日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンティオコス」の意味・わかりやすい解説
アンティオコス
あんてぃおこす
Antiochos
(前130/120―前68?)
古代ギリシアの哲学者。折衷派の祖。アスカロン出身。初めラリサのフィロンの弟子であったが、やがて背き、カルネアデスにも反対して新アカデメイアの懐疑論から離れ、古アカデメイアに回帰した。真理判断と徳は感覚から始まり、心と体の段階的な充足完成が人間の目標である、とした。彼自身に独創性はなかったが、アカデメイア派(プラトン学派)、ペリパトス派(アリストテレス学派)、ストア派の総合を説く折衷主義は、その博識とあいまいさのゆえに広い影響力をもち、新プラトン派の時代まで続くこととなった。アンティオコスについて、弟子のキケロは、その著書『アカデミカ』のなかでたびたび引用紹介している。
[山本 巍 2015年1月20日]
アンティオコス(1世)
あんてぃおこす
Antiochos Ⅰ
(前324―前261)
シリア王国、セレウコス朝の王(在位前280~前261)。セレウコス1世とバクトリア系王族出身のアパマの子。即位前から父の共同統治者として東方領土を支配した。その後、マケドニアとは講和したが、エジプト(プトレマイオス朝)とは第一次シリア戦争を行い、小アジアの西岸、南岸を失ったが、その地への侵入民ガラティを破り、ソテル(救済者)の号を得た。イランおよび小アジアで都市化政策を推進した。
[小川英雄]
アンティオコス(3世)
あんてぃおこす
Antiochos Ⅲ
(前242ころ―前187)
シリア王国、セレウコス朝の王(在位前223~前187)。セレウコス2世の次男。大王と称される。セレウコス1世以来の最大の征服者で、バクトリアとパルティアの独立によって危機に直面した東部領土に遠征し、アフガニスタンまでを回復した。第四次シリア戦争ではエジプトに破れた(ラフィアの戦い。前217)が、パニオンの戦い(前200ころ)では勝ち、シリア・パレスチナを獲得した。他方、西方に対してはマケドニア王フィリッポス5世と結んでギリシアに進出したが、ローマの東方征策と対立し、テルモピレーとマグネシアの戦いでローマ軍に破れ、アパメア協定(前188)によって小アジア以西に対する権利を失った。紀元前187年東方に遠征中、スサで原住民に殺された。
[小川英雄]
アンティオコス(4世)
あんてぃおこす
Antiochos Ⅳ
(前215ころ―前163)
シリア王国、セレウコス朝の王(在位前175~前163)。アンティオコス3世の三男。紀元前170年から前168年にかけてエジプト征服を試みたが、ローマの介入によって失敗した。ユダヤに対しては前163年にエルサレムに守備隊を置き、ギリシア文化の導入を図るなどして支配強化に乗り出したが、ユダヤ教徒の反発を招き、独立運動に火をつけた(マカベア戦争)。パルティアの勢力拡大を抑えるため東方に遠征したが、イスファハーンで死去した。彼は都市化政策を推進し、ギリシア・ローマ文化を奨励して、自らゼウスの顕現(エピファネス)と称し、神政による領土内諸民族の統一を図った。
[小川英雄]
アンティオコス(2世)
あんてぃおこす
Antiochos Ⅱ
(前287ころ―前246)
シリア王国、セレウコス朝の王(在位前261~前246)。アンティオコス1世の次男。エジプト(プトレマイオス朝)との第二次シリア戦争(前260~前253)ではローマの援助で父王の失地を回復した。その後、親エジプト政策に転じ、妃ラオディケを離婚しプトレマイオス2世の娘ベレニケと再婚した。またセレウコス朝の王としては初めて生前から神格化され、テオス(神)と称した。
[小川英雄]