ハンゼマン(その他表記)Hansemann, David

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハンゼマン」の意味・わかりやすい解説

ハンゼマン
Hansemann, David

[生]1790.7.12. ハンブルク近郊フィンケンウェルダー
[没]1864.8.4. シュランゲンバート
ドイツ政治家ラインラントウェストファーレンの鉄道建設に関与し,鉄道の国有化を主張。 1838年アーヘン商業会議所会頭。 45年政界に進出。政治的にはラインラントの自由主義ブルジョアジーの利害を代表,プロシアが立憲議会制国家となることを条件にプロシアに協力することを承認し,47年にはフリードリヒ・ウィルヘルム4世により招集された連合州議会の議員として,プロシア国家の自由主義化と中央集権化運動の先頭に立った。三月革命後プロシア最初の自由主義的な L.カンプハウゼン内閣の蔵相となり,続いて R.アウエルスワルト内閣にもとどまったが,急進勢力の伸張を恐れて民衆運動弾圧の政策に向った。政界引退後,51年ディスコント財団銀行を設立。著書に『プロシアとドイツの憲法制定』 Das preussische und deutsche Verfassungswerk (1850) がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハンゼマン」の意味・わかりやすい解説

ハンゼマン
David Hansemann
生没年:1790-1864

ドイツの自由主義派の企業家,政治家。ハンブルク近郊の牧師末子として生まれる。初等教育終了後,商人見習いとなり,羊毛仲買業をへて1824年アーヘン火災保険会社,37年ライン鉄道会社を設立し,38年にはアーヘン商工会議所会頭に就任。45年からはライン州議会議員をも務める。彼が1840年に執筆した《プロイセンの状態と政治に関する覚書》は立憲君主制を政治目標として定式化しており,三月革命準備期のライン自由主義派の要求を最も明確な形で表現したものとして有名。48年革命期にはプロイセン〈三月内閣〉の蔵相を務めた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハンゼマン」の意味・わかりやすい解説

ハンゼマン
はんぜまん
David Hansemann
(1790―1864)

ドイツの実業家、政治家。1820、1830年代に火災保険会社の創設や鉄道敷設を通じてライン地方の商工業を振興させ、1838年アーヘン商業会議所会頭に就任。政治的には穏健自由主義を主張し内政改革を立案、三月革命期にプロイセン蔵相(1848年3~9月)として立憲制導入と封建的特権廃止に努めた。1851年には銀行、ディスコント・ゲゼルシャフトを創設した。

末川 清]

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367日誕生日大事典 「ハンゼマン」の解説

ハンゼマン

生年月日:1790年7月12日
ドイツの政治家
1864年没

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世界大百科事典(旧版)内のハンゼマンの言及

【プロイセン】より

…48年,プロイセンが三月革命(48年革命)の嵐に見舞われると,ベルリン市民の暴動におびえた王は,統一ドイツ国家の建設とプロイセン憲法の発布を約束した。しかし,新たに組織されたハンゼマンらの自由主義的な政府のもとでも,国制の根本的改革は行われることなく,早くも同年の秋以来,プロイセンはオーストリアとともに反革命運動の先頭に立つ。フランクフルト国民議会は,なおもフリードリヒ・ウィルヘルム4世に期待をかけ,ドイツ皇帝の冠を提供せんとしたが,王はすげなくこれを拒絶し,革命の挫折を決定づけた。…

※「ハンゼマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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