チャン・フンダオ (陳興道
)
Tran Hung Dao
生没年:?-1300?
13世紀,元軍の侵攻を打ち破ったベトナムの民族英雄。本名はチャン・クオック・トゥアン(陳国峻)であるが,興道王であったことからこの名が一般的。宗室の一族に生まれ,幼時から群書を博覧して著名であった。1257年モンゴル軍の第1回侵入に際しては北辺を守って大功をたて,83年,元軍の第2回侵攻に際して,国公としてベトナム軍の総指揮官に任じられた。85年,一時はハノイに侵入した元軍のために,中部ベトナムのタインホアにまで退却したが,清野策(敵が利用できぬよう家屋などを取り払う作戦)をもって元軍を苦しめた後,バンキエップ(万劫)で大破してベトナム境外に駆逐した。87年の第3回侵攻では海路からバクダンザン(白藤江)に集合した元の水軍と補給船を,あらかじめ打ち込んだ杭にひっかけて全滅させた。戦後,この功により大王に進封されたが,1300年ころ病没した。死後,興道大王として神格化され,8月20日の命日には国をあげての大祭が挙行される。兵法家として《兵書要略》《万劫宗秘伝書》等の書がある。宗室出身の田庄所有者としてチャン朝の典型的な貴族政治家,軍人であるが,彼が抗元戦中に育てたファム・グー・ラオ(范五老)ら門客は,その後非宗室系官僚群を形成し,貴族制から律令制への橋渡しをした。
執筆者:桜井 由躬雄
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チャン・フンダオ
ちゃんふんだお / 陳興道
Trân Hu'ng Dao
(1232―1300)
13世紀ベトナムで、モンゴル軍の侵略を破った民族英雄。本名チャン・クォクトゥアン(陳国峻)。クォクトゥアンはベトナム陳朝の王族の子に生まれ、興道(フンダオ)王に封ぜられた。チャン・フンダオの名はこれに始まる。
1283年、元(げん)のフビライ・ハンのベトナム侵寇(しんこう)を目前にして、陳の仁宗はフンダオを国公に任じ、天下の諸軍を統率させた。翌年フンダオが書いた『檄(げき)将士文』はベトナム古典中の名文として知られる。85年春、元軍が迫ると、フンダオは帝を擁してソンコイ川(紅河)を下り、中部のタインホアに落ちた。このとき、降伏しようとする帝に、まず臣の首を断てといさめた話は名高い。山地よりハノイに迂回(うかい)したフンダオの軍は5月にはソンコイ川デルタ一帯で元軍を破り、逃げる元軍を追撃して大勝利を収めた。
87年、再度侵寇した元軍はたちまちソンコイ川デルタ一帯を占領したが、ベトナム側の焼土作戦にあって糧食に窮し、ふたたび撤退に追い込まれた。この撤退の際、元軍の水軍がバクダンザン(白藤江)で干潮時に打ち込まれた杭(くい)にかかって大敗した話もよく知られる。フンダオは現在、民族英雄として高く評価されるとともに、霊神としても尊崇される。
[桜井由躬雄]
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チャン=フン=ダオ
Trna Hung Dao
1232ごろ〜1300
モンゴル軍の侵入を撃退した,ヴェトナム陳朝の軍人・政治家
王族に生まれた。3回にわたるモンゴル軍の侵入(1257〜87)を撃退し,死後に神格化されて民族的英雄となった。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内のチャンフンダオの言及
【チャン朝】より
…モンゴルは1257,84,87年の3度ベトナムを襲うが,特に1283年には[チャンパ]の征討の道を得ると称して,数十万の元軍が陸・海路よりベトナムに侵入しようとした。上皇チャン・ニャントン(陳仁宗)は天下の父老を集めて徹底抗戦を宣言し,[チャン・フンダオ](陳興道)を国公として諸軍を率いさせた。84年元軍はベトナムに入寇し,翌年昇竜城(ハノイ)を占領し,上皇は南方に逃れた。…
※「チャンフンダオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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