17、18世紀の市民革命期に登場した政治・経済・社会思想。絶対君主の抑圧から解放されることを求めて、近代市民階級が、人間は何ものにも拘束されずに自分の幸福と安全を確保するために自由に判断し行動できる存在となるべきことを主張した思想である。したがって自由主義は近代民主主義思想史全体を貫くもっとも基本的な思想原理といえる。たとえば現代国家の憲法を特徴づけている人権尊重の思想や民主的な政治制度の確立を求める思想などの源流は、すべてこの自由主義から発したものといえよう。
ところで、自由主義はもともとは近代市民階級の思想、イデオロギーとして登場したものであるから、その後の政治・経済・社会構造の変化や歴史的進展の過程のなかで新しい局面に遭遇し、その思想内容に関して自己修正を余儀なくされるという事態も生じた。とくにそれは、19世紀以降の自由と平等をめぐる思想的衝突という形で現れ、自由主義に対するさまざまな批判やマイナス評価が生じた。にもかかわらず、人間の自由を尊重することを基本として出発した思想という意味で、自由主義は政治・経済体制やイデオロギーの違いを超えて、現代においても依然として最重要な思想であることは間違いない。そこで、自由主義を正当に評価するためには、自由主義の本質とは何か、自由主義は近代350年の歴史のなかでいかなる役割を果たしてきたか、また自由主義は歴史の進展とともにどのような変容を遂げながら現代民主主義思想においていまなお重要な位置を占めているのか、等々について考察する必要があろう。
[田中 浩]
人間の自由に最高の価値を置く思想は遠く古代ギリシア・ローマの時代にその源流を求めることができる。しかし自由主義すなわちリベラリズムが、人間の生き方、政治運営のルールあるいは経済活動の基本原理として本格的に登場してきたのは、17、18世紀の市民革命の勝利によって近代国家や近代社会が成立した時点以後のことである。
もっとも、自由主義的な考え方は、民主主義の母国といわれるイギリスでは、13世紀初頭のマグナ・カルタ(1215)以来、数世紀かけて徐々に発展してきたが、自由主義思想が憲法、宣言の形で明確に表明されたのは「権利請願」(1628)、「権利章典」(1689)、「アメリカ独立宣言」(1776)、「フランス人権宣言」(1789)などにおいてであろう。そして、そのような憲法や宣言の考え方を思想的・理論的に組み立てたのが、ホッブズ、ハリントン、ミルトン、ロック、ルソーらの社会契約論者や民主主義思想家たちであった。そこで、次に、近代初期における自由主義の思想内容つまりその本質について述べることにしよう。
人間は孤立して生きてはいけず、なんらかの集団を形成し、相互に協力しあいながら生活資料を生産して各自の生命の維持を図り、また団結して外敵にあたることによって集団と個人の生存を確保する。ギリシア・ローマ時代の都市国家、中世の封建国家、絶対主義国家などはすべてそうした目的によってつくられた人間集団の形態と考えてよいだろう。この場合、アテネの都市国家や中世のベネチア共和国などのように自由な市民が政治運営を行う場合もあれば、君主や統治集団が強大な権力を振るって集団生活を維持する場合もあった。そして近代国家成立以前には大半が後者の政治形態をとっていたのであり、それらの国家では、統治者の臣下や国民に対する関係としては、力ずくの封建的な抑圧状態が普通のこととされていたため、人々の日常生活は自由でも快適でもなかった。
そこで、政治社会の基礎に「人間の自由」の確保を置く民主的な政治運営を図る政治集団の設立を求める動きがおこり、そのようにして登場してきたのが、今日の近代国家である。
ところで、人間は集団の一員であるという点において、まったく自由に行動できるということはありえない。人々はつねに、全体の利益と個人の利益との調和を考慮に入れながら行動しなければならない。このように人間の自由にはかならずなんらかの抑制、制限、規律が付きまとうのである。
しかし、自由な行動を抑制する場合にも、自分はもとより集団を形成する全員が納得ずくで決めた事柄であれば、そこにおける行動の制限はかならずしも自由の制限・侵害とはいえないであろう。そうした問題を民主的に解決するためにつくられた政治社会の結合と運営のシステムが、全員の同意・契約によって自分たちの代表者を選び、彼らに政治社会を運営するルールである公正・公平な法律を制定させ、そのルールや法律に各人が服することによって政治社会の安全・保持を図る、というシステムである。今日、「法の支配(ルール・オブ・ロー)」とよばれる政治運営のルールや、ホッブズ、ロック、ルソーなどの「社会契約説」論者たちが考案した近代国家の民主主義的政治運営の原理がそれであった。ここでは「国民主権主義」が政治社会結合の原理とされ、代表者たる統治者は全体の利益のために制定した法律に自らも拘束されて政治を行い、他方、国民の側も法律に自発的に服することによって生命の安全と集団の平和維持を図ることが要請される。したがって、自由主義は、人間の権利・自由(人権)と権力の制限(民主政治の確保)という考え方の基礎的原理を構成している思想であるといえよう。
今日、各国憲法において「言論・思想の自由」や人の身体を拘束する(逮捕、拘禁)場合に人権を侵害しないように十分に配慮する「人身の自由」などを条文で規定しているのは、人間の自由を統治者=国家権力が不当に侵害することを防止するためであり、こうした考え方は、マグナ・カルタ以来、まずイギリスにおいてしだいに発達してきたものである。
ところで、近代国家においては、国家の平和と安全を維持するためのさまざまな統治集団(議会、内閣、裁判所、警察、軍隊など)と、個人および集団全体の生命を維持するために生活資料を生産する大半の人々とが分かれて存在している。両者は、相互に協力しあいながら、国家という集団の存続を維持している。そして、前者は、物を生産しない統治集団であるから、後者が生産活動によって得た利益の一部を税金という形で負担し、その供出された税金によって統治集団は国家を運営するということになる。したがって「フランス人権宣言」においても、そうした税の負担は市民の義務である(第13条)と述べているのである。この場合、重要なことは、かつての封建領主や絶対君主のように、自分勝手の都合で国民の汗と労働の結果である財産を不当な形で供出させ取り上げるということは、自由に生産させて成果をあげさせ(自由放任)、それによって成員全体が生活をエンジョイするという「自由の精神」に反するということである。このため近代国家においては、国民の代表者の会議体である議会において課税の額を定めることになっている。マグナ・カルタ以来「承諾なければ課税なし」といわれ、各国憲法において「財産権の保障」や「私有財産の不可侵」が規定されているのはそのためである。したがって「財産権の保障」は、「言論・思想の自由」や「人身の自由」などと同じく、国家権力といえども侵害してはならない基本権(自由権)として、近代国家成立期の憲法や宣言において主張されたのであり、これらの権利はいずれも「権力からの自由」として自由主義のもっとも重要な思想原理とみなされてきたのである。
このようにみると、17、18世紀に登場した自由主義の内容には、国民主権主義、基本的人権の尊重、法の支配、平和主義などが含まれていることがわかる。ホッブズが人間にとってもっとも重要なことは生命の尊重(自己保存)にある、ロックが政治社会(国家)設立の目的は所有権(プロパティ―生命、自由、財産)の保護にある、ルソーが社会契約の目的は人間の自由の確保にある、と述べているのは、近代自由主義の本質を端的に説明したものといえよう。
[田中 浩]
近代国家・近代社会の成立とともに登場した自由主義は、その後、各国において民主政治や議会政治の発達を促した。たとえばイギリスでは、18世紀末から19世紀30年代にかけて、ベンサムの政治思想にみられるように自由主義は選挙権の拡大を求める思想と結び付き、民主政治のよりいっそうの発展をもたらした。市民革命は上層ブルジョアジーの主導した革命であったから、中産層以下の人々には選挙権が与えられなかった。選挙権から排除された人々は、政治的権利(政治的自由)は生まれながらの権利(自然権)であると主張したが、上層ブルジョアジーたちは、選挙権は「財産と教養」ある名望家にのみ限定されるべきだとして「制限選挙」を主張した。しかし産業革命の時代を迎え、中産層や労働者階級の数が増大するにつれてふたたび選挙権拡大の要求が高まった。このときベンサムは、人間は同質・同等の存在であり、「最大多数」の人々の「最大幸福」を実現することが政治の目的である、というユーティリティ(効用、功利)の原理によって、選挙権の拡大要求を支持し、その成果は1832年の「第一次選挙法改正」となって実現した。そして1867年にはベンサムの弟子J・S・ミルらの努力によって「第二次選挙法改正」が実施され、都市の労働者階級にも選挙権が与えられた(男女平等普通選挙が実現したのは1928年)。
こうして、市民革命期には基本的人権とは考えられていなかった参政権が、新しい政治的権利・政治的自由として民主主義思想のカタログに加えられたのである。その理由は、人々が自由を確保するためには、すべての人々が直接に政治に参加する機会を得て、その意志を表明することが必要である、と考えられたためである。この意味で、参政権は自由主義の所産であり、参政権の拡大によって議会制度自体も民主化され、自由主義の内容は政治的民主主義という形でさらに豊かなものとなったのである。これ以後、イギリス以外の国々でも、自由主義や「人間の自由」を確立する第一目標として政治的民主主義の達成が追求されることになった。そして政治的民主主義の確立は、さらに「人間の自由」と並んで重要な「人間の平等」を実現する方向に進むことを可能にしたのである。
[田中 浩]
自由主義は政治の分野においては、政治的民主主義、議会制民主主義の基礎原理として人類史上大きな貢献をした。同じく自由主義は経済の分野においても、資本主義経済の発展に大きく寄与した。前述したように近代国家は、政治と経済を分離した二元社会であった。少数の人々が政治のプロとして政治社会の安全と維持を図り、国民の大半は自分の自由な判断に基づいて経済活動を行い、それによって政治社会の食料の確保とその他の生活手段の生産がスムーズに行われるようになった。ここでは国家や政府の役割は、治安の維持と外敵の侵略を防衛する、いわば「夜警国家」の立場にとどまるものとされ、他方、経済活動については「自由放任主義」(レッセ・フェール)がよしとされ、このことによって資本主義は大いに発展し、生産力は飛躍的に増大した。またこの時期には、資本を所有する資本家階級と労働力を提供する大多数の勤労者の協同作業によって生産の調和ある発展と生産力の無限の増大が保証されると考えられていた。スミスが『国富論(諸国民の富)』(1776)について書いた状況は、そうした楽天主義にたつ国民経済の姿であった。
ところが、その後、資本主義経済が発展していくなかで、一方では少数の資本家階級に富が集中し、他方では大多数の労働者階級が定期的におこる恐慌や不景気などの不安定な社会状況のなかで貧困・失業などに苦しめられるという、いわゆる社会・労働問題が発生した。このため19世紀中葉以降、経済的・社会的不平等を是正し、弱者を救済する施策をとることが政治の緊急な課題となった。
そこで、自由主義的経済思想のなかでいくつかの点について修正が加えられることになった。その一つは「私有財産の不可侵」という思想の修正である。「私有財産の不可侵」という考え方は、もともとは絶対君主による不当な課税に反対する思想として登場し、自由主義のなかでもきわめて重要な原理とされていた。近代国家の成立とともにこの考え方が確立されると、「私有財産の不可侵」という原理は、今度は資本家階級による資本の蓄積を正当化する思想となり、そのことが経済の発展を促進した。しかし、経済的・社会的矛盾が顕在化し大量の弱者が登場するなかで、彼らを救済するために社会保障制度や教育制度などを整備する必要に迫られた。その際の財源としては、税金の一部を振り分けること、高額所得者に累進税を課することなどが考えられた。これについては、税金を負担している一部の財産保有者の側から異論が出された。彼らは、そのような方法は、「私有財産の不可侵」という伝統的な「自由の原理」を侵害し、私有財産の制限につながるものだとして反対した。しかしイギリスでは、自由の精神は人間の尊重にある、また自由は人間が人間らしく生きるための手段である、というグリーンの唱えた「積極的自由」の考えが優勢を占めるようになり、全体や公共の利益のためには「私有財産の制限」もありうる、として自由主義的経済思想に修正を加え、弱者救済、平等化の方向に沿って19世紀末以来、福祉国家への道を歩むことになった。そして、こうした公共の福祉のためには個人の財産といえども制限を受けるという考え方は、「ワイマール憲法」(1919)や日本国憲法第29条2、3項などにおいても採用されている。
ところで、自由主義的経済思想に関するもう一つの修正は、労使関係を律する「契約自由の原則」についても行われた。近代初期には、雇用関係については雇主と被雇用者との間で労働条件や賃金等について自由に取り決めるという「契約自由の原則」が採用されていた。この考え方は、封建社会の農奴のように土地に縛り付けられて労働を強制されずに、自由な立場で職業や職場を選択できるという点で、労働者にとっても進歩的な内容をもつものであった。しかし資本主義社会においては、労働者は自分の労働力を売る以外には生計をたてることができないから、劣悪な労働条件や低賃金でも働かざるをえないし、また恐慌や不景気時にはなんの保障もないままに解雇されるという危険性がつねに存在した。そこで社会的に弱者の地位にある労働者を守るために、労働者自身に団結する権利を認め、その権利を行使して労働条件を改善し、また資本家がなんらの保障も与えないで解雇するようなことがないように法的に保障する必要性が出てきた。こうしてイギリスでは1870年に「労働組合法」が制定され、今日では各国憲法においてさまざまな労働基本権が保障されるようになった。このような「契約自由の原則」の修正は、人間は生まれながらにして自由で平等な存在であるとした近代初期の自由主義思想から発したものといえよう。
[田中 浩]
日本では、明治維新を契機に福沢諭吉をはじめとする啓蒙(けいもう)思想家たちを通じて自由主義的な思想や制度が紹介、導入された。国会開設運動や自由民権運動などは、人権の尊重や民主的な政治制度の確立を目ざす試みであった。しかしドイツ(プロイセン)型の君権中心的な大日本帝国憲法が制定されて以後、自由主義は、大正デモクラシー期から昭和初期の短い時期を除き、ほとんどわが国では発展することなく、国家の個人に対する絶対的優位を説く国家主義(ステイティズム)やファシズムの前に圧倒されてしまった。そして第二次世界大戦後、日本国憲法の制定によって、ようやく日本においても自由主義的な思想や民主的な政治制度が確立されたのである。
[田中 浩]
これまで述べてきたことからもわかるように、今日では自由主義とは、単に政治的民主主義だけではなく、社会的平等の実現を求める社会的民主主義までもその内容としているものといえよう。この意味で、現在では、自由主義はかならずしも社会主義の対立概念ではなく、両者の思想はそれぞれに人間の自由と平等の実現を目ざすために相互に協力できる性格をもった思想としてとらえることができよう。
[田中 浩]
『田中浩著『国家と個人』(1990・岩波書店)』▽『田中浩著『近代日本と自由主義』(1993・岩波書店)』▽『田中浩著『近代政治思想史』(1995・講談社)』
自由主義(英語でリベラリズム)は集団による統制に対して個人の自発性を優先し,国家その他の社会諸制度は個人の自由を保障し個性を開花させるためにあるとみなす主張である。抑圧に抗する自由の希求や権力への抵抗の事例は歴史とともに古く,政治的自由の観念は古代ギリシア以来の伝統を有する。しかし,個人の自由を普遍的価値とみなし,それに基礎をおく社会制度を積極的に構想する自由主義思想が本格的に展開し,自由主義が国家や社会の指導原理となったのは近代ヨーロッパに固有の現象である。自由主義の前提には,(1)人間一人一人が固有の価値を有し,自己を完成させる能力を備えているという人間観,(2)個人の自由と原理的に矛盾しないなんらかの政治制度がありうるという政治観,(3)個人の自発性の保障こそ社会発展の条件であるという社会観,の三つがあり,これらはいずれも近代社会の構成原理の基礎をなす観点である。宗教改革にさかのぼる〈信教の自由〉の主張,原罪説を否定し人間の完成可能性と進歩の観念を強調した啓蒙思想,基本的人権と社会契約の観念,イギリス立憲主義の歴史的伝統,古典経済学と自由放任の政策論など,近代革命を導いたこれらの思想や観念はまた自由主義の前提をもなしている。
自由主義ということばが成立するのは19世紀であるが,それが示す思想内容の実質は17~18世紀のブルジョア革命の理念にまでさかのぼって理解される場合が多い。名誉革命によってスチュアート絶対主義を清算し,法の支配の伝統のうえに議会政治を定着させたイギリス立憲主義の近代的展開は,同時代の大陸諸国の専制に比して自由主義的諸理念を早期に実現した実例を提供した。J.ロックの政治理論やA.スミスの経済学説がしばしば古典的自由主義の名で呼ばれるゆえんである。アメリカ独立宣言,次いでフランス人権宣言は近代政治原理の基本理念としての人間の自由をより普遍的なことばで基礎づけ,自由主義に新しい展開をもたらした。同時にフランス革命の政治過程は,暴力的手段を伴う社会制度の急進的改変に反対して議会制の枠の中で穏健な改革を志向するブルジョアジーのイデオロギーとしての自由主義の意義を確認させた。
固有の意味での自由主義は,近代革命の普遍的原理を掲げるブルジョアジーが,土地貴族勢力の政治的支配を打破してみずからの階級的利害を貫徹するための政治的主張として,19世紀前半のヨーロッパに成立した。そこには,封建制と絶対主義とを克服した自由・平等な人間像や合理主義を継承する一方で,財産と教養を指標に貧困階級を政治過程から締め出し所有階級に奉仕する,という二面性が初めから内包されていた。また,自由主義は国家権力の介入を排除する主張だとしても,国民国家の自立なしにそれが政治原理として確立されることはありえないから,ナショナリズムとの関係も両義性を免れない。19世紀は自由主義の時代といわれるが,自由主義の具体的な展開過程は各国のおかれた歴史的条件によって異なり,民主主義,社会主義,ナショナリズムなど他の社会思想との関係も歴史の段階に応じて変化してきた。
18世紀のホイッグ主義に起源を有するイギリス自由主義は,J.ベンサムの功利主義とリカード経済学とを継承したいわゆる哲学的急進主義の運動を通じて,産業革命のもたらした新しい社会状況への適応に成功した。1832年の選挙法改正から穀物法撤廃(1846)を経て第2次選挙法改正(1862)に至るその展開は,政治過程を土地貴族勢力の独占から解放し,資本と労働の自由を実現するというブルジョアジーの政治課題を議会制の枠組みの中で漸進的に達成し,典型的な自由主義国家を成立せしめた。自由党がある時期まで労働者の利害をも代表し,やがて労働党にその政治的役割を譲っていった事実が示すように,ここでは自由主義と社会主義との対立も大陸諸国におけるほど先鋭ではなく,自由主義は党派の枠を超えてイギリスの政治的伝統の一部となったといえよう。
これに反してフランス革命の遺産を負ったフランス自由主義は,カトリシズムの教権支配やブルボン正統主義と闘う一方で,ジャコバン主義や革命的民衆運動から自己を絶えず区別する必要に迫られた。コンスタン・ド・ルベックBenjamin Constant de Rebecque(1767-1830)が土地所有を政治的権利の不可欠の条件となし,F.ギゾーが選挙権の財産制限にあくまで固執したように,フランス自由主義の指導者が概して政治的民主化に消極的であったのは,自国の革命的伝統に対する両義的態度に由来する。1848年の社会的危機がナポレオン3世の人民投票的独裁によって収束された事実は,フランス自由主義の脆弱(ぜいじやく)性を明らかにした。一方には革命と急進的民主主義の伝統が根強く残り,他方ではナポレオン以来官僚制支配が揺るがない独自の政治文化にあって,フランス自由主義はA.トックビル以来,基本的には批判と抑制の機能に終始せざるをえなかった。
イギリスやフランスの自由主義がともかくも体制の改革原理たりえたのに対して,政治的統一それ自体がなお課題であった19世紀のドイツやイタリアに,自由主義が定着する余地は少なかった。M.ウェーバーやB.クローチェのように,自由主義の歴史的基礎についての深い思索を生むことはあっても,自由主義が政治の指導原理として具体的に果たした役割は小さい。ジョリッティ体制やワイマール共和国の社会的基盤の脆弱性は,かえって自由主義を全面的に否定するファシズム運動を呼び起こす機縁ともなった。ロシア革命の衝撃に加えてファシズムの挑戦を受けた20世紀前半のヨーロッパは,自由主義にとって最大の試練の場となった。この危機にあたって,自由主義の再生に貢献したのはアメリカの自由主義である。アメリカでは自由主義は建国以来体制の原理であり,しかも社会状態の平等性のゆえに,自由主義と民主主義との矛盾もヨーロッパのような形では経験することがなかった。自由民主主義を早期に実現したアメリカ社会が,ニューディールを通じて自由主義経済の方向転換を成し遂げた事実は,全体主義の挑戦に対する自由主義のもっとも有効な回答を意味した。
今日,自由主義が先進資本主義国の大部分で体制の原理として定着していることは疑いえない。もとより現代の自由主義は普通選挙と大衆政党を当然とする自由民主主義であり,社会主義的施策をさえ絶対的に排除するものではない。自由主義が19世紀のブルジョア的制約を脱して大衆社会に適応しえた事実は,他方で,自由主義の原点たる個人の自発性や個性の尊重に新たな問題を投げかけている。自由主義の政治信条は〈権力は腐敗する,絶対的権力は絶対的に腐敗する〉というアクトン卿のことばが示すように,権力へのペシミズムを特徴とするが,その裏には個人としての人間の能力へのオプティミズムが厳として存在する。今日,自由主義を標榜する体制の下においてもまた,行政国家の現実がいやおうなく進行し,社会の高度組織化につれて大衆の受動性と画一化が明らかになるとき,自由主義の意味があらためて問われるのは当然であろう。
道学的規範からの欲望や感性の解放という意味での自由思想,また被抑圧者の権力への抵抗の事例は日本の伝統思想にも欠けていないが,個人の自由を普遍的価値として定立する自由主義は,日本において西欧思想の受容なしには成立しなかった。ことば自体が翻訳語であるように日本の自由主義は外来思想として出発し,それゆえつねに〈土着〉思想からの反発を受けてきた。それでも維新の国民的経験が生きていた明治初期には,自由主義は最新流行の外来学説という以上の意味を,日本の現実に対してもっていた。福沢諭吉の天賦人権思想や田口卯吉の歴史観には自由主義と基本的に共鳴する部分が少なくないし,自由民権運動はJ.S.ミルやH.スペンサーなどの名を広めただけでなく,藩閥政府に対する抵抗の原理として,自由主義が一定の役割を果たしたことを示している。だが,帝国憲法と教育勅語が天皇制国家を基礎づけてからは,自由主義が日本においてその原則を貫くことは困難となった。天皇制国家の支配原理のうちには,近代国家の中立性に反して個人の内面的自由を侵犯する側面があり,これが自由主義の根本前提を否定するからである。戦前の日本にも自由党,あるいはその系譜を引く政党はほぼ一貫して存在したが,天皇制国家のこのような側面と自由主義の名において対決した思想家はきわめて少ない。大正デモクラシーが学問,芸術,教育の各分野で自由主義的な言論を活性化したことは事実であるが,政治や経済の原理としての自由主義の一貫した主張は,長谷川如是閑や石橋湛山のような少数のジャーナリストにわずかにみられるにすぎない。自由主義が知識人の教養の域を脱し政治的イデオロギーとして積極的に主張されたのは,マルクス主義による批判に対抗するためであったという事実は,日本の自由主義の思想史的意義をよく物語っている。そして,この点で戦前自由主義を代表する河合栄治郎が天皇制ファシズムの弾圧対象とされたとき,ついに自由主義者の組織的な抵抗がなされなかった事実は,それ以上に日本の自由主義の運命を象徴している。
→個人主義 →自由 →新自由主義
執筆者:松本 礼二
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個人の自由を尊重し,それを集団や国家に優先させようとする思想。17世紀の革命によって立憲君主制(政)を定着させたイギリスが自由主義国家の先例となった。国家の不干渉を説くスミスらの古典学派経済学に裏打ちされて,19世紀前半には議会政治の枠組みに従った自由主義的改革を成就して,典型的な自由主義国家を出現させた。フランスやドイツなどにおいては自由主義はイギリスと同じ形をとることはなかったが,基本的人権や思想・信条の自由などの自由主義の原理は体制の基本原則として受容された。20世紀に入ると,自由主義は帝国主義と社会主義に挟撃されて,その存立基盤を危うくされ,衰退過程をたどったが,大半の国においてその基本原則は今日でも守られている。
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…そして,イギリス,アメリカなどにおいては,市民社会的な国民社会の成熟とあいまって,寛容政策がしだいに現実化していくのである。かくして,西欧における宗教的寛容の主張は,個人主義的自由主義の思想的起源をなすものであった。寛容法
【政治における寛容】
政治がつねになんらかの利害の調整関係を含むものであるとすれば,個別の立場を相互に容認し,その間の妥協をはかるという意味での寛容の考え方は,政治の登場とともに古いといえよう。…
…また,国家権力の行使を委託された人々は,しばしば自己の私的利益のために国家権力を濫用するおそれがある。こうしたことのために,自由と権力の対抗関係において自由を確保するには,権力を制限しなければならないとする自由主義や,権力者の恣意的統治に代えて,あらかじめ定立された規則に基づく統治を推し進めようとする立憲主義が高い説得性をもつことになる。多くの近代国家において,憲法が制定され,権力分立制や地方分権制が制度化されているのも,国家権力の濫用あるいは恣意的な権力の行使を抑制しようとするものであるといえよう。…
…また現代の議会も,歴史的起源は中世の身分制議会に求められるが,それが貴族制的な制度であったことはいうまでもない。近代に入ってからも,代議制はむしろ自由主義と結びついて発展し,少なくとも19世紀前半までは,民主主義は自由主義とも代議制ともあいいれないとされてきた。こうした民主主義と自由主義との対立関係は,思想的にはトックビルによる自由民主主義の成立において,制度的には普通選挙制の成立において終りを告げた。…
※「自由主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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