パルブス

百科事典マイペディア 「パルブス」の意味・わかりやすい解説

パルブス

ロシア出身のドイツ社会民主党理論家。本名Israel Lazarevich Helphand。ロシア帝国ベラルーシのユダヤ人家庭に生まれ,1887年ロシアを出てスイスバーゼル大学に学び,哲学の博士号を受けた。マルクス主義傾倒,シュツットガルトに移り,ドイツ社会民主党のK.カウツキーの援助でジャーナリストの道に入った。1891年からベルリンに住み,ロシアの飢饉に関する記事で名声を得たが,1893年プロイセン警察からベルリンを離れるよう命じられ,ドイツ各地を転々とした。ベルンシュタイン修正主義を厳しく批判し党内左派から注目を集めている。1898年ミュンヘンに落ち着き,レーニンらロシアの亡命革命家たちと交流,1903年のロシア社会民主労働党分裂に際してはボリシェビキメンシェビキ調停につとめたが,自身はレーニンの独裁的なやり方を嫌った。トロツキーとも親しくなり,永久革命論形成に大きな影響を与えた。1905年のロシア革命闘志をかきたてられ,ペテルブルグに赴きペテルブルグ・ソビエトのメンバーになるが,逮捕されシベリアに追放された。脱走してドイツ国境を越え二度とロシアに戻らなかった。1910年にコンスタンティノープルに行き,バルカン諸国を舞台商取引で巨富を築いた。第1次大戦が始まるとドイツ外務省の招きでドイツに戻り,アドバイザーとして政府・軍部と密接な関係をもち,ロシアとドイツのかつての同志たちから絶縁された。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

改訂新版 世界大百科事典 「パルブス」の意味・わかりやすい解説

パルブス
Alexander Parvus
生没年:1867-1923

ロシア出身のドイツ社会民主党理論家。本名はヘルファントIsrael Lazarevich Helphand。ロシア西部のユダヤ人家庭の生れ。スイスのバーゼル大学で経済学を学んだのち,ドイツに移り,社会民主党機関誌《ノイエ・ツァイト(新時代)》に精力的に寄稿した。ベルンシュタインの修正主義に対する理論的批判などにより,党内左派理論家として注目された。ロシア亡命革命家たちとの結びつきの中で,彼らとの理論的交流を深めた。とりわけトロツキーの永久革命論の形成に大きな影響を与えたことが知られている。1905年のロシア革命に参加し,逮捕,流刑,脱走を経験した。10年ころからバルカン諸国を舞台とする商取引で莫大な富をなし,やがて第1次世界大戦期には,ロシアの敗戦が革命を促進するとの考えから,ドイツ政府・軍部と密接な関係をもって政策の進言を行うにいたり,ロシアとドイツのかつての同志たちから絶縁された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パルブス」の意味・わかりやすい解説

パルブス
Parvus, Alexander Gelfand

[生]1867.8.27. キエフ
[没]1924.12.12. ベルリン近郊
ドイツおよびロシアのマルクス主義者。 1890年代にロシア社会民主労働党 (のちの共産党) に加入。 1903年の同党の分裂後はメンシェビキ陣営に連なり,05年にはペテルブルグ労働者代表ソビエトの指導者の一人となり,トロツキーとともに「永続革命」の理論を唱えた。その後逮捕されたが釈放され,ドイツに戻って投機によってかなりの産をなした。ドイツでは社会民主党の右派にくみし,第1次世界大戦では帝政ドイツの戦争遂行を支持した。一方,亡命中のレーニンを有名な「封印列車」に乗せてドイツを通ってロシアに帰国させる計画に重要な役割を果した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のパルブスの言及

【イスラエル[国]】より

…シオニズム運動を政治的に組織化したのはウィーンのジャーナリスト,テオドール・ヘルツルで,彼は1897年,スイスのバーゼルで世界シオニスト機構を結成した。当時パレスティナを含むアラブ東部世界はオスマン・トルコ帝国の支配下にあったが,第1次世界大戦中にイギリスは,ドイツに荷担して敵国となったトルコの勢力をそぐため,一方では1915年にアラブの指導者であったメッカのシャリーフ(太守)フサインにアラブの独立を約束してトルコへの反乱をそそのかし(フサイン=マクマホン書簡),他方17年には戦争への在欧米ユダヤ人の支持を得たいというねらいもあって,パレスティナにユダヤ人の〈民族的郷土〉を樹立することを支持する旨の宣言(バルフォア宣言)を発した。この宣言はユダヤ国家の樹立を目ざすシオニストたちを大いに勢いづけることになったが,半面,イギリスのこうした二枚舌外交が,後にアラブ・イスラエル紛争を激化させる大きな要因となった(パレスティナ問題)。…

【シオニズム】より

…シオニズム運動は,バーゼルでの第1回シオニスト会議(1897)により世界シオニスト機構を設立して組織的統一を果たし,ヘルツルをその指導者としたが,第1次世界大戦以前はユダヤ教徒のなかでも,少数者の夢想とあざけられ,神に対する冒瀆と非難され,あるいは反ユダヤ主義を刺激するものと批判され,少数者の運動でしかなかった。 それが〈パレスティナでのユダヤ人の民族的郷土national home樹立に賛成する〉というイギリス政府のバルフォア宣言(1917)によって,にわかに国際政治における有力な要素となるにいたったについては,東方問題をめぐる帝国主義列強の角逐との関連を見のがすことはできない。同宣言の成立はワイツマンらの努力によるところ大であったとはいえ,イギリスがドイツとの戦争においてその戦略的優位を確保し,またフランスをおさえ,さらにアラブ・ナショナリズムを牽制しようとするための帝国主義戦争遂行上の政策の一環をなすものであった。…

【シリア】より

…ファイサル1世は連合国軍の一翼としてダマスクスに入城し,1920年シリア王位につく。 しかし,シリアの権益を争うイギリス,フランスは,すでに戦時中の1916年に秘密裡にサイクス=ピコ協定を結び,戦後の両国の勢力圏を取り決め(図1),さらにイギリスは,ユダヤ人のシオニズム運動にも希望をもたせ,パレスティナへの入植を許し,バルフォア宣言によってユダヤ人国家建設の糸口を与えていた。両国は20年のサン・レモ会議と21年のカイロ会議において,シリア,イラクの委任統治権を旧連合国に承認させ,フランスは,ファイサル1世をシリアから追放した。…

【第1次世界大戦】より

… 1915年10月2日のブルガリアの同盟国側への参戦,16年8月27日のルーマニアの連合国側への参戦にさいしても,それぞれの側から領土獲得の密約が結ばれた。小アジアの分割へのイタリアの参加を保障した17年4月17日のサン・ジャン・ド・モーリエンヌ協定,さらにアラブ国家の建設を約束した1915年10月24日のマクマホン宣言(フサイン=マクマホン書簡)と,ユダヤ人の国家再建に同意した17年11月2日のバルフォア宣言――,これらの密約が連合国側の重要な秘密外交の成果として注目されるが,日本も秘密外交を展開していた。日本は軍事的には連合国の一員として行動していたが,外交的には複雑な態度をとり,敵国ドイツともひそかに舞台裏で秘密裡に接触を保っていた。…

【ロスチャイルド家】より

…とくにロンドンでは今日でもなお金融界に大きな力を振るっている。 ロスチャイルド家はまたユダヤ教徒の重鎮と目されており,1917年のバルフォア宣言はロンドンの当主ライオネル・ウォルターLionel Walter R.(1868‐1937)にあてられている。〈ユダヤ人による世界支配の陰謀〉という反ユダヤ主義者の宣伝のなかで,ロスチャイルド家はそのような悪の権化とみなされ,1936年ナチス・ドイツのオーストリア占領とともにウィーンのロスチャイルド家は没落を余儀なくされた。…

※「パルブス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android