出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2016」現代外国人名録2016について 情報
フランスの建築家。ベルギーのブリュッセル生れ。パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)を中退し,2人の弟とともに父親の経営していた施工会社に加わる。パリのフランクリン街に建てた集合住宅(1903)は彼の設計,自身の会社の施工によるもので,初めて鉄筋コンクリートを全面的に用いた建物として知られる。彼の技術は,それまで構造家エンヌビックFrançois Hennebique(1842-1921)や建築家ボドーAnatole de Baudot(1834-1915)らが発展させてきたコンクリート構法を,機能性,経済性の側面から大規模に実用化したもので,20世紀の新しい建築の流れを方向づけた。建築活動は没年まで精力的に続けられ,主要作品にパリのシャンゼリゼ劇場(1913),パリ郊外ル・ランシーのノートル・ダム教会(1923),国立家具倉庫(1934),マルセイユ空港(1947)などがある。技術的な斬新さとは裏腹に,作風は一貫して古典主義の伝統がうかがえ,古典建築の比例感覚,構成法則,左右対称性など,他の近代建築家とは多少隔たる。また当初は疎んじられていたエコール・デ・ボザールにおいても,1924年から彼自身のアトリエを持ち,若い世代に強い影響を与え,多くの弟子を育てた。世紀末建築の影響下に自己のスタイルを築き上げたとはいえ,ペレは19世紀以来のフランス合理主義建築の潮流を最も正統的に継承したといえよう。
執筆者:三宅 理一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ブラジルのプロサッカー選手。本名はエドソン・アランテス・ド・ナシメントEdson Arantes do Nascimento。10月23日、ブラジルのトレス・コラソンエス(ミナス・ジェライス州)に生まれる。20世紀最高のプレーヤーとされ、「サッカーの王様」とよばれる。16歳でブラジル代表となり、1958年、17歳のときにワールドカップ・スウェーデン大会に出場。6ゴールをあげて優勝の立役者となった。1962年チリ大会では負傷のため2試合のみのプレーとなったがチームは連覇を達成した。1966年イングランド大会では集中マークにあって負傷、チームもグループリーグで敗退したが、1970年メキシコ大会では円熟したプレーを披露し三度目の優勝を飾った。所属クラブのサントス(ブラジル)でも11回も得点王をとるなど活躍し、チームを南米一(リベルタドーレス杯南米クラブ選手権優勝)、世界一(ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ優勝)へ導いた。1973年に退団したが、1975年に北米リーグのニューヨーク・コスモス(アメリカ)に移籍。アメリカのサッカー人気を盛り上げる起爆剤としての役割も果たした。1977年に現役を引退。
[西部謙司]
フランスの建築家。ブリュッセルに生まれる。1902年にパリに出て、エコール・デ・ボザールでジュリアン・ガデに学んだのち、弟ギュスターブGustave(1876―1952)と共同で、主としてパリを舞台に活躍した。鉄筋コンクリートの技術的開発に先駆的役割を果たした1人で、コンクリート固有の質感を建築構造のなかに生かして20世紀のフランス建築の立役者となった。初期の作品であるフランクリン街のアパート(1903)はコンクリートの骨組を露出した斬新(ざんしん)な設計によって材料そのものから新しい建築美を引き出している。そのほかパリ、ポンテュー街のガレージ(1905)、シャンゼリゼ劇場(1911~14)などの都市建築のほか、ル・ランシーのノートル・ダム聖堂(1922~24)、モンマニイのサント・テレーズ聖堂(1926)といった宗教建築も手がけた。第二次世界大戦後はル・アーブルの復興などで活躍した。
[濱谷勝也]
フランスの詩人。ルゼに生まれる。1920年パリに出て、ブルトンらと交流。24年以後、文学的にも政治的にも、もっとも忠実なシュルレアリストの1人として生涯を送る。『サン・ジェルマン大通り125』(1923)などのコント集、『大いなる賭(かけ)』Le Grand Jeu(1928)などの詩集には、日常の言語から汲(く)まれた幻想的イメージと痛烈なユーモアが横溢(おういつ)し、シュルレアリスムの一典型を思わせる。
[巖谷國士]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1940.10.23 -
ブラジルのサッカー選手。
ミナス・ジェライス州トレスコラソンエス生まれ。
本名エドソン・アランテス・ド・ナシメント〈Edson Arantes do Nascimento Pelé〉。
サッカー選手の子で、サッカーの神様または黒い魔術師といわれる名選手。15歳でプロチーム、サントスFCに入り、1958年のストックホルム・ワールドカップには最年少の17歳で出場。以後ワールドカップには’62年、66年、’70年に出場し66年以外は優勝、ただ一人のワールドカップ3度優勝経験者となる。’71年国際試合引退を声明。’74年現役引退。’75年アメリカ・プロサッカーチーム・コスモスに復帰。’78年公式試合1700ゴールを達成。著書「ペレのサッカー」(’75年)。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…この実験の結果,思考の純粋かつ原初的な姿に触れうると信じた彼らは,アラゴン,エリュアールらとともに,その確信にもとづく新しい思想と運動の可能性を探りはじめた。20年からはツァラ,ピカビアらのパリ・ダダの運動に参加するが,他方,ペレ,デスノス,クルベル,エルンストらの詩人,画家を加えて,夢や催眠術,霊媒現象などの実地研究を行い,それらを通じて,理性の統御を受けないオートマティックな思考の存在を確認,これをかりに〈シュルレアリスム〉と名づける。ダダと決別したのち,24年に《シュルレアリスム宣言》(ブルトン起草)を発表し,それまでの活動を理論的に総括しつつ,思考の解放,想像力の復権,夢・狂気・不可思議の再検討等の主張を唱えるとともに,機関誌《シュルレアリスム革命Révolution surréaliste》を創刊,さらに〈シュルレアリスム研究センター〉を開設(1925)して,正式に集団的運動を発足させた。…
…オーストリアのO.ワーグナーは《近代建築Moderne Architektur》(1895)を著して近代運動の先駆となり,その影響下にベーレンス,ロース,J.ホフマンらを輩出した。またフランスではA.ペレが古典主義の造形を基調にしたコンクリート造建築をつくり,鉄筋コンクリート技術者エンヌビクFrançois HennebiqueやボドAnatole de Baudotらによる試みをさらに発展させた。都市のイメージに対しても,1918年T.ガルニエが〈工業都市〉案を提出し,中世都市をモデルとする都市理念を払拭した。…
…近代建築史で工場建築が高い評価を得るのは,ベーレンスのAEG社タービン工場(1907)とされるが,弟子グロピウスのファグス靴工場(1911)にいたって近代産業にふさわしい工場建築の典型が定まった。他方,フランスのA.ペレは,パリの衣服工場(1919)のようにアーチやシェルなどコンクリート構法の特性を巧みに生かした工場を設計し広く影響を与えた。 日本の近代工場建築は,幕末に幕府が建てた長崎製鉄所(1861),薩摩藩が建設した集成館と呼ぶ工場群に始まる。…
…その後ドイツのG.A.ワイスらが86年その構造計算方法を発表し,実際に橋,工場などを設計したため,建築全般に広く利用されるにいたった。フランスの建築家A.ペレは,1903年パリのフランクリン通りの集合住宅で,陶板で覆われた鉄筋コンクリートの骨組み,大きい窓,屋上テラスなどで外観を構成,鉄筋コンクリートの造形の可能性を示した。彼は23年にはル・ランシの教会で,鉄筋コンクリートの打放し仕上げ,架構の間をうめる色ガラスはめ込みプレキャストコンクリート格子,鉄筋コンクリートシェル構造の屋根などを採用,さらに鉄筋コンクリートの表現可能性を追求した。…
※「ペレ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
貨幣 (名目) 賃金額を消費者物価指数でデフレートしたもので,基準時に比較した賃金の購買力を計測するために用いられる。こうしたとらえ方は,名目賃金の上昇が物価の上昇によって実質的には減価させられている...