動を展開した。とくにメキシコの神話、歴史、庶民生活を取り上げて、たくましい量感と土俗的エネルギーに満ちた壁画にした。代表作にプラド・ホテルの大フレスコ『アラメダ公園の日曜の夢』、クエルナカバのコルテス・パラシオの『農民指導者サパタ』、文部省内廊の連作などの壁画、タブローでは『刺繍(ししゅう)する女たち』『ソチミルコの花運び』などがある。
[深作光貞]
コロンビアの詩人、小説家。法律を学び、その仕事で平原地帯に、続いてベネズエラとの国境制定委員としてアマゾンに赴く。その強烈な体験をもとに『大渦』(1924)を発表。これは、都会を逃れ平原に、そして密林に入り込んだ若い恋人たちの目を通して、自然の掟(おきて)に従う牧童や過酷な労働を強いられるゴム林労働者たちの姿を、そして西欧文化が密林の前ではいかに無力なものであるかを描いたもの。この作品の真の主人公は、無の大渦に人間を呑(の)み込むアマゾンの大自然といえよう。この一作で世界的名声を獲得したが、ほかに、近代主義(モデルニスモ)の香り漂う唯一のソネット集『約束の地』(1921)がある。
[安藤哲行]
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スペインの画家。バレンシア県ハティバJátivaに生まれ,ナポリ近郊ポシリポPosillipo没。リバルタの工房で学んだという説もあるが不明。若くしてイタリアに渡り,スペイン領であったロンバルディアとパルマで数年を過ごし,遅くとも1615年にはローマにいた。その間,チンクエチェント(16世紀)の巨匠たちやカラバッジョの作品,さらに古典彫刻を学び,16-17年以後スペインの副王領ナポリに定住,歴代副王の宮廷画家として活躍した。彼の名ホセがイタリア風にジュゼッペJusepeと呼ばれるのも,ロ・スパニョレットlo Spagnoletto(〈小柄なスペイン人〉の意)の愛称で知られるのもそのためである。また,聖人像と殉教図を主体とした宗教画のほかに,肖像画,寓意画,神話画,古典的主題,風俗画と,対抗宗教改革時代のスペイン人画家としては例外的に作域が広いのも,イタリアで制作したことによる。卓絶したデッサン力,構図の巧みさ,対象の自然主義的な解釈などの点で,並ぶ者のない冴えを見せた。
画風は時代によって変化するが,35年ころまでは,カラバッジョの明暗法と自然主義をより深化させ,厚塗りによる分析的なレアリスム技法で,《バルトロメオの殉教》《アンドレアの殉教》など多くの殉教図を描いた。それ以後も,主題や伝統的な図像が要求する場合は,明暗法を用いたが,35年からは《処女懐胎》《ヤコブの夢》のように,対象表現は柔らかさを,色彩はベネチア派風の輝きを増し,構図も雄大になり,風景に対する関心も強まってくる。この傾向は,51年に完成した大作《使徒たちの聖体拝領》(ナポリ,サン・マルティーノ美術館)において集大成される。リベラの作品は相当数が本国向けで,スペイン・バロック絵画の発展に影響を与えた。彼は,ヨーロッパ諸国で評価された最初のスペイン人画家であるが,とくに版画は,デッサンの優れた手本として尊重された。
執筆者:神吉 敬三
メキシコの画家。グアナフアト生れ。オロスコ,シケイロスとともに壁画の画家として有名。1896年サン・カルロス美術学校入学。1907年奨学金を得てマドリード,パリに滞在する。この時期にキュビスム風の絵画を描く。20年シケイロスに出会い,ヨーロッパ絵画の移入に終始していたメキシコ画壇に抗して革命後の新時代にふさわしい芸術を民衆のために興そうという考えに共鳴し,壁画研究のためイタリアを旅行し,21年帰国するや,国立高等学校(1922),チャピンゴ農学校(1926-27),国立宮殿(1925-35)などの壁画を精力的に制作した。30-33年にはアメリカ合衆国でも壁画を制作したが,社会主義のテーマを真正面より描いたため破壊されたものもある。長くうもれていた民衆芸術の先駆者J.G.ポサダを再評価したのも彼である。油彩画にも見るべき作品が多く,画面構成は正統的であるが,対象を量塊として把握表現する画面処理とそれをきわだたせる力強い線は彼独特のものである。メキシコ市の南にリベラ自身が設計したアナワカリ美術館があり,彼の収集した古代メキシコの考古美術品の逸品が多く展示されている。
→壁画運動
執筆者:加藤 薫
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1886~1957
シケイロス,オロスコなどとともに,メキシコ革命の壁画運動を推進した社会主義の画家。1907年渡欧し,ピカソ,マティス,モディリャーニなどと接触し,キュービズムの影響を受けた。ミュンヒェン,イタリア,ロシアにも滞在したが,1921年帰国してからは,ヨーロッパ絵画を超越するダイナミックな表現形式によって,メキシコ革命の民衆やアステカ文明,マヤ文明を主題とする壁画を描いた。メキシコ市の美術殿堂,国立自治大学,国立宮殿などに代表的作品が多い。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…また北方のトリノでは17世紀末から18世紀にかけて,ユバラ,グアリーニなどの大建築家が輩出し,装飾画家,スタッコ・デザイナーも空前の盛況を呈した。
[スペイン]
スペインは,その植民地であったナポリを通じて直接にカラバッジョ主義をうけ入れ,J.deリベラ,スルバラン,ベラスケスなどはその影響のもとに,エル・グレコを代表とするマニエリスムを克服した。このうち,フェリペ4世の宮廷画家であったベラスケスは,ルーベンスとベネチア派の強い影響のもとに円熟した絵画様式を確立し,バロックにおける最大の画家の一人となった。…
…メキシコ革命(1911)後の新時代にふさわしい美術を創造し,革命の意義を壁画に描き,広く長く大衆の間に伝えようと考えたシケイロスやリベラやオロスコを中心にメキシコで興った美術運動el movimiento muralismo。メキシコ革命を記念する壁画構想はすでに1910年代からあったが,その実現は22年,時の文部大臣J.バスコンセロスによって国立高等学校の壁面が提供されたときに始まる。…
※「リベラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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