古くはザクセン部族の一支族(ウェストファーレン族)およびその居住地域の総称。英語ではウェストファリアWestphaliaとよばれる。12世紀から19世紀に至るまで東はウェーザー川,西はライン川,南はロートハール山脈Rothaargebirge,北はフリースラントの沼沢地帯に囲まれた地域に広がり,大小の教会領,世俗領に分裂して,政治的に統一されることはついになかった。ウィーン会議の結果,旧ウェストファーレンの3分の2を含む地域に南接する非ウェストファーレン地域をも加え,新たにウェストファーレン州としてラインラントとともにプロイセン王国に編入された。1816年から1946年に至る130年間の工業化とプロイセン化の進展により,新しいウェストファーレン概念が形成された。ラインラントと比べてプロイセンへの統合が相対的に容易に進んだのは,すでに17世紀以来,同地域において,マルクMark,ラーベンスベルクRavensberg両伯爵領(1614),ミンデンMinden司教領(1648),リンゲンLingen,テクレンブルクTecklenburg両伯爵領(1702,07),ミュンスター,パーダーボルンPaderborn両司教領(1803)をブランデンブルク・プロイセンが獲得してきたことにもよる。しかしプロイセンに併合された後も,地域主義的伝統は根強く残り,とりわけ農民層は内向的・保守的気質,旧来の習俗,言語(低地ドイツ語の亜種であるウェストフェーリッシュWestfälisch)を保持し続けた。行政的には州総督の管轄下に置かれ,ミュンスターを州都として,ミュンスター,ミンデン,アルンスベルクArnsbergの3県に分かれ,各県はさらに郡や市に分かれた。プロイセンはウェストファーレンの地域的独自性を配慮し,1824年に身分制州議会が発足し,これは86年に郡市連合に再編された。地域自治権の拡大にK.シュタインの果たした役割は大きい。
南部のザウアーラントSauerland,北部のミュンスターラント,両地域に挟まれるヘルウェークラントシャフト,東部のウェーザーベルクラントに大別される。ザウアーラントは南はジーク川,北はルール川,メーネMöhne川に挟まれる山地で,農耕には適さず,鉱工業が早くから発達した。ジーガーラントSiegerlandに産出する鉄鉱石を,豊富な森林・水力資源を利用して製錬・加工する鉄加工業の発達により,ザウアーラント西部のマルクは,17世紀中葉以降ブランデンブルク・プロイセンの中で最も工業化された地域となり,また19世紀ルール地域の急激な重工業化の起点ともなった。ハール丘陵地帯とリッペ川に挟まれるヘルウェークラントシャフトでは,古来からの交通路ヘルウェークHellweg沿いにドルトムント,ゾースト,パーダーボルンの諸都市が栄えたが,この地域はウェストファーレンで最も肥沃な黄土層におおわれ,穀作地帯を形成した。リッペ川とトイトブルクの森Teutoburger Wald,エッゲEgge山脈の間に広がるミュンスターラントは,北西部に沼沢地帯を含む低地で,穀作と並んで畜産も盛んであり,孤立荘宅の囲い地が独特の景観を形成していた。ウェーザーベルクラント(ウェーザー川左岸域)は複雑な地勢を示すが,北部のミンデン,ラーベンスベルクからオスナブリュックを経てテクレンブルク,リンゲンに至る地域は,亜麻,大麻の栽培地域であり,16世紀以来南ドイツ,スイスに匹敵する麻織業地域を形成した。19世紀後半には下着製造(ラーベンスベルク),ミシン,機械製造(ビーレフェルト)が発展し,またミュンスターラント北部からオランダとの国境沿いに,ライネ,グロナウ,ボッホルト等の綿工業地帯が形成された。
ウェストファーレンはラインラントとともにドイツ最大の産業的中心地を生み出したが,急激な工業化はとりわけ人口増加率と都市の成長速度によって示されている。1875年において人口190万5697,面積2万0199km2という規模は,プロイセンでも中小州にすぎず,人口密度も中部・南部ドイツに劣ったが,当時すでにドイツ最高の人口増加率を示し,都市人口比率もラインラントに次いで高かった。その結果就業人口の産業別比率も,農林業の22.5%に対し鉱工建設業が52.7%(1907)という高率を示すにいたった。この工業化と人口増大は何よりもヘルウェークラントシャフト西部のルール地域の石炭・鉄鋼業の発展に負っており,全ドイツから,とりわけ1880年代以降東部からスラブ系を含む労働移民が流入したが,この労働力移動は13世紀の東方植民以来の規模に達した。農業では経営規模2~100haの中・大農層が,経営数で30.7%,経営面積で86.4%を占め(1907),ウェストファーレンが小農地帯と中・大農地帯の漸移帯上にあることが示されている。農産物収穫量は,ジャガイモ,飼料,ライ麦,エンバク,小麦,大麦の順であり(1914),畜産が盛んであった。とりわけ養豚農家の多いことが特徴的であった。
ライン川下流域とドイツ東部を結ぶヘルウェークが,中世以来最も重要な通商・軍用路であったが,19世紀前半にこれを挟む2本の幹線道路が舗装された。1840年代に鉄道建設が開始され,ケルン・ミンデン鉄道(1843),ベルク・マルク鉄道(1844),ミュンスター・ハム鉄道(1846)の諸会社が相次いで設立された。東西線と南北線を基軸にして1913年には総路線距離は3370kmに達し,当時ドイツで最も稠密な鉄道網が形成されていた。内陸水運は,北海に注ぐウェーザー,エムス両川とライン川の支流リッペ,ルール両川を枢軸として,これらを相互に結び,また並行する運河網によって補完される。運河建設は鉄道建設期の後を受けて本格化し,ドルトムント・エムス運河(1899)に次いで,ミッテルラント運河,ライン・ヘルネ運河,ベーゼル・ダッテルン運河,ダッテルン・ハム運河等が建設された。ナチス体制下で,ルール地域とハノーファーを結ぶ高速道路も開通した(1937-38)。
ミュンスターが文化の最大の中心地であり,パーダーボルン(1614)に次いでここに設立された大学(1773-80)は,19世紀ウェストファーレン唯一の総合大学であった。宗派構成は,住民の47.3%がプロテスタント(1910)であり,カトリックの相対的優位の下で両派の勢力はほぼ均衡していた。1870年代のプロイセン政府との〈文化闘争〉は,ウェストファーレンの独自性をカトリック教会の立場から主張するものでもあった。
執筆者:渡辺 尚
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ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の北西部の地方。英語名ウェストファリアWestphalia。中世にザクセン人が占拠した三つの地方ウェストファーレン、オストファーレン、エンゲルンの一つで、775年に初めて記録に現れる。ほぼ現在のウェストファーレン地方に、ニーダーザクセン州の旧オスナブリュック県を加えた範囲である。ウェストファーレンは中世以来、政治的統一を欠いたが、共同体意識は保持され、住民の気質、文化、宗教や、社会的、政治的結合にそれが表れている。たとえばラインラント人が開放的で移り気であるのに対し、ウェストファーレン人は寡黙、鈍重、沈着であるとされている。建築様式にも特色をもっている。現在リッペ地方とともにウェストファーレン・リッペ地方連合を形成し、その長と議会をもち、文化財、方言、慣習などの保存に努め、その中心はミュンスターにある。
[齋藤光格]
中世初期にはオストファーレンとともにザクセン人の居住地で、9世紀以後ザクセン公国の一部を形成して、ライン川以東ウェーザー川に達する地域を含んでいた。1180年ハインリヒ獅子(しし)公の没落後、多くの教会領、世俗領に分裂し、ウェストファーレン公国、ミュンスター、オスナブリュック、パーダーボルン、ミンデンの4司教領、ラーフェンスブルク、マルク、ワルデック諸伯領その他小領邦が並存することになった。このうちウェストファーレン公国はその名称にもかかわらず、ザウアーラントの一部を含むにすぎず、ケルン大司教によって統治された(1802年ヘッセン・ダルムシュタットに併合)。以後ウェストファーレンは政治的統一を欠いたままであり、またその一部は外部勢力の領土となったが、地域的な共同体意識は、政治、文化の面ではぐくまれ維持されたことに注意しておかねばならない。
近代に入って、ティルジット条約(1807)後、ナポレオンは、ウェストファリアの一部とそれに隣接する地域とでウェストファーレン王国(首都カッセル)をつくり、弟のジェロームを王として、ナポレオン法典の施行その他を通じてフランス化を図った。1815年ウィーン会議の決定によってプロイセンがウェストファーレンの大部分を与えられて、そこに一州をつくった。1946年ライン州北部と併合されて、ノルトライン・ウェストファーレン州に編成された。
[中村賢二郎]
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