翻訳|Zululand
南アフリカ共和国東端、旧ナタール州(現、クワズールー・ナタール州)北東部にあった黒人自治区(ホームランド)。バントゥー系ズールー人の居住地域であった。1993年暫定憲法成立により、クワズールー・ナタール州に組み込まれた。東はインド洋に臨み、北はモザンビークとスワジランド(現、エスワティニ)に接し、南はトゥゲラ川に至る。面積2万6836平方キロメートル、1981年時点の人口342万2140、うち黒人は340万9000であった。中心地はエショウェ。肥沃(ひよく)な海岸平野が広がり、暖流の影響で亜熱帯植物が育ち、シュロ林が多い。サトウキビ栽培と牧畜が行われる。19世紀初、ズールーの王シャカによって築かれたズールー王国の地で、かつては、はるかに広大な領土をもっていた。1838年、ブーア人(オランダ系移民)との戦いに敗れてから領土を奪われ始め、1879年、いわゆるズールー戦争によってイギリス軍に侵略を受け、1887年には正式にイギリス領となり、1897年にナタール植民地に併合された。1959年に制定されたバントゥー自治促進法によってズールー人の自治区となった。ズールー人の復権とホームランド制度に反対するインカタ運動の拠点となっていた。
[林 晃史 2018年8月21日]
南アフリカ共和国東部にあったバントゥースタンの一つ。現在は旧ナタール州といっしょになってクワズールー・ナタール州を形成している。バントゥースタンとしての呼名はクワズールーKwazulu。面積3万1443km2,人口210万6000(1970)。東はインド洋にのぞみ,北西はスワジランド,北はモザンビークに接する。住民の大部分はズールー族で,ズールー族はかつて現在のズールーランドよりはるかに広大な地域を占めるズールー王国をつくりあげた。1837年にディンガネ王が侵略してきたボーア人(オランダ系白人)500人以上を殺したため,翌年報復として3000人のズールー族が殺された。43年ナタールを植民地としたイギリスは,ズールー王国の征服を試みたが強い抵抗にあい,79年にいわゆるズールー戦争を強行し,87年にその全領土を併合した。97年ナタール植民地に統合されたズールーランドは,その後原住民保留地として統治された。1959年成立したバントゥー自治促進法によって,ズールー族の自治区となったが,多くの飛地に分かれていた。自治区の政府はアパルトヘイト政策による〈独立〉には反対していた。
執筆者:西野 照太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「クワズールー」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…牛を飼育しながら南方に移動し,10~14世紀に南アフリカに達したといわれる。 ズールー族の住む地域はズールーランドと呼ばれたが,ズールー族は19世紀初めのシャカ王の時代に強力な軍事力によってズールー王国を形成した。1830年代にケープ植民地のボーア人たちがイギリスの支配に反発して北方への大移動(グレート・トレック)を開始した結果,ズールー族と衝突し,1838年の血の河の戦でズールー王国は手痛い敗北を被った。…
※「ズールーランド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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