日本大百科全書(ニッポニカ) 「エスワティニ」の意味・わかりやすい解説
エスワティニ
えすわてぃに
Eswatini
アフリカ南部の内陸にあるスワティ人の立憲君主国。正式名称はエスワティニ王国Kingdom of Eswatini。東側でモザンビークと国境を接し、ほかは南アフリカ共和国に囲まれる。面積1万7364平方キロメートル、人口93万(2000推計)。首都はムババネ。2018年に国名をスワジランドからエスワティニに変更。
[林 晃史]
自然
地勢は西側から標高平均1200メートルの山岳地帯、ついで平均600メートルの高原地帯、それに低地帯の三つに分かれており、国土の全域をコマティ川、ウムブルジ川、ウストゥ川、ヌグワブマ川などが東西に流れているため山岳地帯を除いて地味も豊かで、農業、牧畜に適している。気候は地域によって差があるものの全体に温暖である。
[林 晃史]
歴史
19世紀以前の歴史については明らかでないが、石器が発見され、また先住民の岩窟(がんくつ)壁画が国内の至る所で発見されていることから、早くからこの地に人が住んでいたと思われる。18世紀ごろからバントゥー系のスワティ人が定着し、1815年ソブーザ1世が統一王国を建設した。さらにその息子ムスワジ王は1840年ころ勢力圏を拡大して基礎を築いた。1840年代白人が到来し始め、1875年即位したムバンドゼニ王から土地所有権、鉱産物採掘権を得た。第一次ブーア戦争終結後の1881年のプレトリア協定によって、海への出口を欲するトランスバール政府がスワティ人の領土の一部併合をイギリスに認めさせたが、イギリスは1884年のロンドン協定によって残余の地域でのスワティ人の主権を承認した。そして1902年イギリスはスワジランドを正式に保護領化し、スワティの伝統的支配を残しながら間接統治した。1960年代後半の独立要求に対しイギリスは1968年9月6日独立を認め、スワジランドはソブーザ2世を君主とする立憲君主国となった。
[林 晃史]
2018年4月に行われた独立50周年記念式典で、国王ムスワティ3世が国名を「エスワティニ王国」に変更することを宣言した。
[編集部]
政治
独立時の憲法では議会は上下両院よりなり、上院は首長層からなる10名、下院は24名で構成され、全議員はソブーザ王の組織するインボコドボ国民運動党員であった。1972年の第1回選挙で野党アフリカニスト・スワジランド進歩党が3議席を獲得すると、1973年4月、王は独立時の憲法は伝統的政治制度にあわないとして停止し、立法、司法、行政の全権を掌中にし、長老会議の諮問を受けて政治を行った。1978年新憲法が発布され、二院制の議会がつくられたが、選挙は国内40の首長区でまず80名の議員を選び、そのなかから下院40名、上院10名が王によって指名される。さらに王は両院に10名ずつ追加任命でき、また大臣の任免権、立法拒否権をもつという王の独裁権の強いものである。
1982年8月、在位61年を誇ったソブーザ国王が死去、後継者をめぐって王室の内部抗争が表面化した。国王の第一夫人で摂政(せっしょう)に就任したゼリウェ王妃とヌトムビ王妃が対立、1983年8月ゼリウェ王妃は摂政の地位を追われ、後継摂政にはヌトムビ王妃が、次期国王には同王妃の息子マホセティベ王子が就任した。1986年マホセティベ王子がムスワティ3世として即位した。新国王は対立するムファナシビリ王子を投獄し、前首相、政府高官、王族関係者を国家反逆罪で逮捕した。
1973年以来、政党活動が禁止され、野党ングワネ国民解放組織(NNLC)は国外に亡命し、武力による王制打倒運動を続けてきた。1989年、独立前の民族運動指導者A・ズワネが人民統一民主運動(PUDM)を結成し、民主化運動を開始した。
1996年1月、スワジランド労働組合連合(SFTU)は、1973年から続いている国家非常事態宣言の撤廃、王制の廃止、複数政党制に基づく民主政治の実施を要求してゼネストを実施した。これに対し国王は、新憲法の起草、政党活動禁止の見直しを約束し、民主化に向けて動き出した。
外交は、反人種差別主義の立場にたちながらも経済関係から南アフリカ共和国、またマプート港の使用を通じてモザンビークと友好関係を保っている。
[林 晃史]
経済
国土の45%は現在も白人(人口の2%)所有地で、輸出用農作物の砂糖、柑橘(かんきつ)類、米、パイナップルは白人大農場経営者によって高原地帯や低地帯で栽培されている。アフリカ人のほとんどは自給自足農業でトウモロコシ、モロコシ、いも類を生産し、一部低地帯で綿花、砂糖を栽培しているにすぎない。山岳地帯は針葉樹、ユーカリなどの木材のほか、ハベロックの石綿鉱山はイギリス系ターナー・ニューウォル社に、ヌグウェンヤの鉄鉱石と低地帯にあるムパカの石炭は南アフリカ共和国系アングロ・アメリカン社によって採掘されてきた。また製造工業は、隣国に南アフリカ共和国があるため、これに押されて未発達で、わずかにマンジニに肥料、トラクター、ファスナー工場があるにすぎない。自国の港をもたないため、1964年にモザンビークのマプート港への鉄道が完成するまでは全面的に南アフリカ共和国の港に頼っていた。日用雑貨類に至るまで輸入品の95%までを南アフリカ共和国製品が占めている。
エスワティニは「南部アフリカ関税同盟(SACU)」の一員であると同時に、1980年に南アフリカ共和国の経済支配からの脱却を目的に、南部アフリカ9か国が結成した「南部アフリカ開発調整会議(SADCC)」(1992年改組して「南部アフリカ開発共同体(SADC)」に移行。加盟国は15か国)にも加盟している。さらに東・南部アフリカ19か国で1982年に結成された「東・南部アフリカ特恵貿易地域(PTA)」(1992年改組して「東・南部アフリカ共同市場(COMESA)」に移行。現在19か国加盟)にも加盟している。
[林 晃史]
社会
総人口のうち84%はスワティ人で、10%がズールー人である。アフリカ人のうち15万人程度は常時南アフリカ共和国へ出稼ぎに出ている。公用語は英語とスワティ語である。賃金労働者は約9万4000人で、労働人口のわずか30%を占めるにすぎず、その大半は白人農場の労働者である。教育では小学生19万3000人、中学生5万2000人で、あわせて686校、教員・技術者養成学校11校で、大学はスワジランド大学(現、エスワティニ大学)のみである(1994)。新聞は日刊紙3、週刊紙3が発刊されている。
[林 晃史]
日本との関係
ヌグウェンヤの鉄鉱石長期買付け輸入を通して関係があったが、鉄鉱石が枯渇したため、現在、低地帯の石炭採掘とその輸入で協力している。マンジニのファスナー工場は日本のYKKとエスワティニ政府との合弁事業である。
[林 晃史]