デジタル大辞泉
「ペレ」の意味・読み・例文・類語
ペレ(Pelé)
[1940~2022]ブラジルのサッカー選手。本名、エドソン=アランテス=ド=ナシメント。15歳でプロとして、16歳でナショナルチームの代表としてデビュー。ワールドカップには4大会に出場し、うち3回で優勝を果たす。引退までの22年間で通算1281得点(1363試合)を記録。卓越した技術と数々の実績から「サッカーの王様」「20世紀最高のサッカー選手」と評される。
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ペレ
Pelé
- 職業・肩書
- 元サッカー選手 元ブラジル・スポーツ相
- 国籍
- ブラジル
- 生年月日
- 1940年10月23日
- 出生地
- ミナス・ジェライス州トレス・コラソンエス
- 本名
- エドソン・アランテス・ド・ナシメント〈Edson Arantes do Nascimento〉
- 学歴
- サントス大学
- 勲章褒章
- 大英帝国勲章
- 受賞
- 国際平和賞〔1978年〕,WHOメダル〔1989年〕,国際スポーツ記者協会表彰選手〔1999年〕,20世紀の世界スポーツ賞〔1999年〕,FIFA20世紀最優秀選手〔2000年〕
- 経歴
- “ペレ”は幼い頃に付けられた愛称。168センチと小柄ながら、1955年FCサントスに入って頭角を現し、16歳でブラジル代表入り。’58年W杯スウェーデン大会に17歳で出場、4試合で6得点を挙げてブラジルの初優勝に貢献、一躍有名に。同年シーズン最多ゴール53を記録。その後、’62年チリ大会、’66年イングランド大会、’70年メキシコ大会と背番号10を付けて4回連続でW杯に出場。’66年は優勝を逃したものの、W杯3回制覇という世界で唯一の存在となった。’71年7月に国際試合からの引退を表明。数々の記録を残して、’74年10月一旦現役を引退。’75年6月から2年余、米国のプロチーム、ニューヨーク・コスモスでプレーし、サッカー未開の地・米国で知名度と人脈を得る。以後はニューヨークを足場にサッカーの宣伝活動に従事。’81年にフランスのスポーツ紙「レキップ」による世界の主要新聞へのアンケートで“今世紀で最も偉大なスポーツ選手”に選ばれる。’91年8月サンパウロ航空(VASP)の宣伝担当最高責任者に就任。’92年6月国連環境開発会議(地球サミット)親善大使。’93年米国サッカー殿堂入り。’95年1月ブラジルの広告塔としてカルドゾ政権のスポーツ大臣に就任(’98年6月スポーツ省は教育省に吸収される)。’99年12月国際オリンピック委員会(IOC)の「オリンピック・レビュー」で各国五輪委員会の投票による“20世紀最高の選手”に選ばれる。ブラジルのオリンピック招致委員会メンバーで、2016年リオデジャネイロでの夏季五輪開催に尽力。著書に「ペレのサッカー」や小説「ワールドカップ殺人事件」(’88年)がある。生涯通算1364試合1282得点、ブラジル代表としては110試合97得点。“20世紀最高の選手”の他、“サッカーの神様”“サッカーの王様”と称され、ブラジルでは名前に王の称号“ヘイ”を冠して“ヘイ・ペレ”と呼ばれる。サッカーにおける功績やボランティア活動から世界各国の多くの勲章を授かっている。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報
ペレ
Auguste Perret
生没年:1874-1954
フランスの建築家。ベルギーのブリュッセル生れ。パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)を中退し,2人の弟とともに父親の経営していた施工会社に加わる。パリのフランクリン街に建てた集合住宅(1903)は彼の設計,自身の会社の施工によるもので,初めて鉄筋コンクリートを全面的に用いた建物として知られる。彼の技術は,それまで構造家エンヌビックFrançois Hennebique(1842-1921)や建築家ボドーAnatole de Baudot(1834-1915)らが発展させてきたコンクリート構法を,機能性,経済性の側面から大規模に実用化したもので,20世紀の新しい建築の流れを方向づけた。建築活動は没年まで精力的に続けられ,主要作品にパリのシャンゼリゼ劇場(1913),パリ郊外ル・ランシーのノートル・ダム教会(1923),国立家具倉庫(1934),マルセイユ空港(1947)などがある。技術的な斬新さとは裏腹に,作風は一貫して古典主義の伝統がうかがえ,古典建築の比例感覚,構成法則,左右対称性など,他の近代建築家とは多少隔たる。また当初は疎んじられていたエコール・デ・ボザールにおいても,1924年から彼自身のアトリエを持ち,若い世代に強い影響を与え,多くの弟子を育てた。世紀末建築の影響下に自己のスタイルを築き上げたとはいえ,ペレは19世紀以来のフランス合理主義建築の潮流を最も正統的に継承したといえよう。
執筆者:三宅 理一
ペレ
Benjamin Péret
生没年:1899-1959
フランスの詩人。ナント近郊生れ。1920年にパリに出て,ブルトンと生涯にわたる親交を結び,1924年以後,シュルレアリスム運動に加わる。《大西洋横断旅行者》(1921)以来の詩集,《サン・ジェルマン大通り125》(1923)以後のコント集で,まれに見るユーモアと反抗精神と言語遊戯の融合を示しただけでなく,その妥協のない政治的言動においても,最も忠実なシュルレアリストの一人であることを立証した。
執筆者:巖谷 國士
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ペレ(サッカー選手)
ぺれ
Pelé
(1940―2022)
ブラジルのプロサッカー選手。本名はエドソン・アランテス・ド・ナシメントEdson Arantes do Nascimento。10月23日、ブラジルのトレス・コラソンエス(ミナス・ジェライス州)に生まれる。20世紀最高のプレーヤーとされ、「サッカーの王様」とよばれる。16歳でブラジル代表となり、1958年、17歳のときにワールドカップ・スウェーデン大会に出場。6ゴールをあげて優勝の立役者となった。1962年チリ大会では負傷のため2試合のみのプレーとなったがチームは連覇を達成した。1966年イングランド大会では集中マークにあって負傷、チームもグループリーグで敗退したが、1970年メキシコ大会では円熟したプレーを披露し三度目の優勝を飾った。所属クラブのサントス(ブラジル)でも11回も得点王をとるなど活躍し、チームを南米一(リベルタドーレス杯南米クラブ選手権優勝)、世界一(ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ優勝)へ導いた。1973年に退団したが、1975年に北米リーグのニューヨーク・コスモス(アメリカ)に移籍。アメリカのサッカー人気を盛り上げる起爆剤としての役割も果たした。1977年に現役を引退。
[西部謙司]
ペレ(Auguste Perret)
ぺれ
Auguste Perret
(1874―1954)
フランスの建築家。ブリュッセルに生まれる。1902年にパリに出て、エコール・デ・ボザールでジュリアン・ガデに学んだのち、弟ギュスターブGustave(1876―1952)と共同で、主としてパリを舞台に活躍した。鉄筋コンクリートの技術的開発に先駆的役割を果たした1人で、コンクリート固有の質感を建築構造のなかに生かして20世紀のフランス建築の立役者となった。初期の作品であるフランクリン街のアパート(1903)はコンクリートの骨組を露出した斬新(ざんしん)な設計によって材料そのものから新しい建築美を引き出している。そのほかパリ、ポンテュー街のガレージ(1905)、シャンゼリゼ劇場(1911~14)などの都市建築のほか、ル・ランシーのノートル・ダム聖堂(1922~24)、モンマニイのサント・テレーズ聖堂(1926)といった宗教建築も手がけた。第二次世界大戦後はル・アーブルの復興などで活躍した。
[濱谷勝也]
ペレ(Benjamin Péret)
ぺれ
Benjamin Péret
(1899―1959)
フランスの詩人。ルゼに生まれる。1920年パリに出て、ブルトンらと交流。24年以後、文学的にも政治的にも、もっとも忠実なシュルレアリストの1人として生涯を送る。『サン・ジェルマン大通り125』(1923)などのコント集、『大いなる賭(かけ)』Le Grand Jeu(1928)などの詩集には、日常の言語から汲(く)まれた幻想的イメージと痛烈なユーモアが横溢(おういつ)し、シュルレアリスムの一典型を思わせる。
[巖谷國士]
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ペレ
ブラジルの元サッカー選手。1940年10月23日、ブラジルのミナス・ジェライス州に生まれる。本名はエドソン・アランテス・ド・ナシメント(Edson Arantes do Nascimento)で、ペレは幼少時の愛称。56年、15歳でFCサントス(ブラジル)に入団しプロデビュー。58年、17歳にしてFIFAワールドカップ・スウェーデン大会でブラジル代表に選ばれ、4試合で6得点を記録、ブラジルの初優勝に貢献した。ワールドカップにはその後も、チリ大会(62年)、イングランド大会(66年)、メキシコ大会(70年)と4大会連続で出場し、うち3大会で優勝した(ワールドカップで3度の優勝経験者は史上唯一)。FCサントスでは得点王に11回輝き、チームをサウスアメリカ・カップで世界一に導いた。74年10月、現役引退を表明したが、75年6月には北米リーグのニューヨーク・コスモスに入団し2年余りプレー、米国のサッカー人気を高め、現役引退。生涯通算成績は、1364試合1282得点。81年、世界の主要新聞へのアンケートで「今世紀で最も偉大なスポーツ選手」に選ばれ、99年には各国五輪委員会の投票により「20世紀最高の選手」に選ばれるなどし、「サッカーの神様」「サッカーの王様」と称されている。
出典 朝日新聞出版知恵蔵miniについて 情報
ペレ
Perret, Auguste
[生]1874.2.12. ベルギー,ブリュッセル
[没]1954.2.25. パリ
フランスの建築家。父はブルゴーニュ出身で建築請負会社を経営,その長男として生まれ,1891年エコール・デ・ボザールに入学。ジュリアン・ガデのアトリエに入るが,1901年に退学,弟とともに父の会社に入社し,1905年以降ペレ兄弟会社と改称した。鉄筋コンクリートを石造および木造の伝統的建築の技術のうえで発展させ,鉄筋コンクリートに初めて建築スタイルを与えたとされる。ペレのファサードのモチーフは,水平コーニス,オーダーを思わせる柱列に枠づけられた縦長の窓で象徴されるように古典主義的であるが,フランス合理主義建築の潮流を継承した,最もフランス的建築家であった。作品は,パリのフランクリン街のアパート (1903~04) ,シャンゼリゼ劇場 (1913) ,同市近郊のランシーにあるノートル・ダム・デュ・ランシー聖堂 (1922~23) など,またルアーブルの再開発計画 (1945~50) などにも参加した。
ペレ
Pelé
[生]1940.10.23. トレスコラソンエス
[没]2022.12.29. サンパウロ
「サッカーの王様」と呼ばれるブラジルのサッカー選手。本名 Edson Arantes do Nascimento。 1956年 15歳でサントスクラブに入団,17歳で 1958年ワールドカップのブラジル代表チームの一員に選ばれ,4試合で6ゴールを記録,初優勝に貢献した。ワールドカップは4回連続出場して優勝3回。 1969年 11月 20日には 1000点目のゴールを決めるなどブラジルの国民的英雄とされ「20世紀最高のサッカー選手」ともいわれる。 1971年7月に代表チームを離れ,1974年に引退。 1975年に一時アメリカでカムバックしたが,2年後正式に引退。通算 1363試合 1281得点は不滅の記録とされる。
ペレ
Péret, Benjamin
[生]1899.7.4. ロアールアトランチック,ルゼ
[没]1959.9.7. パリ
フランスの詩人。第4インターに加入してスペイン内乱に参加。第2次世界大戦中はメキシコに亡命。ブルトンらとともに最も純粋にシュルレアリスムの立場を貫徹し,絶対的自由を求めてあらゆる既成の体制に反抗した。鋭角的で不合理なブラック・ユーモアが彼の作品の特徴。詩集『大西洋航路の乗客』 Le Passager du transatlantique (1921) ,『大いなる賭』 Le Grand jeu (28) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ペレ
Pelé
1940.10.23 -
ブラジルのサッカー選手。
ミナス・ジェライス州トレスコラソンエス生まれ。
本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント〈Edson Arantes do Nascimento Pelé〉。
サッカー選手の子で、サッカーの神様または黒い魔術師といわれる名選手。15歳でプロチーム、サントスFCに入り、1958年のストックホルム・ワールドカップには最年少の17歳で出場。以後ワールドカップには’62年、66年、’70年に出場し66年以外は優勝、ただ一人のワールドカップ3度優勝経験者となる。’71年国際試合引退を声明。’74年現役引退。’75年アメリカ・プロサッカーチーム・コスモスに復帰。’78年公式試合1700ゴールを達成。著書「ペレのサッカー」(’75年)。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
ペレ
ブラジルのサッカー選手。ミナス・ジェライス州生れ。本名エドソン・アランテス・ド・ナシメントEdson Arantes do Nascimento。父もサッカー選手。17歳でブラジル代表に選ばれる。1958年のワールドカップに出場し,彼の活躍でブラジルは初優勝を飾る。1962年大会でも負傷しながら優勝に貢献。1970年大会では全試合に出場し,優勝の立役者となった。その神技的な技術により〈キング・ペレ〉と称された。1971年に国際試合からの引退を声明したが,国内ではクラブチーム〈サントス〉で1974年に引退するまでプレー。翌1975年北米サッカーリーグで現役に復帰し,1977年に2度目の引退。通算1283得点。1994年ブラジルのスポーツ大臣に就任。
ペレ
フランスの建築家。鉄筋コンクリートという新材料と技術を用いて20世紀初頭の新建築を指導。代表作にパリ郊外ル・ランシーのノートル・ダム教会やシャンゼリゼ劇場など。弟のGustave Perret〔1876-1952〕,Claude Perret〔1880-1960〕も建築家で,パリで活躍した。
→関連項目坂倉準三|ル・コルビュジエ
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ペレ
1987年製作のデンマーク・スウェーデン合作映画。原題《Pelle erobreren》。デンマークの文豪マーティン・アナセン・ネクセの大河小説『勝利者ペレ』の映画化。監督:ビレ・アウグスト、出演:マックス・フォン・シドー、ペレ・ベネゴー、エリック・ポスゲほか。第60回米国アカデミー賞作品賞ノミネート。
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ペレ
生年月日:1940年10月23日
ブラジルの元・サッカー選手
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のペレの言及
【シュルレアリスム】より
…この実験の結果,思考の純粋かつ原初的な姿に触れうると信じた彼らは,アラゴン,エリュアールらとともに,その確信にもとづく新しい思想と運動の可能性を探りはじめた。20年からはツァラ,ピカビアらのパリ・ダダの運動に参加するが,他方,ペレ,デスノス,クルベル,エルンストらの詩人,画家を加えて,夢や催眠術,霊媒現象などの実地研究を行い,それらを通じて,理性の統御を受けないオートマティックな思考の存在を確認,これをかりに〈シュルレアリスム〉と名づける。ダダと決別したのち,24年に《シュルレアリスム宣言》(ブルトン起草)を発表し,それまでの活動を理論的に総括しつつ,思考の解放,想像力の復権,夢・狂気・不可思議の再検討等の主張を唱えるとともに,機関誌《シュルレアリスム革命Révolution surréaliste》を創刊,さらに〈シュルレアリスム研究センター〉を開設(1925)して,正式に集団的運動を発足させた。…
【近代建築】より
…オーストリアのO.ワーグナーは《近代建築Moderne Architektur》(1895)を著して近代運動の先駆となり,その影響下にベーレンス,ロース,J.ホフマンらを輩出した。またフランスではA.ペレが古典主義の造形を基調にしたコンクリート造建築をつくり,鉄筋コンクリート技術者エンヌビクFrançois HennebiqueやボドAnatole de Baudotらによる試みをさらに発展させた。都市のイメージに対しても,1918年T.ガルニエが〈工業都市〉案を提出し,中世都市をモデルとする都市理念を払拭した。…
【工場】より
…近代建築史で工場建築が高い評価を得るのは,[ベーレンス]のAEG社タービン工場(1907)とされるが,弟子[グロピウス]のファグス靴工場(1911)にいたって近代産業にふさわしい工場建築の典型が定まった。他方,フランスの[A.ペレ]は,パリの衣服工場(1919)のようにアーチやシェルなどコンクリート構法の特性を巧みに生かした工場を設計し広く影響を与えた。 日本の近代工場建築は,幕末に幕府が建てた長崎製鉄所(1861),薩摩藩が建設した集成館と呼ぶ工場群に始まる。…
【鉄筋コンクリート造建築】より
…その後ドイツのG.A.ワイスらが86年その構造計算方法を発表し,実際に橋,工場などを設計したため,建築全般に広く利用されるにいたった。フランスの建築家A.ペレは,1903年パリのフランクリン通りの集合住宅で,陶板で覆われた鉄筋コンクリートの骨組み,大きい窓,屋上テラスなどで外観を構成,鉄筋コンクリートの造形の可能性を示した。彼は23年にはル・ランシの教会で,鉄筋コンクリートの打放し仕上げ,架構の間をうめる色ガラスはめ込みプレキャストコンクリート格子,鉄筋コンクリートシェル構造の屋根などを採用,さらに鉄筋コンクリートの表現可能性を追求した。…
※「ペレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」