ナムク・ケマル(その他表記)Namık Kemal

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナムク・ケマル」の意味・わかりやすい解説

ナムク・ケマル
Namık Kemal

[生]1840.12.21. テキルダー
[没]1888.12.2. キオス島
トルコの民族主義思想家,詩人小説家,劇作家。本名 Mehmet。トルコに近代ヨーロッパの思想を導入し,「自由主義の父」と呼ばれる。テキルダーの名門の出身。シナースィを知り,民族主義的な新聞『世論注釈』 Tasvîr-i Efkârの主筆となって活躍した。 1865年「新オスマン人」協会に入ってスルタン専制を批判したため,追われてヨーロッパへ亡命。 70年帰国後も反専制運動をやめず,再びキプロスへ追放された。戯曲『哀れな子供』 Zavalli Çocuk (1873) ,『アーキフ・ベイ』 Âkif Bey (74) はここで書かれた。 76年立憲政治が開かれると,イスタンブールに戻り,憲法作成委員の一人となった。立憲政治が短期間で挫折し,スルタンの専制政治が復活するとキオス島へ流され,同地で没した。戯曲『祖国あるいはスィリストレ』 Vatan Yahut Silistre (73) は若い民族主義者たちに大きな影響を与えた。またイスラムの伝統を近代世界に適応させることにも努力した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナムク・ケマル」の意味・わかりやすい解説

ナムク・ケマル
なむくけまる
Namik Kemal
(1840―1888)

オスマン帝国の詩人。自由主義思想の先駆者であり、トルコ近代文学の祖ともいわれる。テキルダアの名門の生まれ。少年時代は祖父母とともにアナトリア各地で過ごし、家庭教師たちからアラビア語、ペルシア語を学ぶ。イスタンブールへ出て、詩人シナースィの影響を受け、彼の発刊した新聞『世論の注釈』に執筆。また、自由主義思想家として専制政治打倒の政治評論を手がけ、そのため追放されてパリへ亡命した。1870年、恩赦で帰国、73年、史劇『祖国あるいはシリストレ』を発表して大好評を得たが、当局の忌諱(きき)に触れてその年キプロス島に流され、そこで戯曲や小説を書いた。3年後許され、76年のミトハト憲法発布に際しては草案作成委員となったが、専制政治の復活とともに左遷されて、病死した。多くの愛国的詩、戯曲六編、『目ざめ』(1876)ほか小説一編などあるが、その作品には政治性と思想性が強く反映されており、自由と祖国愛などが主要なテーマとなっている。

[永田雄三]

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改訂新版 世界大百科事典 「ナムク・ケマル」の意味・わかりやすい解説

ナムク・ケマル
Namık Kemal
生没年:1840-88

オスマン帝国の啓蒙思想家,立憲主義者。シナーシーとの接触により西洋近代文明に目を開かされ,1865年同志とともに,憲法制定を目指す新オスマン人協会を設立。のちパリ,さらにロンドンに亡命し,そこで《自由》新聞を刊行。帰国後も流刑などの弾圧の中で,反専制運動を継続した。76年のミドハト憲法制定後,一時政治の中枢にかかわったが,専制政治再開により不遇のうちに没。詩,小説,戯曲も多数ある。
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世界大百科事典(旧版)内のナムク・ケマルの言及

【トルコ文学】より


[オスマン帝国末期(19世紀後半~1922)]
 改革派知識人によって,西欧文学の諸形式(小説,評論,戯曲)が主としてフランス文学を通じて紹介され,ジャーナリズムの導入とともに宮廷中心の従来の文学環境を一変させた。シナーシーがその先駆者で,最初の民間新聞《世論の注釈》を発刊して新しい文体の創造に着手し,ナムク・ケマルはさらに広範囲な文学活動を通じてトルコ近代文学の基礎を築いた。ナムク・ケマルの戯曲《祖国あるいはシリストレ》は,トルコ文学の新しい場として劇場を前面に押し出したこと,文学が政治思想の伝達手段として用いられたことの2点で画期的であった。…

※「ナムク・ケマル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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