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オスマン帝国第9代のスルタン(在位1512~20)。第8代のバヤジト2世の息子で、王子の時代はトラブゾン州の軍政官。2人の兄王子と王座を争い、イェニ・チェリ(親衛軍団)の反乱により王位についた。兄や甥(おい)たちを殺すなど激しい気性からヤウズ(冷酷者)とあだ名される。
即位後、チャルドランの戦い(1514)でサファビー朝のシャー・イスマーイールに勝利し、タブリーズを占領。1517年エジプトに出陣し、マムルーク朝を滅ぼし、シリア、ヒジャーズをオスマン朝に併合した。アッバース朝の最後のカリフを幽閉して、自らカリフと称し、スンニー派の擁護者となり、ここにスルタン・カリフ制が成立した。彼はまた知識人で、ペルシア語による詩集もある。
[永田真知子]
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…これに対して歴代のスルタンは,軍事,行政,教育,法制などの分野における西欧化改革を進めることによって,ヨーロッパの要求にこたえつつ,自己の中央集権的専制支配を再確立する道を模索した。
[西欧化とその反響]
セリム3世Selim III,(在位1789‐1807)が新設した西欧型新軍団〈ニザーミ・ジェディードNizam‐ı Cedid〉に象徴されるように,帝国の改革はまず軍事組織から始まった。マフムト2世(在位1808‐39)は,イエニチェリ軍団を全廃し,同時にこれと結びついたベクターシュ教団を閉鎖し(1826),中央官制を改革して大宰相(サドラザム)に集中していた権力を分散させて,スルタンの権限を強化した。…
…戦闘はドナウ川沿岸とカフカスの東西両国境で戦われたが,バルカンでは,P.カラジョルジェの指導下にオスマン帝国に反乱したセルビア人がロシアの支援をあてにしていた(セルビア蜂起)。戦争中,オスマン帝国では改革派のスルタン,セリム3世Selim III(在位1789‐1807)が殺されるなど政局は定まらず,ロシア側もフランスとの外交関係が悪化したため,両国は1812年5月ブカレスト条約を結び,ロシアがベッサラビアを併合し,ワラキアとモルダビアをオスマン帝国に返還し,セルビアは若干の自治を獲得して独立への足がかりを得た。21年のエテリア蜂起に始まったギリシア人の民族独立運動(ギリシア解放戦争)は西欧諸国の関心を呼び,27年10月に,イギリス,ロシア,フランスの連合艦隊は,ナバリノの海戦で,トルコ・エジプト艦隊を破り,ギリシア独立への道を開いた。…
※「セリム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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