改訂新版 世界大百科事典 「クルップ会社」の意味・わかりやすい解説
クルップ[会社]
Fried.Krupp GmbH
クルップは第2次大戦前のドイツ兵器工業の象徴的存在として,また戦後の西ドイツ重工業の復興を支えた基幹企業として有名であるが,一般にクルップという場合には,フリート・クルップGmbH(有限会社)を指す。本社エッセン。同社は持株会社で,その資本はクルップ財団が約70%,イラン政府が約25%支配している(イランは1974年ころから原油価格高騰による潤沢な資金で西ドイツ企業に接触し,クルップは当初警戒的であったが,76年の財政危機に至ってイランの資本参加を受けいれた)。この持株会社の下に事業会社としてクルップ・シュタールKrupp Stahl AG(鉄鋼),AGウェーザーAG Weser(造船),クルップ・ポリシウスKrupp Polysius AG(プラント)等約10の主要会社があり,クルップ・コンツェルンを形成している。コンツェルン全体の売上高は205億マルク,従業員数は約8万6000人である(1993年12月期)。世界十数ヵ国に販売子会社をもっている。主要事業はクルップ・シュタールを中心とする鉄鋼業で売上高の約40%を占める。1998年,鉄鋼メーカーのティッセンと合併し,ティッセンクルップとなった。
クルップは1811年,フリードリヒ・クルップFriedrich Krupp(1787-1826)がライン川下流のエッセンに設立した小規模な鋳鋼工場から始まった。当時はナポレオンの大陸封鎖の最中でイギリスからヨーロッパ大陸への鋳鋼の輸入が途絶し,ナポレオンは鋳鋼生産を奨励していたのである。事業はその後息子のA.クルップに引き継がれて発展することになる。1843年ころから大砲の製造を始め,また,50年ころから鉄道網の急速な拡大を見込んで鉄道機械の製造を始めた。70年の普仏戦争で威力を発揮したクルップの大砲は世界的に有名となり,クルップの事業も成長した。さらにプロイセン帝国のカイザー皇太子(のちのウィルヘルム2世)やビスマルク宰相の支持を得て兵器工業を拡大し,造船所の買収・拡張による軍艦の製造に乗り出し,また99年から銑鋼一貫生産の体制を整えた。第1次大戦前の軍備競争と戦争中の兵器生産でクルップの事業は膨張し,多くの鉱山,炭鉱等の原料面も確保し,一大コンツェルンになった(1918年には従業員17万人を数えた)。ドイツの敗戦後,クルップは兵器工場を破壊させられ,残った製鋼所を中心に鉄鋼と鉄道機械を生産していた。やがて1933年ナチスの政権獲得とともにナチス・ドイツの兵器生産会社として急速に復活した。ヒトラーはクルップ家に対し,ドイツ戦力の高揚への寄与という理由で,一般の相続法の規定を適用しない超市民の待遇を与えた。
第2次大戦の敗戦で,クルップは大戦中の空襲や戦後の連合軍の企業解体を受け生産設備の70%を破壊された。しかし鉄鋼,造船プラントを中心に着々と事業を拡大し,60年ころには世界のベスト10に入る超大企業として戦前を上回る繁栄をみせた。ところが60年以降,事業は下降線をたどり,かつてはトップを占めていた西ドイツ産業界における地位も80年には16位あたりまで下がり,またこの間の1967年,76年と2度にわたって倒産間際まで追い込まれた。その長期的停滞の主因は,(1)傘下事業の中心である鉄鋼,造船が,設備過剰,日本やスペイン,韓国の追上げ等で不振なこと,(2)長期資金不足と借入金負担,(3)多角化の不徹底,(4)海外市場開拓の遅れ等である。そこで苦境を打開すべく,鉄鋼部門の整理・統合による合理化,機械・プラントの拡充強化等を進めている。なお,兵器については第2次大戦後,完全に手を引いていたが,1970年代半ばころから子会社のマク社が戦車メーカーのクラウス・マッファイ社と合弁会社を設立して戦車の生産に参加し,子会社のアトラス・エレクトロニク社などは売上げの約半分が軍需であるなど,クルップ・コンツェルンとしては徐々に軍事関連分野に参入している。
執筆者:下田 雅昭
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