チャン朝(読み)チャンちょう(その他表記)Trieu Tran

改訂新版 世界大百科事典 「チャン朝」の意味・わかりやすい解説

チャン朝 (チャンちょう)
Trieu Tran

ベトナムのリ(李)朝を継いだ第2の長期安定王朝。1225-1400年。陳朝とも書く。チャン朝の祖は中国の福建または桂林の人といわれ,代々ナムディンのトゥクムク(即墨郷)に住み,漁業あるいは海賊を業としていた。リ朝末期,権臣のクーデタにより南方に亡命していたリ・フエトン(李恵宗)をチャン・リ(陳李)が保護し,これに娘(元妃)をめとらせ,さらにハノイを奪還して帝位につけたことから急速に勢力を拡大した。リ朝末の内乱期には一族のチャン・トゥ・ド(陳守度)が殿前指揮使となって各地の土豪を討伐し,さらにリ朝最後の皇帝ティエウホアン(昭皇)を甥のチャン・カイン陳煚(ちんけい),後のタイントン(太宗)。在位1225-58)と結婚させ,ついにカインに譲位させた。

 チャン朝治下では,中央では太師,太傅,太保,太尉司徒,左右相国等の大臣が政府を構成し,地方は知府をおく府と,正副安撫使,通判をおく路とに分けられ,その下に州,県,郷がおかれた。しかし高官の多くはチャン氏一族に占められていた。土地制度では人丁ごとにその所有田土に応じて銭粟を徴収する制,また公田奴婢や受刑者に耕作させる制もあったが,その一方でチャン氏一族が奴婢に大河川,沿海部を開拓させる田庄制が盛行した。軍隊も一応徴兵による禁軍,諸路軍の制があったが,チャン氏一族の私兵が有力であった。このように13世紀を通じてチャン朝の政治は私兵,田庄をもつチャン氏一族によって独占されていた。したがって実質的な支配権は皇帝よりも一族の長である上皇に移りがちであった。

 チャン朝はモンゴルの侵略とその抗戦で知られる。モンゴルは1257,84,87年の3度ベトナムを襲うが,特に1283年にはチャンパ征討の道を得ると称して,数十万の元軍が陸・海路よりベトナムに侵入しようとした。上皇チャン・ニャントン(陳仁宗)は天下の父老を集めて徹底抗戦を宣言し,チャン・フンダオ(陳興道)を国公として諸軍を率いさせた。84年元軍はベトナムに入寇し,翌年昇竜城(ハノイ)を占領し,上皇は南方に逃れた。しかしただちに反攻が始まり,その年のうちに元軍は国境外に駆逐された。87年には3度,元軍が海路より侵攻したが,翌年チャン・フンダオはこれをバクダンザン(白藤江)に迎撃して破った。94年,世祖フビライの死とともに,元はベトナム侵攻を最終的に中止した。14世紀中葉ころから,チャン氏一族およびその門客の支配に対し,科挙官人層の進出が始まり,その指導者で外戚ホー・クイ・リ胡季犛)が1400年に帝位を奪して,チャン朝は滅びた。チャン朝はいわば,貴族制的な国家が律令制的国家に移行する過渡期に位置するといえよう。

 チャン朝期には科挙制の確立をはじめ,中国の儒教文化が大量に導入された。レ・バン・フー(黎文休)の《大越史記》をはじめ,漢文による歴史書の編纂が行われる一方で,民族文字チュノム(字喃)が盛んに用いられるようになり,また民俗信仰が神統譜としてまとめられる(《越甸(えつでん)幽霊集》)など,民族文化が著しく発展した時代でもある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のチャン朝の言及

【ベトナム】より

…しかしそれもおのおの私領と私兵を有する封建領主的なものであった。したがってチャン朝の実権者は一族の長である上皇であった。13世紀末,元は3次にわたってベトナムに侵入したが,これを迎撃して大敗させたのはチャン・フンダオ(陳興道)ら一族の領主たちとその私兵であった。…

※「チャン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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