日本大百科全書(ニッポニカ) 「ステンカ・ラージンの乱」の意味・わかりやすい解説
ステンカ・ラージンの乱
すてんからーじんのらん
Разинщина/Razinshchina ロシア語
1667~71年のロシアの農民戦争。17世紀に、中央ロシアの農奴制の強化に伴い増大した逃亡農民のコサック加入や、コサック内での階層分化の進展により、「ゴルイチバ」とよばれる無産コサックが増加して、彼らの間に政府に対する不満が高まった。そこに指導者ステンカ(ステパン)・ラージンが現れ、ゴルイチバを結集して反乱を起こした。彼は、67年春、ゴルイチバを率いてドン川からボルガ川に出、船舶を襲い、カスピ海に出たのち、ヤイク(ウラル)川の河畔で越年し、69年にかけてカスピ海沿岸の諸都市を略奪し、ドン川に帰って本営を築いた。さらに70年春、数千のコサックを率いて本営を出、反乱を宣してボルガ川に現れた。ツァリーツィン(現ボルゴグラード)、アストラハンを占領し、7月からボルガ川をさかのぼり、たちまちサラトフ、サマラを占領したのち、シンビルスクを包囲した。反乱は、ボルガ川一帯とドン川中・下流地域に波及し、農民のみならず都市下層民、少数民族や政府軍の一部を巻き込み、その間占領地ではコサック式の自治が敷かれ、ラージンはツァーリの役人と農奴制の圧制から全ロシアを解放すると宣言して、モスクワ政府に著しい脅威を与えた。しかし10月、西欧式訓練を受けた政府軍の攻撃に反乱軍は大敗し、ラージンはドン川の本営に逃れたが、71年4月にコサック首脳部の裏切りによって逮捕され、モスクワで処刑された。政府軍は同年末にはアストラハンを占領して、反乱を終息させた。
[伊藤幸男]
『阿部重雄著『帝政ロシアの農民戦争』(1969・吉川弘文館)』