日本大百科全書(ニッポニカ) 「マンネスマン」の意味・わかりやすい解説
マンネスマン
まんねすまん
Mannesmann AG
ドイツの大手鉄鋼メーカー。ドイツの工業化に大きな役割を果たした。1970年代以降は事業の多角化を推進し、電機、コンピュータ、さらには通信事業にも力を入れていたが、2000年2月、イギリスの大手携帯電話会社ボーダフォン・エアタッチ社Vodafone AirTouch Plc(現ボーダフォングループ社)による通信事業部門の吸収・合併に合意した。
マンネスマンは、マックスMax Mannesmann、ラインハルトReinhard Mannesmannの兄弟が、継目なし鋼管製造法を発明し、1890年、この技術をもとに、ベルリンにマンネスマン鋼管を設立した。当時鉄鋼業はドイツの基幹産業として発展を遂げており、マンネスマンも鋼管から一般圧延鋼材までを手がける鉄鋼メーカーとしてひたすら拡大路線をとった。1926年、四大鉄鋼グループが合同してできた合同製鋼会社にも加わらず、独自の地歩を固めた。そして、第二次世界大戦の敗戦と連合軍によるドイツ鉄鋼業の解体・再編を経て、1952年、新生マンネスマンとして再出発した。鉄鋼メーカーとして発展を遂げてきたマンネスマンに一大転機をもたらしたのが、1960年代の末に顕著になったドイツにおける鉄鋼業の斜陽化である。当時のドイツは、産業構造の転換期にあり、鉄鋼部門のみに依存した経営では生き残ることがむずかしいと判断したマンネスマンは、それまでの鉄鋼一辺倒の経営方針を改め、多角化経営へと乗り出した。1973年に行った機械メーカーであるデューク社への資本参加はその表れであった。その結果、マンネスマンの経営は鉄鋼、機械、商事の3部門が柱となり、売上高がそれぞれ3分の1ずつというバランスのとれた企業体質に転換した。1980年代初め、他の鉄鋼メーカーが赤字経営に苦しむなかで、マンネスマンは黒字経営を維持した。このマンネスマンの成功は、業界1位のティッセンにも大きな影響を与えたといわれる。マンネスマンは、ハイテク、情報処理関係部門を主力とし、とりわけコンピュータや電機部門への進出に力を入れていた。1990年、連邦政府からドイツで最初の私設移動通信ネットワーク「D2」の設置・運用ライセンスを受けた。以来、同社はネットワーク事業にも力を入れるようになり、移動通信だけでなく固定通信分野にも乗り出した。1996年、この分野での他社との競争力を高めるために、ドイツ鉄道会社Deutsche Bahn AGと合弁会社マンネスマン・アルコルMannesmann Arcor AG & Co.を設立した。また、海外展開も積極的に推進し、売上げの半分以上を海外が占めた。
2000年2月、マンネスマンはイギリスの大手携帯電話会社ボーダフォン・エアタッチによる通信事業部門の吸収・合併に合意した。これはドイツを代表する大企業に対する、外国企業からの敵対的買収攻勢の結果であった。これに対し、マンネスマンのみならずドイツ政府や労働組合も強い反発を示したが、グローバリゼーション(国際的連携化)の流れのなかで買収は貫徹された。また、同年3月、機械・自動車部品部門を分離して新会社の設立計画を発表したが、翌4月にはこの部門を総合電気機器メーカーのジーメンス社と自動車部品メーカーのロバート・ボッシュ社Robert Bosch GmbHに売却することを決定した。1998年度の売上高は約373億マルク、従業員数は11万6247人。本社は、ノルトライン・ウェストファーレン州のデュッセルドルフ。
[所 伸之]