日本大百科全書(ニッポニカ) 「ティッセン」の意味・わかりやすい解説
ティッセン(鉄鋼メーカー)
てぃっせん
Thyssen AG
ドイツの代表的鉄鋼メーカーであったが、1999年、同じドイツの名門鉄鋼企業、クルップ社と合併し、ティッセンクルップ社となった。鉄鋼業は基幹産業として19世紀後半のドイツの近代化の過程で飛躍的な発展を遂げたが、ティッセン社はその中核企業の一つ。1867年アウグスト・ティッセンが友人とデュースブルクで事業を開始し、1871年エッセン近郊に合資会社ティッセン社を設立した。この一帯は豊かな炭鉱をもつ、ルール工業地帯とよばれるドイツ経済の心臓部であり、またヨーロッパ最大の工業地帯でもあった。ティッセンは1891年にルールの炭鉱を買収し、鉄鋼・石炭コンツェルンを設立した。第一次世界大戦後、アウグスト・ティッセン・ヒュッテと社名を変更。ドイツの敗戦とそれに続く世界不況のなかで鉄鋼業界は大同団結し、ライン-エルベ連合、ティッセン・グループ、フェニックス・グループ、ラインシュタールの四つの鉄鋼グループに属する7社が合同して、1926年に合同製鋼会社Vereinigte Stahlwerke AGが成立した。資本金8億ライヒスマルク、従業員25万人を擁し、ドイツ銑鉄生産の45%、石炭生産の25%を占めた。これは当時、ヨーロッパ最大の鉄鋼会社となり、第二次世界大戦下ではドイツの軍需産業の中心的役割を担った。
第二次世界大戦後、連合国の管理下に置かれ、ドイツ経済の集中力排除という連合国の方針の下で、分割解体された。1951年に第2代フリッツ・ティッセンが没すると、未亡人アメリーを中心として、アウグスト・ティッセン・ヒュッテの再建が図られ、1953年再出発を果たした。1964年、大手鋼管メーカーのフェニックスを傘下に収めるなどして、世界有数の鉄鋼一貫メーカーに発展。1977年、ティッセンと社名を変更した。
ドイツの鉄鋼業界は、1996年から1997年にかけて、売上高で業界第3位のクルップが業界第1位のティッセンに対して敵対的買収に乗り出し、最終的には1999年にティッセンとクルップ両社は合併して、ティッセンクルップ社ThyssenKrupp AGとなった。新会社の出資比率はティッセンが60%、クルップが40%であった。ティッセンの合併前における1998年9月期の売上高は435億3700万マルク、売上げの内訳は自動車部品23%、鉄鋼17%、貿易15%の順になっていた。また地域別の売上げをみると、ドイツ国内44%、ドイツ以外のヨーロッパ連合(EU)諸国23%、北米22%となっていた。従業員数12万2359人。320を超えるグループ企業を傘下に抱えていた。
[湯沢 威・所 伸之]
ティッセン(Fritz Thyssen)
てぃっせん
Fritz Thyssen
(1873―1951)
ドイツの大資本家。ルールの巨大製鉄・炭鉱コンツェルンを築いたアウグスト・ティッセンAugust Thyssen(1842―1926)の子。ティッセン企業の役職を歴任、1926年の合同製鋼会社成立後は監査会会長となった。重工業界有力者のなかでは、政治的に反ワイマール共和国の立場にたつもっとも右寄りの人間として知られ、早くからナチス党、ヒトラーと接触、支援していた。30年以後の共和国末期には重工業界内部でナチスの政府参加支持を求める活動を行った。ナチスの権力掌握後、国会議員などの名誉職を与えられたが、39年9月ヒトラーの戦争政策を批判してスイスに逃れ、40年フランスで逮捕され、第二次大戦終結まで強制収容所に拘禁された。戦後は戦争犯罪人に問われ、アルゼンチンに移住した。
[木村靖二]