フリードリヒ・ウィルヘルム4世(読み)フリードリヒ・ウィルヘルムよんせい(その他表記)Friedrich Wilhelm IV

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

フリードリヒ・ウィルヘルム4世
フリードリヒ・ウィルヘルムよんせい
Friedrich Wilhelm IV

[生]1795.10.15. ベルリン近郊
[没]1861.1.2. ポツダム
プロシア王(在位 1840~61)。フリードリヒ・ウィルヘルム3世の子。青年時代 J.アンションの教育を受け学芸を愛好し,教養も高かったが,政治的手腕を欠き「王座ロマン主義者」と呼ばれた。1847年召集した連合州会で憲法制定を否定して国民の不評を招いた。1848年の三月革命において,憲法とドイツ統一を約束しながら,1849年4月フランクフルト国民議会の捧げたドイツ皇帝位を退けた。1850年勅令で欽定憲法発布。プロシアはこれによって二院制(両院制)の議会をもつことになった。一方,ヨーゼフ・ラドウィッツの計画に従い,保守主義と小ドイツ主義に基づく「エルフルト連合」を形成しようとしたが,オーストリアの反対により挫折。1850年オルミュッツ協定ドイツ連邦の復活に同意した。オーストリア尊重に傾く王およびオットーマントイフェル内閣に反対するグループは王弟ウィルヘルム(のちのウィルヘルム1世)を擁し,互いに確執したが,王の精神障害が昂じたため 1858年10月ウィルヘルムが摂政位につき,マントイフェル内閣は罷免された。

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改訂新版 世界大百科事典 の解説

フリードリヒ・ウィルヘルム[4世]
Friedrich Wilhelm Ⅳ
生没年:1795-1861

プロイセン王。在位1840-61年。同3世の子。中世身分制国家に国制の理想を見るロマン主義者で,豊かな教養のゆえに即位時国民の期待を集めたが,新時代の立憲主義には理解がなく,1848-49年の革命48年革命)においては,その優柔不断な態度によってみずから国王の権威を失墜させた。57年精神に異常をきたし,統治権を弟のウィルヘルム1世(1857年国王代理,58年摂政,61年即位)にゆだねている。
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367日誕生日大事典 の解説

フリードリヒ・ウィルヘルム4世

生年月日:1795年10月15日
プロシア王(在位1840〜61)
1861年没

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世界大百科事典(旧版)内のフリードリヒ・ウィルヘルム4世の言及

【プロイセン】より

… これ以後,プロイセン公国は,ホーエンツォレルン家のもとに,同君連合のかたちで,歴代のブランデンブルク選帝侯の支配をうけるが,プロイセンに対するポーランドの宗主権はなおも存続した。ようやく〈大選帝侯〉フリードリヒ・ウィルヘルム(在位1640‐88)のとき,スウェーデン・ポーランド間の戦争(1655‐60)に乗じて,ブランデンブルクはポーランドからプロイセン公国における完全な主権を獲得し(1657),1660年のオリバOliva和約でこの主権はスウェーデン・ポーランド両国により承認された。 プロイセン公国でも,ブランデンブルクにおけると同様,16世紀以来ユンカー(地方貴族)の農奴制的な直営地経営(グーツヘルシャフト)が発展していた。…

※「フリードリヒ・ウィルヘルム4世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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