改訂新版 世界大百科事典 「バントゥースタン」の意味・わかりやすい解説
バントゥースタン
Bantustan
南アフリカ共和国政府の分離発展政策によってつくられた南ア共和国内のアフリカ人自治地域。1913年の原住民土地法により,南ア連邦内のアフリカ人は全国土の9%に相当する原住民指定地(リザーブ)内に部族ごとに隔離され,次いで36年の原住民信託土地法によってその面積は13%まで拡大されることになったが,その実施は第2次世界大戦の勃発によって大幅に遅れた。50年代になってリザーブ内の土地に対する人口圧が高まり,その解決を目ざしてバントゥー地域社会経済開発委員会(通称トムリンソン委員会)が政府により任命され,その報告書が55年提出された。政府はその勧告案に基づき,従来のアフリカ人隔離政策からアフリカ人の自治・独立を目ざす分離発展政策へ転換し,59年バントゥー自治促進法を制定した。同法の骨子は(1)アフリカ人の議会代表を廃止し,(2)アフリカ人地域を言語・文化に基づいて10地域に分け,(3)将来,各地域の自治・独立を許す,というものであった。同法に基づいて,63年12月最初のバントゥースタンとしてトランスケイTranskei自治政府が発足し,次いでクワズールーKwazulu(72年3月),ボプタツワナBophuthatswana(同年5月),シスケイCiskei(同年7月),レボワLebowa(同年9月),ガザンクルGazankuluとベンダVenda(73年1月),バソト・クワクワBasotho Qwa Qwa(74年10月),カングワネKaNgwane(77年9月)が自治国(バントゥースタン)となった。ただクワヌデベレKwaNdebeleは1951年に制定されたバントゥー統治機構法の下に置かれた。
これらバントゥースタンは,政治的にはおのおのの地域内で名目的〈自治〉を認められながらも,実質的には防衛,外交,国内治安,課税,憲法改正の権限は南ア共和国の留保事項となっていた。経済的にはアフリカ人人口に比して土地が著しく狭いこと,農業の低生産性,わずかな鉱産資源,工業の未発達のため,人口の多くは白人工業都市に出稼ぎに出ざるをえず,また,財政の60%以上を南ア共和国政府の補助金に依存した。
1970年代後半,南部アフリカでの解放闘争の激化とアンゴラ,モザンビークの独立の影響を受け,南ア共和国政府は分離発展政策をさらに進めて,76年10月トランスケイに〈独立〉を付与し,続いてボプタツワナ(77年12月),ベンダ(79年9月),シスケイ(81年12月)にそれぞれ〈独立〉を与えた。しかし,この〈独立〉に対しては,南ア共和国を除いて世界のどの国も独立国家として承認を与えなかった。
なお1970年のバントゥー・ホームランド市民権法制定以後,バントゥースタンはバントゥー・ホームランドBantu Homelandあるいは単にホームランドHomelandと呼ばれるようになり,さらに〈独立〉が付与されたものに対しては黒人国家という名称が,南ア共和国内では公式に使われた。79年11月の南ア共和国の南部アフリカ経済統合政策(コンステレーション政策)以降,上記4〈独立〉黒人国家はこれに加盟した。
1990年以降のデ・クラーク大統領の対話政策に対して,黒人国家およびホームランドの対応は分かれ,最後まで選挙に反対していたシスケイとボプタツワナの両黒人国家では市民の圧力で選挙に参加した。また選挙のための行政区改革過程で,これまでの4州は新たに9州に分割され,黒人国家とホームランドもすべて南アフリカに再統合されることになった。ただ,これらを包摂した各州の州間の経済格差は著しい。
→アパルトヘイト
執筆者:林 晃史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報