日本大百科全書(ニッポニカ) 「鉄鋼業」の意味・わかりやすい解説
鉄鋼業
てっこうぎょう
狭義には鉄鋼そのものの生産分野を、広義にはその加工分野をも含むが、通常前者をさし、おもな工業国の基幹産業となっている。近代鉄鋼業は、技術的にいえば「間接製鉄法」の技術体系といわれ、その生産工程は(1)製銑(せいせん)工程、(2)製鋼工程、(3)圧延工程の三つからなっている。
鉄鋼業を構成している企業の形態はこの3生産工程との関係から、(1)高炉メーカー(前述の3工程をもち、高炉銑→転炉・電気炉鋼→圧延鋼材の順序で鉄鋼の大規模一貫生産を行っている。銑鋼一貫企業ともいう)、(2)電炉メーカー(3工程のうち、製鋼、圧延工程をもち、銑鉄・屑(くず)鉄を原料として鋼材を生産)、(3)単圧メーカー(圧延工程のみをもち、鋼・半成品を購入して鋼材を生産)、(4)単独高炉メーカー(製銑工程のみをもち、高炉で銑鉄を生産)、(5)伸鉄メーカー(おもに製鉄所から出る屑鉄を購入しその再圧延を行う)の五つに分かれる。高炉メーカーと電炉メーカーのうち、いくつかのメーカーは普通鋼と特殊鋼の両者を生産しているが、特殊鋼のみを生産している企業を特殊鋼専業メーカーとよぶ場合がある。
歴史的には、主要工業国の鉄鋼業では前記の企業のうち、少数の大規模高炉メーカーが鉄鋼生産の主要部分を占め、残りを電炉メーカーなどの諸企業が生産していることが多かった。いいかえるならば、鉄鋼業は大規模高炉メーカーの生産集中度の高い典型的な寡占産業であった。ただし20世紀末に最大の製鉄国となった中国では、大規模・中規模の高炉メーカーが多数存在しているなど、国ごとの独自性も観察される。
地球温暖化防止が世界的課題となった21世紀には、鉄鋼業は、製造業における最大の二酸化炭素(CO2)排出源として注目されざるをえなくなった。製鉄プロセス内の主要な排出源は、鉄鉱石の還元に石炭・コークスを用いる高炉である。高炉・転炉法よりは電炉法のほうがCO2排出量が少ないため、当面、電炉法の適用を拡大する動きがある。また、高炉での還元剤の一部を水素に切り替える技術の開発も進められている。決定的にCO2排出を減らすためには、まず水素によって鉄鉱石を直接還元し、ついで還元鉄を、再生可能エネルギーによって発電された電気を用いる電炉で精錬する方法が、もっとも有望とされている。このため世界では、水素還元法の研究を進めながら、先行して直接還元炉を建設する動きが広がっている。これらの技術転換により、鉄鋼メーカーと鉄鋼業のあり方が変化する時期が訪れつつある。
[松崎 義・川端 望 2023年1月19日]
世界の鉄鋼業
前史
鉄の生産そのものは人類史とともに古い歴史をもつが、近代産業としての鉄鋼業は18世紀末のイギリスにおける産業革命期に成立した。この時期には、コークス高炉技術(1735年操業)、パドル法(1784年特許取得)、圧延法(1783年特許取得)の諸技術が完成し、銑鉄―錬鉄―圧延の一貫生産技術体系が整った。しかしながら、この段階では、パドル法(現在の製鋼段階にあたる)にみられるように生産できるのは錬鉄(可鍛鋳鉄)であり、鋼の大量生産技術は未確立であった。また、錬鉄生産工程、圧延工程とも手工業的性格を色濃く残していた。この時期の鉄鋼生産の中心国はイギリスであった。
この生産技術段階を革新し現代鉄鋼技術と産業組織に道を開いたのは、19世紀中葉以降の一連の製鋼技術――ベッセマーの転炉製鋼法(1855年特許取得、以下同)、トーマスの塩基性転炉製鋼法(1878)、シーメンズとマルタンの平炉製鋼法(1864)――の発展であった。これらの新技術は炉内温度を高め、銑鉄・屑鉄を溶融状態で直接に鋼に精錬することを可能とし、パドル炉の技術的限界(炉内温度が低く飴(あめ)状で精錬せざるをえず、また生産物も鋼でなく錬鉄)を突破した。いわゆる「近代溶鋼法の成立」である。この時期に開発された転炉・平炉技術はその後大幅な改良を加えられつつも現代鉄鋼業の基本的技術となっている。新製鋼法は、また、鉄鋼業の産業組織に大きな影響を与えた。転炉法・平炉法によって鋼の生産が可能となるや、これらの製鋼炉の炉容がしだいに拡大され大量生産が可能となり、同時に、高炉―平・転炉―圧延機という3工程の生産の連続性が高まった。このことは、鉄鋼業が安価な金属材料の大量供給を行い、産業の重工業化を進める条件をつくるとともに、巨額の固定資本を要することともなった。投下資本の巨大化を条件に鉄鋼業では資本の集積・集中が進み、大企業の覇権が確立した。鉄鋼業が独占的巨大企業出現の舞台となり、独占資本主義の産業的土台となったのである。19世紀中葉から第二次世界大戦に至る時期の鉄鋼生産量の推移をみると、1880年ごろまではイギリスが圧倒的地位を占めているが(錬鉄時代)、1890年以降ドイツ、アメリカの進出が著しい(鋼の時代)。このドイツ、アメリカ両鉄鋼業の発展のなかで、USスチール(1901年成立)に代表される巨大独占企業が形成された。
[松崎 義]
第二次世界大戦終了から1970年代まで
第二次世界大戦後の世界の鉄鋼業の動向は、ほぼ1970年ごろを境に大きく変化した。第一に、第二次世界大戦によってアメリカを除く各国鉄鋼業は大打撃を受けたが、ほぼ1950~1955年の間に復興し、その後、世界経済の拡張と歩調をあわせ急速に発展した。第二に、このなかで、資本主義国では日本、西ドイツを中心としたEC(現、EU)の、社会主義国ではソ連の発展が著しく、アメリカ、イギリスの停滞と対照的であった。とくに、日本、ソ連の生産量の急増は戦後鉄鋼業の状況を一変せしめた。この結果、第三に、1970年ごろの世界の鉄鋼生産基地はアメリカ、ソ連、EC、日本の四極であり、その生産規模はそれぞれ約1億トン強であった(1970年の世界の生産量は約6億トン)。第四に、生産における状況変化は貿易にも反映し、日本、西ドイツを含むEC諸国が世界の鉄鋼輸出基地となった。1970年の世界各国の鉄鋼輸出量(28か国)は約8800万トンであったが、このうち、日本は約1700万トン(20%)、西ドイツは約1200万トン(約14%)、ベネルックス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)は約1600万トン(約18%)、アメリカは約640万トン(約7%)、ソ連は約750万トン(約8.5%)であった。注目すべきは、アメリカの輸入量が漸増し、1970年には輸出量の3倍に達して純輸入国に転じたことである。
1970年ごろまでほぼ順調に拡大してきた世界経済、とくに資本主義国の経済は、1971年8月のニクソン声明(金とドルとの交換停止をはじめとする一連のドル防衛政策)、1973年秋のオイル・ショックによる原油価格の急騰とを契機として長期の停滞に入った。
この時期の鉄鋼業の動向は次の2点に要約できる。第一に、主要国の鉄鋼生産は程度の差はあれまったくの停滞局面に入った。日本、アメリカのピークは1973年(それぞれ1.2億トン、1.4億トン)、西ドイツ、EC6か国のピークは1974年(それぞれ5300万トン、1.3億トン)、ソ連はすこし遅く1978年(1.5億トン)であったが、いずれも横ばいないしは絶対的減少を示した。第二に、先進資本主義国の停滞とは対照的に、韓国、台湾、スペイン、ブラジルなどの、NIES(ニーズ=新興工業経済地域)の発展が著しい。これら諸国の鉄鋼業の生産規模自体はこの時期ではまだ小さいが、その発展が工業化政策と先進諸国からの技術移転とに支えられているだけに技術水準はかなり高く、先進国の競争相手になってきた。
1970年代の鉄鋼貿易の特徴は次の2点に要約できる。第一に、日本鉄鋼業の国際競争力は前期以上に強まり、生産量が1973年をピークに停滞局面に入ったにもかかわらず輸出量は伸び続け、1976年には約3600万トン、世界市場での輸出シェアは30.1%にも達した。第二に、アメリカ鉄鋼業の衰退が明白になり、輸入比率(国内見かけ消費量に対する輸入品の比率)は1965年に10%を超えて以来増加傾向をたどり、1978年には18.1%となった。ほぼこの時期から、日本とアメリカ、西ヨーロッパ諸国との間で貿易摩擦が重大化し始め、各国、とくに日本の主要市場であるアメリカで輸入制限を求める声が強くなり、トリガー価格制度が導入(1977)されるとともに、日本も自主的に輸出規制を行うに至った。鉄鋼貿易の管理貿易化が強まったのである。この時期のもう一つの特徴は、新興鉄鋼生産国が世界市場に進出し始め、日本、EC諸国と競合し始めたことである。この競争関係は、一部の高級品種(パイプ、高級薄板、造船用規格材など)を除くとほぼ全品種に及び、とくに中・低級品では、低い労働条件を武器に十分な価格競争力をもつに至った。
このように、1970年以降の先進工業国の鉄鋼業では生産・貿易両面で停滞と対立が際だったが、他方で新興工業国との競争が激化した。この後者の競争は、一方でいわゆるブーメラン効果を考慮した技術輸出抑制の動向を生みつつ、他方では国際的な産業構造の調整問題をも浮かび上がらせた。
[松崎 義]
1980~1990年代
この時期の世界の鉄鋼業の特徴は、日欧米・ソ連の停滞と新興工業国の比重の増大である。世界の鉄鋼生産量は7~7.5億トン(粗鋼)に達したが、日本は1974年をピークとしてその後1億トン前後、EUは1.5億トン前後、アメリカは7500万~9500万トンで停滞傾向が明瞭となった。アメリカでは1980年代に製造業の衰退が進み、他方ではミニミル(電炉メーカー)の進出により電炉鋼の比率が高まり(1997、43.8%)、高炉メーカーの再編成が進んだ。また、EUでも設備能力の過剰と企業合併が問題となった。これら先発工業国の経済成長率の低下と産業構造の転換(電子技術関連分野とサービス経済化の進展)がおもな理由である。一方、ソ連(1992以降はCIS=独立国家共同体)は、ベルリンの壁崩壊後のソ連圏の崩壊と市場経済への移行に伴って経済体制そのものが混乱し、生産量は1.6億トン(1989)から約8000万トン(1997)へと半減した。他方、1960年代にNIESに始まった開発途上国の工業化は、1970年代にはASEAN(アセアン=東南アジア諸国連合)諸国に、1980年代には中国にまで波及し、これら諸国の鉄鋼生産量は飛躍的に伸びた。たとえば、韓国では約860万トン(1980)から約4200万トン(1997)に、中国では約3700万トン(1980)から約1億トン(1997)に増加した。中国は日本を抜いて世界でトップの鉄鋼生産国になった。このように1980~1990年代を通じて後発工業国の比重が高まり、世界市場でもその競争力は強まってきた。ただ、1997年夏のアジア通貨危機を契機にして、その経済成長は転機を迎えていったというのが20世紀末の20年間の概況である。
[松崎 義]
2000年以降
2000年以降の鉄鋼業の特徴は、世界最大の製鉄国、中国がさらに急速に成長したことと、地球温暖化問題の深刻化である。世界の粗鋼生産量は、2000年に初めて8億トンを突破した。以後、2004年に10億トンを突破、2011年に15億トンを突破し、2021年には19億5800万トンに達した。このうち中国の鉄鋼生産は2000年に1億2900万トンであったが、2021年には10億3300万トンに達した。世界粗鋼生産の半分以上を中国が占めるに至ったのである。同じ時期に、インドの粗鋼生産も2700万トンから1億1800万トンに増加し、世界第2位の製鉄国となった。以下、日本、アメリカ、ロシア、韓国、トルコ、ドイツ、ブラジル、イランが上位の製鉄国である(2021)。
2000年以降、設備投資と合併・買収による鉄鋼メーカーの再編が進行した。2021年において粗鋼生産規模が世界最大のメーカーは中国宝武(ほうぶ)鋼鉄集団であり、1億1995万トンを生産した。また、3000万トンを超える企業は10社あり、うち中国企業が6社、ルクセンブルク、日本、韓国、インド企業が各1社であった。ただし、世界粗鋼生産に占めるシェアは上位10社で27.4%、上位20社でも39.1%にとどまっている。鉄鋼業では比較的激しい国際競争が行われており、これがアンチ・ダンピング訴訟など通商摩擦の多発にもつながっている。
地球温暖化問題の深刻化を受けて、先進諸国各国は2050年、中国は2060年にカーボンニュートラルを達成することを目標として掲げている。これらの諸国では電炉法の適用拡大、直接還元炉の建設、水素製鉄法の研究開発が進められつつある。
[川端 望 2023年1月19日]
日本の鉄鋼業
前史
日本における鉄の生産自体は「たたら」製鉄法による「和鉄」とともに長い歴史をもつ。しかし、近代鉄鋼業は、官営八幡(やはた)製鉄所の操業(1901)をもって始まった。八幡製鉄所は、建設資金の一部を日清(にっしん)戦争の賠償金に、技術をドイツに、鉄鉱石を中国にそれぞれ求めつつ、国営製鉄所として出発した。後発資本主義国としての日本では、民間資本による鉄鋼業の自生的発展は不可能であったからである。この八幡製鉄所の設立後、軍需を含む鉄鋼需要の増大に刺激され、日露戦争・第一次世界大戦期に民間鉄鋼企業が続々と設立された。現在の日本の主要鉄鋼企業の大部分はこの時期に設立されている。こうして、1934年(昭和9)には、鋼材の輸・移出量が輸入量を上回り、鉄鋼の自給が達成された。しかしながら、発展速度が著しかったとはいえ、戦前日本の鉄鋼業はその後発性をついに脱却しえなかったといってよい。一つは、民間企業の設立・発展にもかかわらず、そのなかで銑鋼一貫企業になりえたのはようやく日本鋼管(NKK)1社のみで、他はすべて中小規模の平炉・単圧メーカーにとどまったことである。したがって第二次世界大戦以前においては、銑鋼一貫メーカーである八幡製鉄所をトップに多数の中小メーカーが存在するという二重構造を脱却できず、その技術水準は高いものではなかった。1934年、官営八幡製鉄所と民間6社が合併して大トラスト、日本製鉄株式会社が成立したが、この合併自体が、第一次世界大戦後の長期の不況下で疲弊した民間企業の救済策であり、日本製鉄株式会社自体も事実上は半官半民の企業であった。二つには、発展スピードが速かったとはいえ、その生産規模は先進資本主義国に比べ著しく小さかったことである。第二次世界大戦前の最高生産量は、銑鉄で426万トン(1942)、粗鋼で765万トン(1943)であったが、同時期のアメリカは8059万トン(粗鋼、1943)、ドイツは2076万トン(同)、イギリスは1324万トン(同)であった。
[松崎 義]
第二次世界大戦終了から1970年代まで
大戦後、戦前・戦中の立ち後れの回復、国際競争力確立を目的に巨額の設備投資が実施された。欧米諸国からの技術輸入に依存しつつ、第一次合理化投資(1951~1955)、第二次合理化投資(1956~1960)が進められ、欧米諸国との格差を解消し、さらに1961年(昭和36)以降の投資(最新の生産・管理技術による粗鋼年産1000万トン前後の大型臨海立地型製鉄所の建設)によって国際競争力を確立し、最大の鉄鋼輸出国となった。
この過程における投資と技術革新、産業組織、原料需給、貿易の動向は次のとおりである。第一に、設備投資が生産技術、経営管理技術の革新を伴って進められたため、鉄鋼業の労働生産性は飛躍的に上昇した。銑鉄生産工程における高炉の大型化、操業技術の進歩によって諸原単位(銑鉄1トンを生産するに要する原料、エネルギー)が低下し、銑鉄コストが低下した。製鋼工程では1957年ごろから、オーストリアから輸入されたLD転炉(純酸素上吹き転炉)が普及し、従来の平炉にとってかわった。これによって製鋼時間が約3.5時間(平炉の場合)から約30分(LD転炉の場合)に短縮され、同時にエネルギーコストが急減した。また、連続鋳造技術の導入によって、生産工程の短縮、歩留りの改善、エネルギーコストの低下が画期的に進んだ。圧延工程では、ストリップミル(連続広幅帯鋼圧延機)に代表される大量生産型の圧延技術が導入され、生産時間の短縮、品質の改善に画期的意味をもった。生産技術の革新とともに生産・経営管理技術も変革された。1960年前後におけるアメリカ流のライン・スタッフ制の導入、その後のコンピュータを利用した企業全体の一貫管理の進展は、生産技術の革新に劣らぬほどの意味をもった。つまり、これらの生産技術、経営管理技術の革新と規模の経済性(生産規模が大きいほど費用が節約され収益が増えること)の追求とが戦後鉄鋼業の生産性水準を変革し、国際競争力を築いた最大の要因となった。
第二に、この投資過程は鉄鋼業の産業組織に大きな変化をもたらした。その一つは、戦後の財閥解体と需要の拡大過程を背景として戦前の平炉メーカー3社が高炉分野に参入し、1950、1960年代に高炉大手6社(八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、住友金属工業、川崎製鉄、神戸製鋼所)が激しい設備投資・価格競争を展開し(競争的寡占)、中小メーカーを圧倒した。その結果、大手6社が生産量の70%近くを占めるようになり、また主要な中小メーカーは大手高炉メーカーの系列下に入った。鉄鋼業は典型的な寡占産業となったが、その後、八幡・富士両社の合併による新日本製鉄(新日鉄)の成立(1970)を契機として協調的寡占産業の色彩が強まった。
第三に、生産量が年間1億トンを超えるに至った日本鉄鋼業の原料輸入量は急増し、同時に輸入先も大きく変化した。鉄鉱石についてみると、輸入量は1960年では1486万トンであったが1970年には1億トンを超えるに至った。輸入先も1960年ごろまでは東南アジア、インドが中心であったが、その後南米諸国、オーストラリアの比重が急速に高まり、1984年ではオーストラリア、ブラジルの2国で全輸入量の約70%を占めるに至った。コークス用原料炭の場合も同様で、輸入量は1960年の617万トンから1970年には4673万トンに達し、その後は6000万トン前後。輸入先も1960年にはアメリカがおもな供給国であったが、その後オーストラリア、カナダが急増している。原料輸入面からみても日本鉄鋼業は世界市場と不可分の関係にある。
第四に、鉄鋼の販売市場が変化した。国内では建設、造船、自動車、電気機械などの諸産業が主要な市場であり、1950年代、1960年代では国内市場がおもな市場であった。しかし、1960年代後半から輸出の比重が高まり始め、1970年の直接輸出は約25%、1980年には約36%(いずれも粗鋼換算)に達し、世界最大の輸出国となった。輸出相手国は、1970年では東・東南アジア、北米、その他地域がそれぞれ3分の1を占めていた。1970年以降、日本鉄鋼業は低コストを武器に世界市場を席巻(せっけん)し、輸出量は、1976年には国内不況も手伝い史上最高の3704万トンに達し、対米輸出も1970年以前に輸出自主規制が始まっていたにもかかわらず、1977年に同じく760万トンに及んだ。他方、アメリカの鉄鋼輸入量は1977年に1941万トン(国内見かけ消費量の17.8%)、1978年に2133万トン(同18.1%)に及び、アメリカ鉄鋼企業の工場閉鎖、労働者の解雇が続出した。同時にアメリカの対日貿易赤字も増大し始めたことから、アメリカに保護貿易の気運が高まり日米政府間の政治問題にまで発展した。その結果「トリガー価格」制度が導入され、対米輸出の自主規制が始まった。以後、日本の対米輸出も全輸出量も横ばいに転じた。
以上述べたように、第二次世界大戦後の日本鉄鋼業は未曽有(みぞう)の発展を遂げたが、その結果、1970年代後半から、一方では先進国との貿易問題に直面して輸出を制限せざるをえず、他方では新興工業国との競争に直面するに至った。産業としての成熟段階に入ったといってよい。
[松崎 義]
1980~1990年代
この時期の日本鉄鋼業は、1970年代に引き続いて世界最大規模の生産量と高い技術水準とを維持してきたが、他方では成熟期に入った産業として多くの課題に直面した時期でもある。まず、二つのオイル・ショック後の産業構造の変化、鉄鋼需要産業による海外直接投資の増大などの要因を背景に、国内需要が停滞し、経営多角化と大規模な合理化(リストラクチャリング)に取り組まざるをえない状況が生じた。これに拍車をかけたのが、1985年のプラザ合意以後の円高による鉄鋼輸出への影響であった。
[松崎 義]
経営多角化政策とその見直し
まず、本体の鉄鋼分野の停滞を背景に、大手高炉メーカーはそろって、エンジニアリング事業の強化、半導体生産への投資、コンピュータ利用技術の独立事業化、海外での製鉄所建設と操業技術の輸出などの経営多角化政策に取り組んだ。しかし、コンピュータの利用技術や技術輸出など、戦後の多数の製鉄所の建設と操業による技術蓄積が豊かな分野を除いて新規事業は成功せず、1990年代なかばには、半導体生産からの撤退にみられるように経営多角化戦略が大幅に見直された。これと前後して進められたのが合理化政策であるが、これは、まず効率の高い製鉄所への生産の集中と、それに伴う鉄鋼設備の統廃合の形で進められた。とくに製鉄所の数が多い新日本製鉄では、古い製鉄所における高炉の操業停止が相次いだ。釜石製鉄所(岩手県釜石市)の高炉操業の停止はその象徴であった。さらに、いわゆるバブル景気(1986~1989)の一時期を除いて鉄鋼業の苦境は続き、1990年代前半にはコスト削減のために本社など管理部門の合理化にまで及び、ホワイトカラーが大量に出向あるいは転籍・退職を余儀なくされ、大手鉄鋼企業の従業員数は大幅に減少した。これまでの人員合理化が現業部門中心に進められてきたことを考えると、鉄鋼業の置かれている状況が推察される。この苦境は高炉メーカーのみにとどまらず、電炉メーカーにも及んだ。
[松崎 義]
バブル経済の崩壊と過剰設備問題
バブル景気の崩壊後、日本経済は長期の不況のみならず、不良債権の処理など構造的な問題の解決に時間を要したが、これをいっそう深刻にしたのがタイの通貨危機(1997)のアジア諸国への波及とその経済成長の頓挫(とんざ)である。1980~1990年代を通じて日本とアジア諸国との経済関係はいっそう深まったが、それだけに貿易・投資の両面で大きな影響を受けている。アジア諸国の経済危機は国内需要の減少と相まって、高炉・電炉メーカーを問わず鉄鋼業の過剰設備問題を表面化させたのが1990年代末の状況であった。
[松崎 義]
2000年以降
この時期の鉄鋼業は、業界再編成、国内から海外への生産シフト、地球温暖化問題への対応によって特徴づけられる。
(1)業界再編成 1990年代の経営困難は、すでに新日鉄成立以来の高炉メーカー6社による協調的寡占体制を困難に陥れていた。日本鋼管(NKK)と川崎製鉄は経営統合を敢行し、2002年(平成14)に持株会社JFEホールディングスを、2003年に傘下の鉄鋼メーカーJFEスチールを設立した。2012年に新日本製鉄は住友金属工業と経営統合を行い、新日鉄住金を発足させた。さらに新日鉄住金は日新製鋼を2017~2019年にかけて子会社化し、2020年(令和2)に合併した。この間、2019年に商号を日本製鉄に変更した。これらの再編成により、日本の高炉メーカーは、粗鋼生産高の大きい順に日本製鉄、JFEスチール、神戸製鋼所の3社となった。同時期に電炉メーカーの経営格差がしだいに広がり、廃業や業務提携、買収が相次いだ。
(2)グローバル経営 この時期には、日本の鉄鋼メーカーが生産能力を国内から海外へシフトさせる動きが本格化した。
国内鉄鋼需要は、2008年のリーマン・ショックを境に8000万トン前後から7000万トン前後に縮小した。一方、海外市場は中国を先頭として新興国で拡大した。日本メーカーは、まず国内向け出荷量の減少を輸出の増加で補い、1億トン以上の粗鋼生産高を2018年まで維持した。しかし採算は悪化し、2020年に日本製鉄とJFEスチールは高炉休止を含む大規模な設備集約を発表した。
一方、海外生産は、当初は圧延・加工工程に投資する形で進められた。海外の拠点で圧延・加工を行うためには、スラブ、熱延コイルなどの中間製品を日本から輸出する、または海外の提携先高炉メーカーから調達する必要があった。しかし、前者では生産量を十分に拡大できず、後者では粗鋼生産に関する主導権を握れないという弱点があった。そこで、次の選択肢として浮上したのが、海外の大規模メーカーを傘下に入れる合併・買収であった。2019年に日本製鉄とアルセロール・ミッタル社が共同で行ったインド企業エッサールの買収は、高炉メーカーのグローバル化が新たなステージに入ったことを告げるものであった。
一部の電炉メーカーも、海外市場に活路を求めて直接投資や買収を行った。共英製鋼のように、売上高の海外比率が50%を超える電炉メーカーも現れた(2021年度)。
(3)地球温暖化問題への対応 2015年に締結されたパリ協定の枠組みのもとで、日本の鉄鋼業界は二酸化炭素(CO2)排出削減の取り組みを求められている。日本鉄鋼連盟は2050年にカーボンニュートラルを実現する方針を策定し、高炉でのCO2排出低減、CO2回収・利用・貯留(CCUS)技術の開発、水素還元製鉄の開発などの取り組みを推進している。
[川端 望 2023年1月19日]
『松崎義著『日本鉄鋼産業分析』(1982・日本評論社)』▽『川端望著『東アジア鉄鋼業の構造とダイナミズム』(2005・ミネルヴァ書房)』▽『佐藤創編著『アジア諸国の鉄鋼業――発展と変容』(2008・アジア経済研究所)』▽『川端望著「日本鉄鋼業の現状と課題」(『粉体技術』12巻10号・2020・日本粉体工業技術協会)』▽『一柳朋紀著『最新 鉄鋼業界大研究(第2版)』(2021・産学社)』▽『中沢護人著『鋼の時代』(岩波新書)』▽『鉄鋼統計委員会編『鉄鋼統計要覧』各年版(日本鉄鋼連盟)』