フジモリ(読み)ふじもり(その他表記)Alberto Fujimori

デジタル大辞泉 「フジモリ」の意味・読み・例文・類語

フジモリ(Alberto Fujimori)

[1938~2024]ペルー政治家。日系2世。大学教授などを経て1990年大統領就任。2度再選されるが2000年に側近スキャンダルがもとで辞任し、二重国籍を持つ日本へ亡命した。2005年に大統領選再出馬を表明するが認められず、2007年には日本の国民新党から参院比例代表選に出馬して落選。同年、大統領時代の人権弾圧などでペルー政府に逮捕された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フジモリ」の意味・わかりやすい解説

フジモリ
ふじもり
Alberto Fujimori
(1938―2024)

ペルーの政治家。リマ生まれ。両親は熊本県出身の移民で、フジモリは日系2世。国立農科大学を卒業し、フランスのストラスブール大学、アメリカのウィスコンシン大学大学院に留学。1984年から1989年まで母校の大学長を務める。1989年10月に政治組織「カンビオ(変革)-90」を結成して大統領選に名のりをあげ、1990年6月、決選投票で作家のマリオ・バルガス・リョサを破って世界初の日系人大統領となった。就任直後、経済危機に対してショック療法的に超緊縮政策を実施して成果をあげた。1992年4月、経済危機や極左組織「センデロ・ルミノソ」によるテロ対策を目的に、議会を解散し、憲法を停止して「国家再建非常政府」を樹立。また、国軍最高司令官として軍に全権掌握を命じた。この強権発動はアメリカなどから反発されたが、1992年11月の制憲議会選挙では国民の支持を得て勝利した。1995年4月再選。1996年12月リマの日本大使公邸をトゥパク・アマル革命運動が武装占拠した際には、武力突入を実行し人質を解放した(「ペルー事件」)。2000年5月の選挙で3選を果たしたが、側近モンテシノスVladimiro Montesinos(1945― )前国家情報局顧問をめぐるスキャンダルを発端として政権に批判が高まり、11月ブルネイで開催されたAPEC(エーペック)の帰途に立ち寄った日本で退陣を表明、辞表を提出した。しかし、ペルー国会は受理を拒否、事実上の罷免決議にあたる「大統領職務の停止宣言」を採択した。以後、日本で約5年間、事実上の亡命生活を送った。2005年10月に次期大統領選への立候補を表明、翌11月に日本を出国しチリに入ったが、同国警察に身柄を拘束された。2006年1月、大統領選への立候補届を提出したが、ペルー中央選挙管理委員会は立候補届を却下。フジモリ側は異議申立てを行ったが、それも却下された。2007年9月チリ最高裁判所は身柄引渡しを決定し、フジモリはペルーへ移送される。2010年1月、ペルーの最高裁特別刑事法廷は人権侵害などの罪で禁錮25年とする一審を支持する判決を下し実刑が確定、服役した。

 2017年、健康上の理由から人道的恩赦を受けて釈放されたが、2018年に最高裁判所がこれを取り消したため、2019年に再収監された。2022年3月、憲法裁判所が最高裁判所の恩赦の取消しを無効とする判断を示したことにより、翌2023年12月に釈放された。

[編集部 2024年10月17日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フジモリ」の意味・わかりやすい解説

フジモリ
Fujimori, Alberto

[生]1938.7.28. リマ
[没]2024.9.11. リマ
アルベルト・フジモリ。ペルーの政治家。大統領(在任 1990~2000)。汚職疑惑で大統領の座を追われ,一時日本に亡命していた。
熊本県出身の日本人移民夫妻の長男に生まれる。ペルー国立農科大学卒業後,アメリカ合衆国のウィスコンシン大学,フランスのストラスブール大学の大学院に留学。帰国後の 1971年に母校の教授となり,1984~89年に学長を務める。1989年新政党「カンビオ90」Cambio 90(カンビオは「変革」の意)を結成して 1990年6月に大統領選挙に出馬,決選投票で最有力候補である作家マリオ・バルガス・リョサを破って当選。同 7月の就任後は,「フジ・ショック」と呼ばれる厳しい緊縮政策を導入してインフレーションを抑制するとともに,左翼ゲリラ組織センデロ・ルミノソとの対決姿勢を明確にした。少数与党のため議会対策が思うにまかせず,1992年4月に軍の支持を得て議会を解散し全権を掌握した(→ペルー国家再建政府)。国内外の非難を浴びたものの,同 11月の憲法制定議会選挙には勝利を収めた。1995年再選。1996年12月にはリマで極左テロ組織による日本大使公邸人質事件が発生し,翌 1997年4月に強行突入を指示して解決をはかった(→ペルー日本大使公邸人質事件)。2000年5月,対立候補のアレハンドロ・トレドが選挙の不正を訴えて決選投票を辞退するなか三選を果たしたが,側近のブラディミロ・モンテシノスが野党議員に賄賂を贈る様子が撮られた動画が公開され,これを機にフジモリ政権への批判がいっそう強まった。フジモリはペルーを出国後,2000年11月に滞在先の日本で辞意を表明した。2005年11月,日本を離れてチリに入国後,チリの警察当局に身柄を拘束。2007年7月,軟禁下にあったチリで日本の参議院議員通常選挙に立候補したが落選。同 9月にはペルーに身柄を引き渡された。2009年4月,大統領在職中における人権侵害の罪で禁錮 25年の刑が言い渡され,収監される。2023年12月,健康上の理由により釈放。

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百科事典マイペディア 「フジモリ」の意味・わかりやすい解説

フジモリ

ペルーの日系二世の政治家。正しくはフヒモリ。リマ出身,国立農業専門学校卒業。国立農科大学学長から1990年〈カンビオ(変革)90〉の候補として大統領選に出馬し,先住民や都市貧民の支持を得て,作家バルガス・リョサ候補を決選で破り当選。経済再建を強力にすすめたが,議会と対立し1992年軍の支持下に,憲法を停止し議会を解散(1993年新憲法が成立)。同年反政府ゲリラ〈センデロ・ルミノソ〉の指導者を逮捕し,年末の選挙では与党が大勝し,1995年大統領に再選。1996年にゲリラ〈MRTA〉が日本大使公邸を占拠した事件を翌年4月軍の強行突入で収拾するなど,強権的手法を行使した。2000年5月大統領に三選されたが,のち滞日中に辞意を表明,11月ペルー議会により罷免された。その後,ペルーで公金横領などの容疑で訴追され,2003年にはさらに在任中の民間人虐殺事件指揮の容疑で身柄引渡し要求が日本政府に出されたが,フジモリは日本国籍保持を理由に日本滞在を続けていた。2005年11月日本を出国,チリに到着後警察に拘束された。2006年5月,チリ国内滞在を条件に保釈された。
→関連項目ペルー

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「フジモリ」の解説

フジモリ
Alberto Kenya Fujimori

1938~

ペルーの大統領(在任1990~2000)。リマ生まれの日系2世。国立農科大学学長から1990年大統領に当選。インフレに対する荒療治の緊縮政策をとり,市場経済改革,民営化を断行,またテロ対策に成果をあげ,高い支持率を得て95年再選された。経済停滞や,軍部による人権侵害が国民の非難を受け,2000年に三選されたが,側近の汚職事件が発覚して,大統領を解任された。

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