イラン北西部の都市。東アゼルバイジャン州の州都。人口136万5476(2003)。テヘランから628km,テヘランとジョルファを結ぶ鉄道が通る。標高1360m,サハンド山の麓に位置し,年降水量は286mm。冬は積雪をみ,寒さが厳しいが,夏はしのぎやすい。トルコ系の住民が多く,アゼリー(アゼルバイジャン語)と称するトルコ系言語を話す。東西交通の要衝を占めており,東にはカズビーン,北にはジョルファ,北西にはトラブゾンに道路が通ずる。
歴史は古く,パルティア時代にアルメニアの王が建設,1世紀にはパルティア王ティリダテス3世の都であったが地震で破壊され,8世紀にアッバース朝カリフ,ハールーン・アッラシードの妻ズバイダが再建した。地震帯に位置しているためしばしば震災を受けた(858,1042,1641,1728,1785,1854,1856)ほか,1866年にはコレラが流行し10万人の死者を出した。
セルジューク朝下では商業の小中心地にすぎなかったが,アゼルバイジャン・アタ・ベク朝下では1191年に首都となり栄えた。1231年モンゴル軍に占領され荒廃したが,イル・ハーン国の下では再び首都となり,ガーザーン・ハーンの治下で繁栄を享受した。1386年ティムールの支配下に入り,1473年にはカラ・コユンル朝のウズン・ハサンの首都となった。1501年にはイスマーイール1世がタブリーズでサファビー朝を創建した。カージャール朝下ではテヘランに次ぐ重要な都市で,皇太子が知事を務め,対ヨーロッパ貿易の拠点として栄えた。1842年の人口は10万~12万人と推定されている。20世紀初めのイラン立憲革命ではサッタール・ハーンに率いられたタブリーズ市民は革命の立役者となった。
第1次大戦中ロシア軍が進駐,1917年のロシア革命後はオスマン・トルコ軍が占領,第2次大戦下では41年にソ連軍が進駐,45年のアゼルバイジャン共和国成立に際しては一時共和国軍が占領した。じゅうたんが有名で,干しブドウなど乾果も多く産する。
執筆者:岡﨑 正孝
タブリーズは,イル・ハーン国,サファビー朝両時代に写本芸術の発達の舞台となり,〈タブリーズ派〉によって多数の写本挿絵の傑作が生まれた。建築遺構としては,1465・66年にカラ・コユンル朝のジャハーン・シャーによって建てられたトルコ型のマスジェデ・カブードがまず挙げられる。これはユニークなプランと壁面を飾る青を基調としたモザイク・タイル(ここから〈ブルー・モスク〉の俗称が生まれた)で知られている。冬のモスクとして建造されたので規模は小さい。大部分が廃墟と化しているが,その壮大なピーシュターク(正面入口)の一部などが残存する。城門と城壁のみが残存する煉瓦造の規模雄大な城砦(アルグ)は,イル・ハーン国のウルジャーイートゥー・ハーンの宰相タージュ・アッディーン・アリー・シャーが1310-20年ころに建設したマスジェデ・ジャーミー(別名マスジェデ・アリー・シャー)から転用されたものである。タブリーズにはこのほかイランの代表的な公園で,東欧風のパビリオンを有するバーグ・エ・ゴレスターン(〈薔薇の園〉の意)がある。博物館としては,考古・民俗資料を展示するアゼルバイジャン博物館がある。
執筆者:杉村 棟
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イラン北西部、東アゼルバイジャン州の州都。サハンド山の山麓(さんろく)、標高1362メートルの高地に位置する。人口119万1043(1996)、155万8693(2016センサス)。年降水量は285ミリメートル、冬は寒く降雪をみるが、夏はしのぎやすい。テヘランの北西628キロメートル、イランとアナトリア地方を結ぶ交通の要衝を占め、テヘランとアゼルバイジャン、アルメニアとの国境にあるジョルファを結ぶ鉄道が通じる。トルコ系住民が多く、アゼリーと称するトルコ系言語を話す。地震帯に位置するため何度も震災を受け、たとえば1042年には4万人が死亡したと伝えられている。また1866年にはコレラが流行し、10万人の死者を出した。じゅうたんの集散地として知られる。
[岡﨑正孝]
イランからアナトリア、ジョージア(グルジア)に通じる交通の要地にあったが、本格的に発展したのはイル・ハン国(1258~1353)の首都となってからである。ラシード・ウッディーン(1247?―1318)の建設した新市街だけでも、3万軒の家、24のキャラバンサライ(隊商宿)、1500軒の店があり、400人の法学者、神学者がいたという。商都であると同時に文化の中心地としての性格は、現在まで変わっていない。住民のトルコ化が進行したのも、セルジューク朝時代ではなく、イル・ハン国期であったと考えられる。アク・コユンル、カラ・コユンルの首都となり、カージャール朝(1779~1925)時代にはイラン最初の印刷所が置かれた。立憲革命期には反政府蜂起(ほうき)があり、運動の拠点となった。第二次世界大戦後、東アゼルバイジャン州の州都となり、イランの主要都市の一つとして現在に至っている。
[清水宏祐]
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イラン北西部の都市。12世紀後半から重要都市として発展し,イル・ハン国,カラコユンル(黒羊朝),アクコユンル(白羊朝)の首都。サファヴィー朝も当初首都とした。カージャール朝時代には皇太子が封じられる副都とされ,軍などの近代化の先駆けの地となった。イラン立憲革命に際して立憲派のタブリーズ蜂起の舞台となり,重要な役割を果たした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…モンゴルは欧亜にまたがる大帝国を建てたが,モンゴルとヨーロッパが文化的に密接に接触した2ヵ所の都市があった。その1ヵ所はイル・ハーン国の主都であったペルシアのタブリーズであった。ここではイタリアを中心としたヨーロッパ諸国とのあいだに公式な交渉があり,各国の代表部が置かれ,しばしば使節が派遣された。…
※「タブリーズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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