ジーコ(読み)じーこ(英語表記)Zico

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジーコ」の意味・わかりやすい解説

ジーコ
じーこ
Zico
(1953― )

ブラジルのプロサッカー選手、監督。2002年(平成14)7月から2006年6月まで日本代表監督。本名アルツール・アンツネス・コインブラArtur Antunes Coimbra。3月3日、ブラジルのキンチーノ(リオ・デ・ジャネイロ州)生まれ。ワールドカップに三度出場し、最高成績は1978年アルゼンチン大会の3位だが、本領が発揮されたのは1982年スペイン大会であった。ソクラテスSocrates(1954― )、トニーニョ・セレーゾToninho Cerezo(1955― )、ファルカンRoberto Falcao(1953― )と組んだ「黄金中盤」の中心となり、華麗なサッカーを披露した。二次リーグでイタリアに敗れたが、記録よりも記憶に残るチームであった。1986年メキシコ大会では、準々決勝でプラティニMichel François Platini(1955― )が率いるフランスと名勝負を演じながらペナルティーキックPK)戦で姿を消した。決定的なラストパスを出し、多くのゴールを決めることから、若いころは「白いペレ」とよばれたが、やがてジーコの名で世界中に知られるようになった。1981年のトヨタカップではフラメンゴ(ブラジル)の主将としてプレーし、イングランドリバプールを降して優勝した。1991年(平成3)に来日、鹿島アントラーズ発足にあたって大きな役割を果たした。2002年7月、日本代表の監督に就任。2006年に行われたワールドカップドイツ大会に日本を導いたが、本大会ではオーストラリアクロアチア、ブラジルを相手に2敗1分という結果に終わった。ワールドカップ終了後代表監督を退任トルコのクラブチーム、フェネルバフチェの監督となるが、2008年に退任した。

[西部謙司]

その後の動き

ブニョドコル(ウズベキスタン)、CSKAモスクワロシア)で監督を務めた後、2010年6月にフラメンゴのテクニカル・ディレクターに就任した。

[編集部]

『ルイス・アントニオ・高崎著、藤原清美訳『ジーコの挑戦』(1998・エキスプレス)』『浜田英季監修『ジーコ自伝』(1998・朝日新聞社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジーコ」の意味・わかりやすい解説

ジーコ
Zico

[生]1953.3.3. リオデジャネイロ
ブラジルのサッカー選手,指導者。本名 Artur Antunes Coimbra。ブラジルの名門クラブ,フラメンゴのエースとして南米王者に輝き,ブラジル代表では 71試合に出場,48得点を上げた。ワールドカップには 1978年から3大会に出場,優勝には届かなかったが,名手の評価を確固とした。引退翌年の 1990年にブラジルの初代スポーツ長官に就任。直後の 1991年5月に,Jリーグ参加が決まっていた日本サッカーリーグ2部の住友金属 (現鹿島アントラーズ) に入団して現役に復帰した。 1993年5月のJリーグ開幕戦で得点するなど初のステージ優勝に貢献し,1994年6月に現役を引退した。 2002~06年日本代表監督。

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