アルゼンチンの軍人。ベネズエラのシモン・ボリーバルと並ぶラテン・アメリカ独立の英雄で,アルゼンチン,チリ,ペルーの解放に貢献した。スペイン人の士官を父に,父が役人をしていたアルゼンチン北東部のヤペジュに生まれ,1785年家族とともにスペインに移った。89年士官候補生として軍隊に入り,アフリカやヨーロッパの戦役に参加したのち,1808年バイレンにおけるフランス軍との戦闘で輝かしい軍功をたて,11年師団長に昇進した。一方,この間にアルゼンチンでは1810年5月に独立運動が勃発し,それに共鳴したサン・マルティンは,11年9月スペインを去って翌12年3月ブエノス・アイレス市の独立軍に身を投じた。当時独立軍は,東部とアルト・ペルー(現,ボリビア)における王党派の抵抗に悩まされていた。しかし13年2月サン・ロレンソの戦におけるサン・マルティンの勝利は,東部の王党派に致命的な打撃を与えた。同年北部遠征隊の司令官に任ぜられ,アルト・ペルーの制圧を託されたが,同地方の解放にはチリ,ペルーの独立が先決であることを悟り,メンドサ州知事に就任して同地方でチリ遠征隊の訓練に当たった。17年1月,2年以上にわたる準備ののち,5000を超す兵員と牛馬などを従えて峻険なアンデス山脈を越え,同年2月チャカブコでチリの王党派を撃破した。さらに翌年4月にはマイプで決定的勝利を収め,ここにチリの独立が確定した。20年8月にはバルパライソから海路ペルーに向かい,21年7月リマを攻略してペルーの保護者に任ぜられた。
しかしながら,王党派の最後の牙城であったアルト・ペルーの征服には兵力が不足したため,当時ベネズエラとコロンビアを解放してエクアドルの解放に着手していたボリーバルに支援を求めた。22年7月エクアドルのグアヤキル市で両雄の歴史的会談が実現されたが,ボリーバルから期待した援助の得られぬことに失望したサン・マルティンは,独立戦争の指揮をボリーバルにゆだね,ペルーの保護者の地位も辞し,一時期メンドサに滞在したのち,24年ヨーロッパに向かった。その後29年2月には帰国の意図を抱いてブエノス・アイレス港に戻ったが,内乱で混乱を極める祖国の窮状に幻滅して下船せずにヨーロッパに引き返し,以後フランスで長い隠遁生活を送った。ラテン・アメリカ諸国の独立に果たした功績をたたえ,アルゼンチンでは彼の命日の8月17日が国民の祝日となっている。
執筆者:松下 洋
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アルゼンチンの軍人。ベネズエラのシモン・ボリーバルと並ぶ南アメリカ独立の指導者。アルゼンチン北東部コリエンテス州のヤペジュに生まれる。父親はスペインの士官であった。7歳のとき家族とともにスペインに渡り、11歳でスペイン軍に入隊し、アフリカやヨーロッパ各地を転戦した。1808年7月、スペインに進攻したナポレオン軍を破ったバイレンの戦いで勲功をたて、11年6月師団長に昇進した。しかし、この地位を最後に11年9月スペインを去り、10年5月に始まっていたアルゼンチンの独立運動に身を投ずるために、12年3月帰国した。スペイン時代の軍歴を認められてただちに独立軍の士官に任ぜられ、13年2月サン・ロレンツォの戦いで勝利を収め、指揮官として名声を得た。14年1月、当時アルト・ペルー(現ボリビア)の王党派軍と激しい攻防を繰り返していた北部軍の総司令官に抜擢(ばってき)されたが、病を得て辞職した。総司令官時代にアルト・ペルー攻略のために、まずアンデス山脈を越えてチリの王党派を打倒し、ついでペルーを解放し、ペルーからアルト・ペルーを攻略するという大掛りな迂回(うかい)作戦を着想し、14年9月メンドサ州知事に任命されると、この作戦の準備にとりかかった。そして人馬の訓練に2年余りを費やしたのち、17年1月、5000を超す兵員と牛馬などを従えてアンデス越えの難業を敢行した。2月チャカブコの戦いでチリの王党派を撃破、さらに翌年4月マイプーの戦いに勝利し、18年2月のチリの独立を不動のものとした。ついで20年8月ペルー攻略に着手し、翌年7月ペルーを解放、ペルーのプロテクトール(保護者)の称号を与えられた。
しかし、アルト・ペルーの解放には兵力の不足することを悟ったサン・マルティンは、1822年7月、南アメリカ北部を解放して南下しつつあったボリーバルとエクアドルのグアヤキルで会見し、支援を求めたが拒否された。このためその後の独立戦争の指揮をボリーバルに託し、いっさいの公職を辞してペルーを離れ、ヨーロッパで隠遁(いんとん)生活を送った。29年に一度帰国を試みてブエノス・アイレス港に到着したが、内乱に明け暮れる祖国の姿に失望して下船せずにヨーロッパに戻り、二度と祖国の土を踏まなかった。アルゼンチンのみならず、チリ、ペルーの解放に貢献した功績をたたえ、アルゼンチンでは彼の命日にあたる8月17日を「解放者の日」として祝日にしている。
[松下 洋]
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1778~1850
アルゼンチン生まれの南アメリカ独立運動の指導者。1812年アルゼンチンの独立運動に参加,13年サン・ロレンソの戦いに勝利し,北部遠征軍指揮官となる。17年,4000人の兵を率いて峻険なアンデスを越え,チャカブコ,マイプの戦いに勝利して,チリを独立に導いた。さらに海路ペルーに向かい,21年リマに入って,7月28日ペルーの独立を宣言した。しかし22年7月大コロンビアの独立の英雄ボリーバルとのグアヤキルでの会談は不首尾に終わり,ペルー護民官を辞した。南アメリカの独立後,政争を嫌って渡欧し,フランスのブローニュ・シュル・メールで没した。
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…だが,首都への反感などから,今日のパラグアイ,ウルグアイ,ボリビアの諸地域は委員会の権威を認めず,自治政府と戦端を開いた。この戦争が結果的に上述の諸地域をアルゼンチンから分離・独立させることになるのだが,副王領内の多くの州は16年7月9日トゥクマン市で開かれた議会でリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の独立を宣言し,独立戦争の遂行をサン・マルティンJosé de San Martín将軍にゆだねた。サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。…
…だが,首都への反感などから,今日のパラグアイ,ウルグアイ,ボリビアの諸地域は委員会の権威を認めず,自治政府と戦端を開いた。この戦争が結果的に上述の諸地域をアルゼンチンから分離・独立させることになるのだが,副王領内の多くの州は16年7月9日トゥクマン市で開かれた議会でリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の独立を宣言し,独立戦争の遂行をサン・マルティンJosé de San Martín将軍にゆだねた。サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。…
…パン・アメリカン・ハイウェーで北西に237kmで首都リマに通じるほか,アンデス山中のアヤクチョにも364kmの道路で通じている。独立戦争時のサン・マルティン将軍の上陸地。【田嶋 久】。…
※「サンマルティン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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