シナースィ(英語表記)Şinasi İbrahim

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シナースィ」の意味・わかりやすい解説

シナースィ
Şinasi İbrahim

[生]1826. イスタンブール
[没]1871.9.13. イスタンブール
オスマン帝国のジャーナリスト詩人幼時軍人の父を失い,初め砲兵局の役人となった。若くして詩才を認められ,1849年パリに留学,財政学とフランス文学とを学んだ。 53年に帰国。 60年アーギャーフ・エフェンディとともにトルコで最初の民間人による新聞『世情の翻訳』 Tercümân-i Ahvâlを発行。次いで『世論注釈』 Tasvîr-i Efkâr紙を主宰し,両紙で政治問題の解説やヨーロッパ文学の紹介に努めた。 65年,大宰相アーリー・パシャに排斥され,新聞事業をナムク・ケマルに譲ってパリへ行き,69年帰国後,死去した。詩人としては,自然主義的作風をトルコに導入し,ラ・フォンテーヌらの詩を翻訳,紹介することによってトルコ近代文学およびジャーナリズムの発展に寄与した。詩集『翻訳詩集』 Tercüme-i Manzûme (1858) ,戯曲『詩人の結婚』 Şâir Evlenmesi (60) などがある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シナースィ」の意味・わかりやすい解説

シナースィ
しなーすぃ
Sinasi
(1826―1871)

トルコの詩人、ジャーナリスト。イスタンブールに生まれる。大宰相レシト・パシャに詩才を認められ、パリへ留学。財政学、仏文学を修め、ルナンラマルチーヌを知る。帰国後、民間人による最初の新聞『世情の翻訳者』(1860)を発行。ついで『世論の註釈(ちゅうしゃく)』(1862)を発行し、若い知識人の共感を集めたが、スルタン、アブデュル・アズィーズによって追われ、パリへ渡るなどした。ラシーヌやラ・フォンテーヌらを訳して『翻訳詩集』(1859)として出版、またトルコ語だけで作詩して『わが詩選』(1862)として発表するなど、近代ヨーロッパ文学の紹介、トルコ語の簡素化、言文一致体の確立に努力した。文学・思想活動を通じてナムク・ケマルらのグループ「青年オスマン人」たちに影響を与え、近代トルコ文学、思想の先駆者としての役割を果たした。

[永田雄三]

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