ペルーの政治家。リマ生まれ。両親は熊本県出身の移民で、フジモリは日系2世。国立農科大学を卒業し、フランスのストラスブール大学、アメリカのウィスコンシン大学大学院に留学。1984年から1989年まで母校の大学長を務める。1989年10月に政治組織「カンビオ(変革)-90」を結成して大統領選に名のりをあげ、1990年6月、決選投票で作家のマリオ・バルガス・リョサを破って世界初の日系人大統領となった。就任直後、経済危機に対してショック療法的に超緊縮政策を実施して成果をあげた。1992年4月、経済危機や極左組織「センデロ・ルミノソ」によるテロ対策を目的に、議会を解散し、憲法を停止して「国家再建非常政府」を樹立。また、国軍最高司令官として軍に全権掌握を命じた。この強権発動はアメリカなどから反発されたが、1992年11月の制憲議会選挙では国民の支持を得て勝利した。1995年4月再選。1996年12月リマの日本大使公邸をトゥパク・アマル革命運動が武装占拠した際には、武力突入を実行し人質を解放した(「ペルー事件」)。2000年5月の選挙で3選を果たしたが、側近モンテシノスVladimiro Montesinos(1945― )前国家情報局顧問をめぐるスキャンダルを発端として政権に批判が高まり、11月ブルネイで開催されたAPEC(エーペック)の帰途に立ち寄った日本で退陣を表明、辞表を提出した。しかし、ペルー国会は受理を拒否、事実上の罷免決議にあたる「大統領職務の停止宣言」を採択した。以後、日本で約5年間、事実上の亡命生活を送った。2005年10月に次期大統領選への立候補を表明、翌11月に日本を出国しチリに入ったが、同国警察に身柄を拘束された。2006年1月、大統領選への立候補届を提出したが、ペルー中央選挙管理委員会は立候補届を却下。フジモリ側は異議申立てを行ったが、それも却下された。2007年9月チリ最高裁判所は身柄引渡しを決定し、フジモリはペルーへ移送される。2010年1月、ペルーの最高裁特別刑事法廷は人権侵害などの罪で禁錮25年とする一審を支持する判決を下し実刑が確定、服役した。
2017年、健康上の理由から人道的恩赦を受けて釈放されたが、2018年に最高裁判所がこれを取り消したため、2019年に再収監された。2022年3月、憲法裁判所が最高裁判所の恩赦の取消しを無効とする判断を示したことにより、翌2023年12月に釈放された。
[編集部 2024年10月17日]
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1938~
ペルーの大統領(在任1990~2000)。リマ生まれの日系2世。国立農科大学学長から1990年大統領に当選。インフレに対する荒療治の緊縮政策をとり,市場経済改革,民営化を断行,またテロ対策に成果をあげ,高い支持率を得て95年再選された。経済停滞や,軍部による人権侵害が国民の非難を受け,2000年に三選されたが,側近の汚職事件が発覚して,大統領を解任された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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