改訂新版 世界大百科事典 「アプラ」の意味・わかりやすい解説
アプラ
APRA
アメリカ人民革命同盟Alianza Popular Revolucionaria Americanaの略。1924年12月,亡命中のペルー人,アヤ・デ・ラ・トーレによってメキシコ市で結成されたラテン・アメリカを包括する民族主義運動組織。帝国主義とその同盟下にある少数寡頭支配に反対する〈肉体労働者と知識人の統一戦線〉として設立され,(1)反ヤンキー帝国主義,(2)ラテン・アメリカの政治統一,(3)土地と産業の国有化,(4)パナマ運河の国際化,(5)全世界の被抑圧民族および階級との連帯,をその五大綱領programa máximoとした。メキシコ革命に影響をうけて発足し,1918年アルゼンチンのコルドバに端を発した大学改革を率いた学生・知識人が主たる担い手となった。30年以降,ペルー・アプラ党(PAP)として,闘争の場がペルー本国に移ってからは,大陸的規模の運動としての性格を弱めたとはいえ,ベネズエラの民主行動党をはじめ,ラテン・アメリカ諸国の民族主義的大衆運動に大きな影響を与えた。
1930年,レギア独裁政権がサンチェス・セロの決起により倒壊するや,ペルー・アプラ党はアヤの帰国に前後して,国の半封建的新植民地的支配体制を打倒すべく戦闘的な大衆運動を展開した。アヤは,31年の大統領選に向けて党小綱領programa mínimoを発表,基幹産業の国有化,農地改革,協同組合化,税制・教育改革,婦人参政権,インディオの国民統合,経済議会の設定など,その改革案は300項目に及んだ。同選挙では,未組織大衆を巧みに動員したサンチェス・セロに敗れるが,それ以降アプラは,主として組織労働者(特に海岸部北部)の支持の下に,ペルー政治のうえで最大の組織力を有する急進的大衆政党としての地位を確立する。しかし,〈アプラのみがペルーを救う〉というメシア的スローガンの下に,伝統的支配階級に挑戦したその好戦的姿勢は,特にトルヒーヨ市における蜂起事件(1932)以降,軍との間に深い溝をつくり,その後アプラは非合法下の道を歩むことになる。しかし長期にわたる非合法活動は,規律のゆきとどいた垂直的ファシスト的ともいえる組織構造をいっそう堅固なものにした。第2次大戦中は,反ファシズムの立場からアメリカに接近し反米の立場を弱め,45年にはブスタマンテ民主政権の成立を助けるが,48年には,カヤオでの蜂起後オドリア将軍のクーデタにより再び非合法となった。その後,指導層の保守化とあいまって,56年,アプラは支配階級との同盟による政権参加への道を選択し,初期の急進的な改革綱領の実施を放棄しただけでなく,60年代のベラウンデ中道左派政権の改革を,地主層との同盟により議会において阻止するまでにいたった。70年代には,アプラの改革綱領のほとんどが,軍事革命政権によって実現された。その後,軍との関係もしだいに改善され,78年召集された立憲議会では第一党を占めた。しかし翌年,党首アヤが死去した後,後継者問題から党内に分裂をきたし,80年選挙では著しく後退した。
執筆者:遅野井 茂雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報