サン・マルティン(読み)さんまるてぃん(英語表記)José de San Martín

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サン・マルティン」の意味・わかりやすい解説

サン・マルティン
さんまるてぃん
José de San Martín
(1778―1850)

アルゼンチン軍人ベネズエラのシモン・ボリーバルと並ぶ南アメリカ独立の指導者。アルゼンチン北東部コリエンテス州のヤペジュに生まれる。父親はスペインの士官であった。7歳のとき家族とともにスペインに渡り、11歳でスペイン軍に入隊し、アフリカヨーロッパ各地を転戦した。1808年7月、スペインに進攻したナポレオン軍を破ったバイレンの戦いで勲功をたて、11年6月師団長に昇進した。しかし、この地位を最後に11年9月スペインを去り、10年5月に始まっていたアルゼンチンの独立運動に身を投ずるために、12年3月帰国した。スペイン時代の軍歴を認められてただちに独立軍の士官に任ぜられ、13年2月サン・ロレンツォの戦いで勝利を収め、指揮官として名声を得た。14年1月、当時アルトペルー(現ボリビア)の王党派軍と激しい攻防を繰り返していた北部軍の総司令官に抜擢(ばってき)されたが、病を得て辞職した。総司令官時代にアルト・ペルー攻略のために、まずアンデス山脈を越えてチリの王党派を打倒し、ついでペルーを解放し、ペルーからアルト・ペルーを攻略するという大掛りな迂回(うかい)作戦を着想し、14年9月メンドサ州知事に任命されると、この作戦の準備にとりかかった。そして人馬の訓練に2年余りを費やしたのち、17年1月、5000を超す兵員と牛馬などを従えてアンデス越えの難業を敢行した。2月チャカブコの戦いでチリの王党派を撃破、さらに翌年4月マイプーの戦いに勝利し、18年2月のチリの独立を不動のものとした。ついで20年8月ペルー攻略に着手し、翌年7月ペルーを解放、ペルーのプロテクトール(保護者)の称号を与えられた。

 しかし、アルト・ペルーの解放には兵力の不足することを悟ったサン・マルティンは、1822年7月、南アメリカ北部を解放して南下しつつあったボリーバルとエクアドルグアヤキルで会見し、支援を求めたが拒否された。このためその後の独立戦争の指揮をボリーバルに託し、いっさいの公職を辞してペルーを離れ、ヨーロッパで隠遁(いんとん)生活を送った。29年に一度帰国を試みてブエノス・アイレス港に到着したが、内乱に明け暮れる祖国の姿に失望して下船せずにヨーロッパに戻り、二度と祖国の土を踏まなかった。アルゼンチンのみならず、チリ、ペルーの解放に貢献した功績をたたえ、アルゼンチンでは彼の命日にあたる8月17日を「解放者の日」として祝日にしている。

[松下 洋]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サン・マルティン」の意味・わかりやすい解説

サン=マルティン
San Martín, José de

[生]1778.2.25. ヤペユー
[没]1850.8.17. ブーローニュシュルメール
アルゼンチンの軍人,政治家。ラテンアメリカ独立革命の英雄。スペイン系貴族の家庭に生れ,幼時スペインに渡り,11歳で入隊。陸軍中佐にまで昇進したが,故郷アルゼンチンの独立運動がブエノスアイレスで激化しているのを知り,1812年アルゼンチン革命政府に身を投じた。 16年アルゼンチンの独立宣言後,チャカブコ (1817) ,マイブー (18) の戦いでスペイン軍に壊滅的打撃を与え,さらに,21年7月リマを攻略,新生ペルー共和国の保護職 (立法,行政両権を掌握する独裁者) に任じられた。しかし,独立直後のペルーの政情不安を収拾しえず,このため当時南アメリカ北部の解放に成功していた S.ボリバルと会見し (22.7.) ,協力を要請したが失敗,以後の独立戦争の全指揮をボリバルに託し,ペルーを去り,30年以降はフランスで隠遁生活をおくった。アルゼンチンでは,彼が死んだ8月 17日を国民の祝日に定めてその功績をたたえている。

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