日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハディド」の意味・わかりやすい解説
ハディド
はでぃど
Zaha Hadid
(1950―2016)
イラク生まれでイギリスを拠点に活動した建築家。バグダードに生まれる。1972年から、ロンドンのAAスクール(Architectural Association School)で建築を学ぶ。エリア・ゼンゲリスElia Zenghelis(1937― )、レム・コールハースに師事。1977年卒業後、1987年までの間、ハディド自身もAAスクールで教鞭をとりながら、コールハースの主宰するOMA(Office for Metropolitan Architecture)に参加。以後、ハーバード大学GSD(大学院大学デザイン・コース)教授およびシカゴ大学教授などに選ばれ、ハンブルク造形芸術学校客員教授となるほか、コロンビア大学などで数々の教職を歴任。2002年にはエール大学客員教授を務める。アメリカ芸術・文学アカデミー名誉会員およびアメリカ建築学会会員。ウィーン応用芸術大学教授。
1983年の「ザ・ピーク」(香港(ホンコン))のコンペティションで一等に選ばれ、ハディドは一躍その名を世界に轟(とど)ろかせる。このコンペで見せた力強く、鮮やかな色彩の断片が飛びかうようなイメージの、独特のスタイルをもつドローイングは、その後ハディドの代名詞ともなる。ドローイングは、彼女にとって建築と都市の拡張可能性を検証するための実験場である。しかしそれらがけっしてドローイングだけの単なる空想的なイメージにとどまらないことを、その後の建築物の実現によって証明していく。ハディドのドローイングと実物の設計との連続性を最初に印象づけたのはビトラ消防署(1999、ドイツ、バーデン・ウュルテンベルク州)である。
彼女が学んだ時期のAAスクールは、彼女のように極めてアーティスティックな作風をもつ非凡な才能を多数世に送り出したが、その多くの建築家が実作の機会に恵まれず、AAスクールはほとんど「建築の絵描きを養成する学校」の様相を呈していた。ハディドも最初はその例に違(たが)わず、独創性のあるあくの強いその表現スタイルが災いしたのか、キャリアに関してはけっして順調なスタートを切ったわけではない。しかし欧米各地の大学で教鞭をとりながら設計活動を続けつつ、いくつかの重要な作品を実現した。
そのほかの作品には、1986年のベルリン、クーアフュルステンダム大通りの計画に始まって、デュッセルドルフのアート・アンド・メディア・センター(1989)、ムーンスーンレストラン(1990、札幌)、フランス、ストラスブール・トラムウェイの景観設計(2001)、オーストリア、インスブルックのベルギゼル・スキー・ジャンプ競技台(2001)、アメリカ、シンシナティ現代芸術センター(2003)などがある。
[堀井義博]
『彦坂裕訳『GA Architect 世界の建築家5 ザハ・ハディド』(1986・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『Zaha Hadid, Paul Sigel, Bernhard WidmannZaha Hadid Nabern(1997, Distribooks, Illinois)』▽『Zaha Hadid, Betsky, AaronThe Complete Buildings and Projects(1998, Rizzoli, New York)』▽『Zaha Hadid, Mayer Bahrle Schumacher, Eberhardt KlausLF ONE; Landscape Formation One in Weil Am Rhein, Germany(1999, Birkhäuser, Boston)』▽『『GA Document Extra 03 Zaha M. Hadid (ザハ・ハディド)』(1995・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『EL Croquis 52+73; Zaha Hadid 1983-1995(2001, EL Croquis, Madrid)』▽『EL Croquis 103; Zaha Hadid 1996-2001(2001, EL Croquis, Madrid)』▽『Helene Binet, Lars Muller ed.Architecture of Zaha Hadid in Photographs(2001, Lars Müller Publishers, Baden)』