第1次,第2次世界大戦間期の1930年代,ファシズムの台頭に抗して組織された運動に与えられた名称。その代表的な表れは,人民戦線政府を成立させたフランスとスペインに見られるが,こうした動きは後で触れるコミンテルン第7回大会(1935年7~8月)における国際共産主義運動の方向転換と密接に関連しており,国際的な広がりをもつものであった。
1933年1月のドイツにおけるヒトラーの政権掌握は,国際的にファシズムの脅威を増大させたが,フランスでは世界恐慌のあおりをうけた経済不安の高まりの中で,〈アクシヨン・フランセーズ〉や〈クロア・ド・フー〉などの極右ないしファッショ的志向の団体が活動を強化していた。33年末,政府閣僚や議員に疑惑の及んだ詐欺事件のスキャンダルが表面化(スタビスキー事件)するとともに,右翼諸団体は政府・議会を攻撃し,34年2月6日にはパリで十数名の死者の出る街頭騒擾(そうじよう)が起こった。この危機の中で2月12日,社会党と共産党はそれぞれ隊列は別であったが,合わせて10万人近くのデモンストレーションを組織し,また1921年以来分裂していた労働総同盟(CGT(セージエーテー))と統一労働総同盟(CGTU)がゼネストを行って右翼諸勢力の攻勢に対抗した。ファシズムの台頭に対し共同行動を組織する試みは32年以来ロマン・ロランやアンリ・バルビュスら知識人による平和擁護を訴える運動(アムステルダム・プレイエル運動mouvement d'Amsterdam-Pleyel)があり,また33年急進社会党左派のG.ベルジュリを中心にする〈反ファシズム共同戦線〉の試みなどがあった。しかし2月12日の行動の実現は大きな転換をもたらすことになった。3月5日,トロカデロ博物館のP.リベや物理学者P.ランジュバン,哲学者アランらにより反ファシスト知識人監視委員会Comité de vigilance des intellectuels anti-fascistesが発足し,また労働運動の下部組織においても,パリの第15区やサン・ドニなど各地で党派をこえた監視委員会が組織された。こうした共同行動の気運の拡大の中で,7月27日,社会党と共産党とが〈統一行動協定〉を結び,1920年の分裂以来初めて両党がファシズムの脅威を前に共同歩調をとることになった。
35年,7月14日を期して共同の示威行動を組織しようというアムステルダム・プレイエル運動の呼びかけに応じて6月17日に人民総結集組織委員会が設置された。これには社会党,共産党,さらに急進社会党が加わり,また,CGT,CGTUの代表,さらに反ファシズム知識人監視委員会,人権連盟,婦人運動等の諸組織代表が参加した。7月14日にはこれらの団体を軸に参加者50万人といわれる大示威運動が行われた。人民戦線はここに成立することになったのである。この背後では重大な国際状況の変化が進行していた。ロシア革命以来国際的に孤立を深めていたソ連が,ナチス・ドイツの台頭を前に,西ヨーロッパとの安全保障のための接近の道を探り,この年5月2日フランスとの間に相互援助条約を結んだ。人民戦線におけるフランス共産党と急進社会党との提携には,こうした要因も作用していた。さらに,35年7月25日より開かれたコミンテルン第7回大会において,反ファシズム統一戦線の名の下に平和と民主主義の擁護を諸国共産主義運動の緊急の課題とする方針が打ち出され,フランスにおける人民戦線はそれを具体化したものとして承認された。これは創設以来世界革命を目標に掲げる国際機関として活動してきたコミンテルンにとって,最も重大な政策転換であり,国際的に大きな影響を及ぼすものであった。
36年5月議会選挙で人民戦線派が勝利を収め,6月4日社会党のレオン・ブルムを首相とする人民戦線内閣が成立した。この勝利は,新たに開かれた政治的・社会的な変革の可能性に期待する人々のエネルギーの解放を伴った。5月中旬より各地の工場などで労働者のストライキ運動が爆発的に拡大し,その多くは工場占拠の形態をとった。6月にはストライキ件数は1万2000,参加者は180万をこえた。こうした状況の中でブルム内閣は労資の調停に努め,6月8日,政府,資本家側代表,労働総同盟代表(CGTとCGTUはこの年3月統一を実現していた)により協定が結ばれた。これは会談の行われた建物にちなんでマティニョン協定les accords Matignonと呼ばれる。この協定を基礎に議会では有給休暇,団体協約,週40時間労働の3法をはじめ,各種の社会・労働立法が成立した。また文化面においても,すでに民間において活発化していた民衆演劇やシャンソンの普及,各種の教育・文化活動を基礎に,その組織的な拡大がはかられる一方,新たに設けられた余暇スポーツ庁を中心に有給休暇によるバカンスの組織化などが試みられた。
しかし,人民戦線は短命に終わった。資本の国外逃避や生産サボタージュ等による経済的困難に政府は有効な政策をもって対処できず,人民戦線を支えた人々のエネルギーを経済的諸権利の制度的拡充によって鎮静化させたことは,政府が反人民戦線派の抵抗に抗して政策を遂行する力を弱いものとした。また,7月よりスペイン人民戦線政府に対する軍部の反乱に端を発した戦争(スペイン内乱)に,ブルム内閣がイギリスとともに不干渉政策をとり国境を閉鎖したことは,国際的なファシズムの攻撃を前に戦うスペインを見捨てるものとして人々の失望を招いた。こうした内外の危機拡大の中で,政府は37年2月人民戦線の経済・社会政策の〈一時停止〉を発表,そして同年6月22日,ブルム内閣は総辞職した。政府・議会レベルでは,なおしばらく人民戦線派諸政党の連合体制は続いたが,もはや初期の人民戦線のもったダイナミズムは失われ,38年3月組織された第2次ブルム内閣は1ヵ月足らずで崩壊した。続くダラディエ内閣によって人民戦線政府の諸政策は終止符が打たれることになる。
執筆者:加藤 晴康
プリモ・デ・リベラ独裁政権(1923-30)後に成立した第二共和国(1931-39)では,スペイン社会は不安定化し,国民は左右へ二極化した。当初の自由主義的改革の行われた〈革新の2年間〉の後,1933年の総選挙の勝利によって成立した急進党・右派連立内閣の時代に先の2年間の改革は後退させられ,左派勢力は思想的に行動的に反発を強めていた。35年10月に発覚した疑獄事件のために政府は窮地に陥り,事件に直接関与した急進党の信用は失墜した。一方,右派陣営の主要な勢力であったスペイン自治右派連合(CEDA)はアルカラ・サモラ大統領から政権の譲渡を拒否された。その結果,一般に〈人民戦線選挙〉と呼ばれる36年2月の総選挙へと政局が動いていった。36年1月15日,前年の春から進歩派勢力の統一を目ざしていた共和国主義者と社会党穏健派の指導者がイニシアティブをとり,総選挙へ向けて選挙協定を結んで人民戦線を結成し,左翼諸政党と進歩的な共和国主義勢力を結束させた。この新たな情勢の展開を前にして,選挙制度を含む既存の政治諸制度を否定し続けてきたアナーキストも,獄中にいる同志の恩赦と引換えに,選挙に協力した。また,コミンテルン第7回大会における国際共産主義運動の方向転換を背景にして,スペイン共産党は社会党過激派の指導者の助力を得,共和国主義者と社会党穏健派の反対にもかかわらず,人民戦線に参加した。共産党は内戦中に明らかになったように真の目標を,参加諸勢力を利用しつつ,人民戦線を自らの掌中にすることに定めていた。
他方,右派陣営内では,中心勢力のCEDAが前述したスキャンダルに巻き込まれ,さらに,スペイン刷新党やカルリスタらの右派諸政党が唱える極端なナショナリズムならびに反共和国主義,反議会主義とCEDAの主張が相いれないために,有効な統一を達成できなかった。つまり,35年ころから右派陣営は過激化し,軍部の蜂起さえもが公然と語られていたのである。したがって選挙戦は,左右両陣営ともに挑発的な言動に終始し,対話と協調はまったく不可能な状況であった。選挙の結果は,人民戦線側の勝利に終わった。非公式ではあるが新聞の発表によると,左派約430万票,右派約380万票,中道政党約70万票という得票結果であった。また,大政党に有利な選挙制度によって,人民戦線は右派に議席数で獲得投票数以上の差をつけた。アサーニャを首班とする左派共和国主義者による人民戦線内閣が成立し,政治犯の恩赦,諸改革の再施行などが行われた。
しかし,人民戦線は単なる選挙協定にすぎなかった。諸政党および諸政治グループは,選挙後に選挙協定の枠を越えた独自の方針を追求しはじめた。例えば,社会党をはじめマルクス主義諸政党では5月1日,労働者政権と大衆の手による軍の創設を求めて,社会党青年部が革命路線を採択するなど,プロレタリア革命の兆しが見えはじめた。一方,右翼も暴力的な行動を開始し,街頭では左右両派のテロ活動が激しくなった。そして総選挙後半年もたたない7月17日,軍部がスペイン領モロッコで蜂起し,翌日にはスペイン本土各地でも軍部の反乱が起こって,スペイン内戦が勃発した。つづいて,内閣が総辞職し,スペイン全体の状況が変わったので,36年7月18日に人民戦線が消滅したとする歴史学者は少なくない。
→スペイン内乱
執筆者:フアン・ソペーニャ
人民戦線はファシズムに対抗する統一戦線運動として,またこの危機の時代における平和の擁護や新たな文化の可能性を探る運動としても,諸国に多様な表れを示した。日本でも1936年日本無産党の加藤勘十,鈴木茂三郎らによる人民戦線結成の提唱がなされ,これは日中戦争開始後の37年12月加藤,鈴木をはじめ山川均,黒田寿男ら労農派400人余が検挙される〈人民戦線事件〉と呼ばれる弾圧となって現れた。さらに翌年2月には,大内兵衛,有沢広巳,美濃部亮吉ら教授グループに対する第2次検挙が行われ,思想弾圧や学生の活動への弾圧が続いた。
このほか,植民地や従属国では民族主義運動などと社会主義あるいは共産主義運動との統一戦線の運動など,人民戦線は多方面に大きな影響を与え,30年代の最も大きな歴史的経験として第2次世界大戦期以後の反ファシズムの流れに引き継がれたが,一面,それはある種の〈神話化〉をもたらし,西ヨーロッパの既成の価値によりかかった防衛的態度や統一戦線戦術の機械的適用などさまざまな問題点を残して,第2次世界大戦後の政治的・社会的再編成のなかで,新しい論議を生むことになる。
→反ファシズム
執筆者:加藤 晴康
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1930年代、ファシズムの台頭に抗して組織された統一戦線運動。フランスとスペインでは人民戦線政府が成立した。しかし、この運動はロシア革命以来の国際共産主義運動の方向転換と密接に関連していて、他の諸国にも大きな影響を与えた。また、政治面だけではなく、ファシズムの危機に揺らぐ時代状況のなかで新たな可能性を開く試みとして思想・文化の面でも注目を集め、第二次世界大戦前夜の一時期を画した。
[加藤晴康]
1933年ドイツでヒトラーが政権を握り国際的にファシズムの脅威が増大するなかで、フランスでは34年2月6日、右翼・ファッショ的諸団体が政府、議会を攻撃する騒乱事件が起こった。当時、社会党と共産党は1920年に分裂して以来対立状態にあり、労働運動も分裂していた。しかも国際的にコミンテルンが社会民主主義をファシズムに道を開くものとして第一の攻撃目標としていたことは、ファシズムに対する労働運動などの抵抗力を著しく弱くしていた。しかし、その分裂状況を超えようとする動きは、社会党のセーヌ県連など下部において現れていた。また、1933年元急進社会党のガストン・ベルジュリを中心にする「共同戦線」の名をとった試みもあった。他方、1932年8月、作家のアンリ・バルビュスやロマン・ロランらの提唱によりアムステルダムで国際反戦大会が開かれ、翌年パリで行われた2回目の大会の会場の名とあわせて、アムステルダム・プレイエル運動とよばれる知識人を中心にする運動が生み出されていた。こうした状況のなかで二月六日事件は人々に衝撃を与え、反ファッショ勢力結集と大衆的な行動の機運は急速に拡大することとなった。2月12日、労働総同盟(CGT)の提唱したゼネストに共産党系の統一労働総同盟(CGTU)も参加、また社共両党がそれぞれデモを組織し、共同行動への最初の一歩となった。
人民戦線形成に至る過程には、社会党、共産党、それに急進社会党を加える政党レベルでの行動協定を伴う戦線統一の動きと、知識人を中心として文化的模索をはらんだ党派を超える運動の試み、それに、増大する危機に直面しつつ、現実を超える新たな方向への期待を含めた下からの人々の動きが絡み合っている。2月以後、統一した運動への意識的な動きとしてまず表面に現れたのは、3月5日に発足した反ファシスト知識人監視委員会であった。社会党と共産党はこうした機運のなかで同年の7月27日、統一行動協定に調印した。翌35年、アムステルダム・プレイエル運動の提唱で7月14日を期して統一示威運動を行うことが計画され、6月そのための委員会が社共両党に急進社会党も加わり、またCGT、CGTU、さらに知識人監視委員会のほか、人権連盟や青年婦人運動などの代表も参加して組織された。7月14日はパリをはじめ各地での大規模な示威行動の日となり、人民戦線はここに成立した。共産党が急進社会党と接近し共和政擁護を掲げた背後には、同年5月仏ソ相互援助協定を結んで、国際的に孤立から脱却しようとしていた当時のソ連の外交政策の変化と、コミンテルンの政策転換の動きがあった。7月末より開かれたコミンテルン第7回大会は、フランス人民戦線の結成を高く評価し、国際共産主義運動の課題を反ファシズム統一戦線の形成に置いた。
1936年4~5月に行われた議会選挙で人民戦線派が圧勝し、社会党が第一党となった。この結果、6月4日に社会党のレオン・ブルムを首相とする人民戦線内閣が生まれた。この間、選挙の時期より労働者による工場占拠を伴ったストライキの波が起こり、6月には未曽有(みぞう)の規模で拡大した。これは人々による直接的な意志表示の欲求と新たな可能性への期待が、人民戦線の勝利の祝祭という様相をも呈しながら噴出したものであった。新政府は労働総同盟代表(CGTとCGTUは1936年3月合同を実現していた)と経営者側代表との間に、賃上げや組合運動の自由を認める協定を6月8日に締結(マチニヨン協定)させる一方、有給休暇、団体協約、週40時間労働などの労働・社会立法を相次いで成立させた。また政府内に新たに余暇・スポーツ庁が設けられ、休暇旅行やスポーツの組織化と大衆的普及が計られた。しかし人民戦線政府は短命に終わった。おりから始まったスペイン内戦にレオン・ブルム政府は不干渉政策をとり、国際的なファシズムの攻勢に対して、この政府が旧来の国際秩序に寄りかかった無力なものであることを示した。また資本の国外流出をはじめとしてもたらされた財政・経済困難に対し、政府は平価切下げを行うなどのほかに有効に対処しえなかった。そして、資本家の側の抵抗や右翼の新たな活動に対し、工場占拠などで示された大衆的エネルギーの噴出を恐れた政府は、かえって、人民戦線の形成を支えた下からの活力を失わせていった。1937年2月13日レオン・ブルムは人民戦線政策の「一時停止」を表明、6月22日には財政全権を求める法案否決を機に総辞職に追い込まれた。その後も人民戦線派の短命内閣が続き、1938年3~4月には第二次ブルム内閣も組閣されたが、同年11月急進社会党と共産党が決裂することにより、人民戦線は完全に終止符を打った。
[加藤晴康]
スペインでは1936年1月15日、共和主義左派、社会党、共産党、マルクス主義統一労働者党(POUM)、労働総同盟などの間で人民戦線の名をとった協定が成立した。これは2月に予定されていた選挙のための戦術協定という性格が強かったが、選挙において人民戦線派が過半数を獲得する勝利を収め、2月19日共和主義左派の中心マヌエル・アサニャを首相とする人民戦線内閣が誕生した(アサニャは5月10日大統領となる)。選挙の勝利は、1933年来「暗い2年間」とよばれる反動化の進行の下で弾圧を受けてきた大衆行動の激しい高揚によって迎えられた。労働者のストライキ、反動のシンボルでもあった教会の襲撃、政治犯の釈放、農村における小作農民による土地占拠などが各地に広がり、他方で人民戦線に反発する右翼やファッショ団体のテロが頻発した。人民戦線は選挙協定の枠を越え、政府は動揺しつつも土地改革を含めて一定の改革の方向を打ち出し、スペインはしだいに人民戦線とファシズム、右翼保守勢力との直接対決の場となっていった。7月17日、スペイン領モロッコで軍部が起こした反乱は、この状況を決定づけた。以来スペインは3年近くに及ぶ内戦に入り、反乱側を援助するドイツ、イタリアの介入により、国際的な焦点となったのである。
[加藤晴康]
『竹内良知編『ドキュメント現代史6 人民戦線』(1973・平凡社)』▽『ダノス、ジブラン著、吉田八重子訳『フランス人民戦線』(1972・柘植書房)』▽『平瀬徹也著『フランス人民戦線』(1974・近藤出版社)』▽『ルフラン著、高橋治男訳『フランス人民戦線』(白水社・文庫クセジュ)』▽『ヒュー・トマス著、都築忠七訳『スペイン市民戦争Ⅰ・Ⅱ』(1962、63・みすず書房)』▽『ブレナン著、鈴木隆訳『スペインの迷路』(1967・合同出版)』▽『山内明編『ドキュメント現代史7 スペイン革命』(1973・平凡社)』
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1934~36年頃,ファシズム諸国の脅威と,各国内のファッショ的勢力台頭に対抗して結成された左翼の連合。その最大の特色は,各国共産党がブルジョワ民主政打倒の方針を一変し,社会民主主義諸党のみか,左翼中産階級諸党とも提携した点にある。共産党の戦術転換の真の理由はまだ断定しがたいが,ヴァイマル共和国崩壊の経験もさることながら,ドイツの進出に脅威を感じたソ連の反枢軸大同盟政策の一環とみるべきであろう。35年夏のコミンテルン第7回大会で,この新方針は公式に承認された。他方,社会党や中産階級諸党の側では各国内のファッショ的勢力の台頭が共産党との提携に踏み切らせた。フランス,スペイン以外では,人民戦線運動は十分実を結ばなかったが,中国では抗日民族統一戦線として実を結んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…36年2月16日の総選挙が第2幕の幕あけであった。この時,左派陣営は統一行動をとれずに敗北した前回の総選挙を反省して,36年1月15日に選挙協力を内容とした人民戦線を結成し,政権の奪還を期した。選挙戦の結果,人民戦線派が勝利したものの,開会した議会は野次と怒号の応酬の場となり,正常な機能は停止していた。…
…フランスが誇るマジノ線の要塞は,これ以降この国を東ヨーロッパ同盟国から切り離すゲットーと化した。
[人民戦線の成立]
ナチス政権の出現はソ連とフランスにとって深刻な脅威となった。〈一国社会主義〉のコースを邁進しつつあったソ連にとって,平和な国際環境の維持が何よりも必要とされ,日本,ドイツの現状打破政策に直面して,現状維持国との協調を選んだ。…
…20年代から30年代にかけて共産党,社会党も結成された。 大恐慌以降この新しい傾向はさらに促進され,第2次大戦直前の38年には,資本家,中小地主,中間層の政党である急進党の主導で,社会党,共産党も参加した人民戦線政権が成立,以後52年まで急進党が政権を掌握し,工業化政策を中軸として,社会改革を進めた。しかし,同党はインフレの進行,1948年の共産党非合法化策などで,しだいに力を弱めていき,50年代末に至ってチリの政治勢力図は大きく変化する。…
…その後,30年代前半にドイツ・ナチズムの台頭と権力獲得に際して,反ファシズムは統一戦線あるいは反戦平和の思想と深い結びつきをもつようになり,またイタリア,ドイツをこえて国際的な広がりをもつに至る。30年代半ばになると,ファシズムに対抗,阻止するものとして人民戦線が提起され,人民戦線が反ファシズムの主要なあり方とみなされる時期が生じる。第2次大戦の勃発後,ドイツとイタリアに占領された国々で占領軍に対するレジスタンスが起こり,ここでは反ファシズムとレジスタンスの関係が重要なものとなった。…
…34年アストゥリアス革命の失敗後,フランスへ亡命。アサーニャとともに人民戦線の形成に尽力した。36年内戦が始まると,海・空相,国防相に就任。…
…イギリスの左翼人読書クラブ。1936年5月,人民戦線に文化的・大衆的基盤を提供する目的で設立された。V.ゴランツ,E.J.ストレーチー,H.J.ラスキが選者となり,ファシズム,戦争,貧困を扱う選書を毎月配布し,機関紙《レフト・ニューズ》を発行,最盛期には5万7000の会員と1500の討論集団を擁した。…
※「人民戦線」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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