本名はウリヤーノフ Ульянов/Ul'yanov であるが、一般的に知られているレーニンの名のほか150ほどのペンネームを使ったといわれる。ボリシェビキ党(ソ連共産党)の創設者で、ロシア十月革命を指導、世界で初めての社会主義国家(ソビエト連邦)を樹立した。マルクス主義を帝国主義・独占資本主義の出現や社会主義の建設といった新しい歴史的条件のもとで創造的に発展させた理論的功績も大きく、マルクスやエンゲルスに次ぐ評価を与えられているが、彼の定式化した諸命題が今日の発達した資本主義諸国にも妥当するのかどうか等をめぐって再検討の動きもある。
[池田光義]
1870年4月22日、シンビルスク(レーニンの本名にちなんで、1924~1991年はウリヤノフスクとよばれた)で、父イリヤー・ニコラーエビチIlya Nikolaevich Ul'yanov(1831―1886)と母マーリア・アレクサンドローブナMaria Alexandrovna Ul'yanova(1835―1916)の間に6人兄弟の3番目の子として生まれた。父親は中学校校長、国民学校視学官などを務めた進歩的な教育者で、レーニンは厳格ながらも自由主義的な雰囲気の支配する家庭環境のもとで、幅広い教養を身につけることができ、学業も非常に優秀であったといわれる。17歳のとき、ナロードニキ思想に傾倒した兄アレクサンドルAleksandr Ilyich Ul'yanov(1866―1887)が皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に参加した罪で処刑され、これがレーニンの社会観に大きな影響を与えた。1887年にカザン大学法学部に入学、学生運動に加わるが逮捕されて退学処分となり、コクシキノ村(カザン県)に追放された。ここで兄アレクサンドルの愛読書でもあったチェルヌィシェフスキーの『なにをなすべきか』を熟読、ナロードニキ主義克服のための本格的格闘が始まった。翌1888年カザンに戻り、マルクス主義的サークルに参加、マルクスの『資本論』にも初めて触れた。1891年にペテルブルグ大学で抜群の成績で国家検定試験に合格、翌1892年サマラで弁護士補として活動したのち、1893年ふたたびペテルブルグへ向かった。ここでのちに妻となるクループスカヤと知り合い、また自由主義的ナロードニキ批判を目的として『人民の友とは何か』(1894)を執筆、出版した。1895年にはヨーロッパ各地を訪れ、スイスでは労働解放団を代表するプレハーノフと接触した。帰国後、ペテルブルグに労働者階級解放闘争同盟を結成するが12月に逮捕、投獄され、1897年にはシベリアに追放される。そこで同じく流刑されたクループスカヤと結婚し、1899年にはロシアにおける資本主義の発展の可能性と必然性を論じた『ロシアにおける資本主義の発達』を書き終えた。1900年1月、流刑は終わり、7月には西ヨーロッパに亡命し、12月に経済主義者や合法マルクス主義者に対抗して戦闘的マルクス主義政党を組織するための新聞『イスクラ』を創刊した。このころ、同じ目的で『なにをなすべきか?』(1902)、『貧農に訴える』(1903)を刊行した。1903年にロシア民主社会党第2回大会に参加したが、レーニン派(ボリシェビキ=多数派)は組織原則をめぐってマルトフ派(メンシェビキ=少数派)と対立、敗北した。
1905年には第一次ロシア革命を経験、『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を出版して労農同盟を中心思想としたボリシェビキの戦術を提起した。革命が失敗に終わったのち、ふたたび亡命(1907)を余儀なくされるが、『唯物論と経験批判論』(1909)で反動期に広がった日和見(ひよりみ)主義の観念論を批判したり、『ズベズダ』(1910)、『プロスベシチェーニエ』(1911)、『プラウダ』(1912)等の雑誌、新聞を創刊した。1912年初頭にはプラハの党会議でメンシェビキを除名し、ボリシェビキによる党再建に成功した。1914年に第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)、レーニンもスパイ容疑で逮捕されたが釈放されてスイスに移った。『戦争とロシア社会民主党』(1914)を発表して、戦争の帝国主義的性格を分析し、第二インターナショナルの諸党が戦争支持・自国政府擁護の立場に転換したのを批判、「帝国主義戦争の内乱への転化」「自国政府の敗北」というスローガンを提起した。1915年から1916年にかけて反戦派(国際派)社会主義者の国際会議を組織する一方、帝国主義の研究にも着手、『資本主義の最高段階としての帝国主義』(1916)に結実させた。
1917年に二月革命勃発の知らせを受け、3月末に封印列車でフィンランドを経由してロシアに潜入、4月4日『現在の革命におけるプロレタリアートの任務』(いわゆる『四月テーゼ』)を発表し、「全権力をソビエトへ」のスローガンのもとに社会主義への移行の方針を提起した。7月、臨時政府の弾圧を逃れてフィンランドに潜伏、『国家と革命』(1917)を執筆した。その後、機関車に隠れてふたたびロシアに潜入し、十月革命を成功させ、人民委員会議長に選出された。1918年3月、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結び、『ソビエト権力の当面の任務』で社会主義建設の方針を示すが、反革命内乱や列強の軍事干渉が起こったので戦時共産主義体制に着手した。また、1919年3月にコミンテルン(第三インターナショナル)の結成に成功、内乱と軍事干渉が弱まった1920年から1921年にかけて新経済政策へと移行させ、経済再建に努力した。1922年から脳軟化症による発作を数回経験したのち、1924年1月21日、モスクワ郊外(ゴールキ村)で息を引き取った。遺体はモスクワ赤の広場の廟(びょう)に安置されている。
[池田光義]
レーニンの体格はむしろ小柄で、スラブ系の素朴な風貌(ふうぼう)をもち、生活態度も非常に素朴であったといわれる。だが流刑・亡命を含む波瀾(はらん)に富んだ52年の人生を通じて、終始精力的に理論的・実践的活動に打ち込み、言行ともに鋭いものがあり、多くの点でレーニンと対立したトロツキーもレーニン個人には高い評価を与えていた。芸術・文化に対しても幅広い関心と理解をもち、ゴーリキーに示した寛容な態度は有名である。
[池田光義]
マルクス主義をロシアという後進国に適用しただけでなく、それを帝国主義、社会主義革命の時代という新しい歴史的条件のもとで創造的に発展させたという理論的評価が与えられているが、レーニンの学説が高度に発達した西欧資本主義諸国や現代の新しい諸条件にどれだけ有効であるかは、マルクス主義勢力の内部でも再検討が行われている。おもな理論的業績として、帝国主義を「資本主義の最高かつ最後の段階」「社会主義革命の前夜」として総合的に分析したこと、資本主義の不均等発展の理論によって世界再分割を目ざす列強による帝国主義戦争の不可避性、帝国主義諸国のなかでもっとも弱い環における社会主義革命の可能性を基礎づけたこと、抑圧されている諸民族の解放闘争を世界革命の一環として位置づけたこと、社会主義革命、社会主義建設における労働者階級と農民層の同盟の問題を提起したこと、労働者などの一般大衆に幅広く根を下ろし、民主集中制を組織原則とする新しい型の労働者党の必要性を説いたこと、などがあげられる。
[池田光義]
レーニンの名が一般に日本で知られるようになったのはロシア革命以降のことである。それ以前には、日露戦争(1904~1905)前後に当時諜報活動に従事していた明石元二郎(あかしもとじろう)大佐がロシアの過激派の一人としてレーニンに注目していたのが知られている。1917年(大正6)堺利彦(さかいとしひこ)によって『新社会』に発表された「ロシア革命におけるロシア社会民主党の任務について」が日本で訳されたレーニンの最初の著作であった。
[池田光義]
『マルクス=レーニン主義研究所編・訳『レーニン全集』全45巻(1953~1969・大月書店)』▽『クループスカヤ著、内海周平訳『レーニンの思い出』上下(青木文庫/新装版・1990・青木書店)』▽『クリストファー・ヒル著、岡稔訳『レーニンとロシヤ革命』(岩波新書)』▽『ヴァルテル著、橘西路訳『レーニン伝』(角川文庫)』
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ロシア革命の指導者,ソ連社会主義の創設者。本姓ウリヤーノフUl'yanov。父イリヤはカルムイク人の血をひく底辺の出身ながら,カザン大学を卒業し,教育官僚として昇進,世襲貴族になった人であった。レーニンは中学校卒業の年の1887年に兄アレクサンドルが皇帝暗殺未遂事件の主犯として処刑されたことで強い衝撃を受け,その年秋カザン大学に入学したものの,学生運動に加わって退学になった。謹慎中,チェルヌイシェフスキーの小説《何をなすべきか》を読んで,自分も革命家の道を歩むことを決意し,マルクス主義の本を読み始めた。独学でペテルブルグ大学の卒業検定試験に合格し,92年サマーラで弁護士補として働くようになった。ここでもマルクス主義青年のサークルに入っており,翌年首都に出て,そこのマルクス主義者の仲間入りをした。ナロードニキ批判のパンフレット《人民の友とは何か》(1894)で頭角をあらわし,ペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟の前身に属した。しかし,95年に逮捕され,97年東シベリアへ流刑された。この地で追ってきた同志のクループスカヤと結婚した。その流刑中の仕事が《ロシアにおける資本主義の発達》である。
刑期が終わると,国外へ出て,プレハーノフらと新聞《イスクラ》を創刊した。1902年に書いた《何をなすべきか》は革命論におけるレーニンの個性を示した作品となった。03年,ロシア社会民主労働党第2回大会で,レーニンは組織論をめぐって,マルトフと激突し,自派をボリシェビキとして糾合した。1905年の革命の中で,〈プロレタリアートと農民の革命独裁〉を目標としてかかげたが,自党が権力をとる考えはなかった。〈十月詔書〉公布後,ロシアへ帰国して,07年ふたたび亡命をよぎなくされた。反動期には支持者を失い苦境に立ったが,12年にいたってプラハ協議会を開き,社会民主労働党再建という形で,初めて自分の党を創出した。
第1次大戦の勃発に不意を打たれた彼は,直観的にロシアの敗戦は〈最小の悪〉という方針を出して対処したが,戦争の根源,各国社会民主党が祖国防衛主義をとった根源をつかむべく,帝国主義の研究に没頭した。この研究が《資本主義の最高の段階としての帝国主義》(帝国主義論)に結実した。戦争を支持した社会主義者とはいっさい協力しないとして,来るべき革命では自党が権力をめざすとの考えを抱くにいたった。また戦時体制経済の動きの中に社会主義に進む前提をみていた。1917年の二月革命がおこったときはスイスにいて,ドイツの〈封印列車〉で4月初め帰国した。ソビエトの多数派となり,権力をめざすという〈四月テーゼ〉を出し,全党をその方向に立たせることに成功した。ペトログラードの労働者・兵士の武装デモに対する政府の弾圧が行われた七月事件後,レーニンは地下にもぐり,潜伏中に《国家と革命》(1917)を書いている。
十月革命の前夜には,すみやかなる行動を党に促し,ついに臨時政府を倒し,第2回ソビエト大会で人民委員会議議長に就任した。このとき47歳であった。権力掌握後は,権力基盤の拡大や憲法制定会議の解散,ブレスト・リトフスク条約や食糧調達などの問題で党内に厳しい意見対立がおこったが,レーニンはつねに自らの立場を押し通すことに成功した。心を弱らせたら,パリ・コミューンの敗北をくりかえすことになると考えていたようである。唯一の同盟者左派エス・エル党とも分裂し,軍事的に対決したあとで,本格的に内戦,外国の干渉戦が始まった。18年8月30日,エス・エル党の女テロリストに撃たれたため,赤色テロルが宣言された。レーニンはトロツキーの能力を十分に発揮させるなど指導力を発揮して内戦に勝ちぬいた。20年の農民反乱,21年のクロンシタットの反乱を契機としてネップ(新経済政策)への転換をはかった。
22年10月,ソ連邦の形成についての決定に自らの考えを盛り込んだが,この直後に第2の脳梗塞の発作をおこした。その病中で,民族問題における大ロシア排外主義の現れをきびしく戒め,スターリンを党書記長のポストから解任することを求める〈遺言〉を起草した。スターリンに謝罪か絶縁かの選択を迫る手紙を口授したあと,第3の発作をおこし,廃人としての生活を10ヵ月送ったのちに死んだ。遺骸は本人の夢想もしなかった永久保存措置をほどこされ,赤い広場の廟に今なお安置・公開されている。
→レーニン主義
執筆者:和田 春樹
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1870~1924
ロシア革命とソ連社会主義の指導者。ヴォルガ川のほとりの町で生まれ,兄はナロードニキで処刑された。1893年上京,社会民主主義者のサークルに参加した。シベリア流刑期間も含め,90年代にはロシアにおける資本主義発展の必然性の論証に努力を払った。1900年に国外に出て,新聞『イスクラ』を創刊し,ロシア社会民主労働党によるイデオロギー的指導の重要性を強調した『何をなすべきか』を著した。第2回党大会でマルトフ派と対立し,ボリシェヴィキ派をなした。1905年革命のなかで,労農民主独裁論を提唱した。12年プラハ協議会でボリシェヴィキ党を確立した。第一次世界大戦中には,戦争を内乱に転化せよと主張して,『帝国主義論』を著し,ドイツの戦時統制経済のなかに社会主義の可能性を見出した。二月革命後帰国して,十月革命へ党を指導した。ソヴィエト政権の首班となり,憲法制定会議を解散させた。ドイツとのみ講和を結べただけで,内戦,対ソ干渉戦争に立ち向かうことになり,世界革命を進めるコミンテルンを創設した。内戦終了後21年には新経済政策(ネップ)への転換を進め,22年にはソ連の成立を推進した。協同組合を通じて農民を社会主義にすすめるという構想を残し,最後にスターリンを批判して死んだ。遺体は永久保存された。
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… このように,エリート理論はマルクス主義の経済一元論に対して,政治独自のダイナミックスを提示した。マルクス主義者のレーニンがまた熱烈なエリート主義者でもあったという事実はエリート理論の重要性を裏書きしているといえる。また,エリート理論は自由民主主義の素朴な平等性の仮定に対して,政治的影響力の不平等な配分を指摘した。…
…
[マルクス主義の革命理論]
上述の意味での革命こそが近代および現代の革命理論および革命に関する理論の主題を構成するが,この主題は,革命の定義を前提として,革命はなぜおこるかというその発生論ないし原因論,革命の政治過程の分析,革命の経済的・政治的・社会的帰結ないし意義の評価などに分節化されうる。そしてこれらのすべてにわたって,相対的にもっとも首尾一貫した説明を準備すると同時に,少なくとも現代の革命に対してもっとも大きな実践的インパクトを与えているのは,マルクス主義,なかんずくマルクスとレーニンの革命理論である。そこで,それを中心として上述の諸問題について概観しよう。…
…一国ないし世界の政治的・社会的構造の根本的転換をもくろみ,そのために献身する指導者および闘士と定義できようが,その社会的属性(青年,知識人層が多いなど),イデオロギー,要求される資質などは,近代以降に限定しても時空の条件によって異なる。19世紀以降に限ってみるとマルクス主義的共産主義運動の出現とその第二インターナショナルにおけるヘゲモニーの確立,ついでレーニンによって率いられたロシア革命の成功と1919年のコミンテルンの設立が二つの画期をなす。マルクス主義的共産主義以前(たとえばバブーフの陰謀)ないしそれ以降のブランキ主義,およびプルードン主義,バクーニン主義などの無政府主義的諸潮流において,革命は非合法の秘密結社などに結集する少数の職業革命家たちの扇動あるいは陰謀による蜂起によって突然ひき起こされる既成秩序の暴力的転覆としてイメージされ,革命家もまたこのようなイメージに照応的にとらえられていた。…
…また分業に対する奴隷的な服従,精神労働と肉体労働の区別がなくなり,労働は生活の手段ではなくて生活の要求となり,生産力の増大とともに個々人の全面的な発展が可能とされた。レーニンは後に,このマルクスのいう第1段階を社会主義と呼び,第2段階を共産主義と呼んだ。 レーニンは,第1次大戦の勃発とともに第二インターナショナルが思想的に破産したと判断し,マルクス主義の共産主義的部分を復活させることを意図して《国家と革命》(1917)を書いた。…
…ソ連の教育学者,ピオネール運動の組織者。レーニンの妻で,ロシア革命前から共産党員として活躍。ペテルブルグで生まれ,女学校を卒業後,労働者の日曜学校で教育活動に従事し,1890年代の初めから革命運動に参加した。…
…レーニンの代表作で,広く読まれたマルクス主義の古典。第1次世界大戦中にとりはじめた国家論ノートに基づいて,十月革命前夜の1917年8~9月潜行先で書き上げた。…
…
【歴史】
[創設]
労働運動,労働者政党の国際的組織化をめざす試みはすでに1840年代のヨーロッパにみられたが,その後労働運動の発展と社会主義政党の成長とともに,第一インターナショナル(1864‐76),第二インターナショナル(1889‐1914)が誕生した(インターナショナル)。第二インターナショナルの最左翼を占め,その改良主義的傾向を激しく批判していたレーニンに指導されるロシア社会民主労働党(共産党)は,ロシア革命を成功させると,ただちに新しい国際的革命組織の結成にのりだした。ボリシェビキは第1次世界大戦に伴う各国の政治・経済体制の動揺に革命の絶好の条件を見いだしただけでなく,後進国ロシアの革命は,先進工業国の革命なしには生きのびることはできないと確信していたからであった。…
…1917年のロシア二月革命後,4月16日に帰国したボリシェビキの指導者レーニンが,翌17日の集会で発表した革命の戦略・戦術を述べたテーゼ。後に《現在の革命におけるプロレタリアートの任務について》と題して機関紙《プラウダ》に発表された。…
…が,後継者たちにおいては,弁証法的唯物論(唯物弁証法)という全般的世界観ないし第一哲学ともいうべきものがまずあって,これを自然界に適用することによって自然弁証法が成立し,人間界(社会・歴史の領域)に適用することによって史的唯物論が成立する,とするのが主潮である。この部門観と史的唯物論の位置づけに関しては,マルクス主義を党是とするに至ったドイツ社会民主党の理論的指導者カウツキーも,彼を背教者と断じたレーニンも共通しており,第二インター・マルクス主義と第三インター(コミンテルン)・マルクス主義とに共通する〈公式的〉見解である,と言うことができる。しかしながら,一歩たちいって内容を規定する段になると,論者に応じてかなりの差異がある。…
…《共産党宣言》で,マルクスは〈労働者は祖国をもたない〉と書いたが,労働者階級もまた守るべき祖国をもっていることが明らかになった。
[コミンテルンと戦間期の社会党]
ロシア社会民主労働党の革命的左派ボリシェビキの指導者レーニンは,第1次大戦の勃発の直後に第二インターナショナルは破産したと判断し,1917年の十月革命によって政権を奪取すると,党名を共産党と改め,コミンテルン(第三インターナショナル)の結成を提唱した。コミンテルンは,各国社会民主党は労働者階級を裏切り,むしろ資本主義を維持する重要な支柱になっていると攻撃した。…
… 19世紀西欧の労働運動では,労働組合や大衆とは区別され,それを指導する独自の政党という前衛の考え方はあまりなかった。前衛の理念を提出したのは20世紀の革命家レーニンであり,彼は《何をなすべきか》(1902)などの著作において,階級や労働大衆から区別された少数の職業革命家からなる党組織という前衛党論を展開した。彼はロシアの労働者の意識が自然発生的であり,また,官憲の弾圧が厳しい状況のもとで革命運動を行う必要から,この考えを主張した。…
…新しいのは,戦争の主体が階級であり,その目的が革命であり,戦争を正当化する唯一の大義名分が自由という革命的主張だということにあった。ここにおいて戦争を国家間の権力闘争の形態とみたクラウゼウィツ的戦争哲学(国家間戦争)は,パルチザン戦争を国内の階級闘争の不可欠の闘争形態とみたレーニンの戦争哲学(内戦)の重要性にとってかわられる。その延長上で〈政治は血を流さない戦争であり,戦争は血を流す政治である〉として,戦争と政治とを一体化し,革命戦争という新しい戦争哲学を理論的かつ実践的に示したのが毛沢東にほかならない。…
…このように政治が軍事的戦略・戦術に優先する傾向とあいまって,他面では,政治集団が戦略・戦術論によって自己の目的と手段を弁証する傾向も生じた。特に階級闘争により社会の変化を基礎づけるマルクス主義は,戦略・戦術論的思考となじみやすかったが,なかでもレーニンは,帝国主義段階におけるプロレタリア革命を導くための歴史段階と同盟を規定した綱領と,それに基礎づけられた広義の戦術を定めた。コミンテルンにおいて,特にスターリンは,これを革命の戦略・戦術論として定式化した。…
…ロシア映画は,舞台劇の実写や,フランス映画やドイツ映画の影響を受けてトルストイ,ドストエフスキー,プーシキン,ツルゲーネフなどの小説をもとにした〈文芸もの〉が主流であった。このようにソ連が帝政ロシアから受け継いだ映画的遺産はきわめて貧弱であったが,革命の初期から映画がもっとも重要な芸術であると認めていたレーニンは,19年8月,映画産業のすべてを国有化する布告に署名し,内戦の初めから〈フロニカ(記録映画,ニュース映画)〉あるいは〈アギトカ(扇動映画)〉とよばれる軍事的,政治的な啓蒙短編映画(のちに開拓されて長編記録映画となり,イギリスのドキュメンタリー映画の母胎ともなった)がつくられ始めた。また,19年10月には世界最初の国立映画学校がモスクワで開校された。…
…このほか,国土の中央西寄りに南北に走るウラル山脈が孤立する。とくに隆起エネルギーの大きいのは天山からパミールにかけてであり,ソ連の最高点である天山のコムニズム峰(7495m),これに次ぐ高峰ポベーダ(勝利)峰(7439m),レーニン峰(7134m)もこの近辺にある。なおカムチャツカ半島とその付近,中央アジア南部の山岳地方,ザカフカス地方などは地震が多い地方である。…
…1991年8月クーデタの後,書記長ゴルバチョフが解散を勧告,書記長を辞任して,事実上解体した。
【組織】
党はマルクス・レーニン主義的な社会主義・共産主義の理念にのっとっていた。党の基本目標や任務を定めた文書を〈綱領〉と呼び,1961年採択の〈綱領〉では,ソ連の現状を共産主義社会への前進の段階にあると規定した。…
…第3に,さらにこの要因を特定して,国内の社会経済構造が対外的な支配の拡張と関連していると考える論者は,国内体制の構造的な特質を帝国主義と規定する。レーニンが後述のように〈資本主義の最高段階〉(独占資本主義状態)として帝国主義を規定したのは,その代表例である。 また,この言葉は日常の政治生活で敵を非難するために用いられたり,多様な使われ方をするために混乱をもたらす場合も多いが,社会科学の用法では,帝国主義は戦争,植民地支配,経済的従属などの国際的な対立や支配がどのような権力の特質によって生じているかを発見し,研究の焦点を定める際の嚮導(きようどう)概念として有用である。…
…【河野 照哉】
[経済社会の発展と電力]
電力は制御性,利便性,清潔性などの点で他のエネルギーに比べてとくに優れた特性を有しているため,歴史の発展とともにエネルギー全体のなかでの比重を着実に高めている。 ロシア革命の指導者であったV.I.レーニンは革命後の1920年にゴエルロ計画(国家電化計画)を作成したが,その際,〈共産主義とはソビエト権力に全国的電化を加えたものである〉と述べた。この言葉は国家体制の違いを超えて,電力が一国の経済社会の発展に最も重要な役割を果たすエネルギーであることを的確に予見したものとして広く知られている。…
…またF.ノイマンは〈実力による全政治権力の掌握〉という独裁の政治的実態に即して,軍,警察,官僚,司法等の伝統的支配手段を少数者が集中的に掌握する〈単純独裁〉,個人の大衆に対するカリスマ的声望を背景として成立する〈カエサル的独裁〉,マス・メディアや経済統制を通じて市民の私生活にまで入りこむ〈全体主義的独裁〉を区分する。独裁の社会経済的基盤に注目したG.ハルガルテンは,〈一個人の力ずくの支配であって,支配者の称する天命に立脚し,法律と伝統を共に拒否し,社会危機ないし革命によって行動に駆り立てられた広範な大衆に支持されているもの〉と独裁を定義して,古今東西の独裁を比較検討することにより,(1)貨幣経済の最盛期に伝統君主や貴族の支配に対し新興支配層が勃興してくることから生じる〈古典独裁〉(古代ギリシアの僭主政,古代ローマのカエサル,イギリス革命のクロムウェル,フランスのナポレオン,20世紀ラテン・アメリカ諸国の独裁など),(2)大衆の蜂起を背景とし革命家の委員会が強圧的支配をおこなう〈超革命独裁〉(フランス革命のジャコバンとロベスピエール,ロシア革命におけるボリシェビキとレーニンなど),(3)古典独裁へ対抗して伝統的支配層が組織する〈反革命独裁〉(古代ローマのスラ,20世紀スペインのフランコなど),(4)超革命独裁の脅威のもとで伝統にひきずられた中産階級の大衆運動により組織される〈擬似革命独裁〉(イタリア・ファシズム,ドイツ・ナチズムなど)を類型化した。ここでは,社会構造変化にともなう旧来の支配体制の危機が,独裁成立の要件として着目されている。…
…トルストイのこの現実否定の強さは彼のその後の生涯を通じて多くの人々に衝撃を与えつづけていく。 1880年代の終りに,チェルヌイシェフスキーの小説を読んで革命家の道に入ることを決断したレーニンは,1902年自らの革命思想の結実を世に問い,《何をなすべきか》と題した。これは革命家にとって,意識性,自己認識,自己反省,理論が大事であり,職業的に献身する者たちの集権的秘密結社が必要であることを主張した本である。…
…V.I.レーニンが1915年8月23日号の《ソツィアル・デモクラート》の中で,ドイツ,オーストリア,ロシアの君主制を打倒し共和制的な〈ヨーロッパ合衆国〉を創設すべきであるとのスローガンを批判し,プロレタリア階級を主体にした政治運動を展開しおのおのの社会主義革命を目指すべきであると主張した際の論拠に用いられたのが,〈不均等発展の法則〉である。これは,16年の《帝国主義論》の第7章でも,具体的に述べられている。…
…19世紀末の資本主義の変容という現実を前に,E.ベルンシュタインが,中間階級(中間層)のブルジョアジーとプロレタリアートへの両極分解論,プロレタリアート絶対的窮乏化論として理解されたマルクスの階級理論を批判し,いわゆる〈修正主義論争〉を引き起こしたのもその一例である。 理論を現実に近づけようとするベルンシュタインとは逆に,V.I.レーニンは現実のプロレタリアートのもつ〈自然発生性〉と,革命運動の主体としてのプロレタリアートのもつべき〈目的意識性〉の乖離(かいり)を問題とし,〈革命党〉の指導によるこの乖離の解消を説いた。1917年のロシア革命は,歴史上初めてプロレタリアートが権力を奪取し社会主義への道を開いたものとされるが,レーニンが期待したヨーロッパにおける革命は実現せず,第1次世界大戦後のヨーロッパ資本主義社会の再編は,むしろプロレタリアートの資本主義社会への統合の方向へ進んだ。…
…マルクス主義の古典は先進諸国で同時に発生する〈世界革命〉を予想していたが,1917年にはロシア一国で革命が発生した。レーニンは20年2月にはアメリカ人記者に向かって,自国の政策は〈あらゆる民族の労働者農民との平和共存〉であると語り,21年から西欧との経済・政治関係の修復を進めはじめた。25年12月の第14回党大会でスターリンは,〈ソ連と資本主義諸国との間のいわゆる平和共存の長い時期〉が到来したと述べ,初めて〈平和共存〉に積極的な意味づけを与えた。…
…換言すれば,イギリスやアメリカの金融資本との相違は極端に軽視される傾向にあった。 そこで,ついでV.I.レーニンは《帝国主義論》(1917)を著し,ヒルファディングの金融資本ないし金融寡頭制の規定を前提としながらも,イギリス,ドイツ,アメリカ,フランス等の金融資本の違いをも総括しつつ,世界資本主義は新しい発展段階,すなわち帝国主義段階に到達した,と規定した。そしてこの段階の最大の特徴は,国の内外における資本独占である,と結論した。…
…しかしその影響力はたんなるブルジョア社会批判の枠をこえて,19世紀の最後の四半世紀から現代にいたるまで世界の革命運動のなかで主導的役割を果たしてきた。ときにはレーニンの思想(レーニン主義)と機械的に結びつけて,〈マルクス=レーニン主義〉といわれることもあるが,ここでは固有のマルクス主義に限定して述べることとする。 マルクス主義は西ヨーロッパの近代ブルジョア社会を母体とし,そこから内発的に展開した思想であり,レーニンの著名な規定に従えば三つの源泉をもっている。…
…
[二つの民主主義]
20世紀における民主主義のもう一つの問題は,ロシアのボリシェビキ革命(1917)をきっかけとして,相互におよそ異質な二つの民主主義概念が生まれてきたことである。この革命の指導者レーニンは,革命前夜に書いた《国家と革命》(1917)の中で,とくにドイツ社会民主党を念頭におきながら,普通選挙権要求を〈小ブルジョア的民主主義〉〈日和見主義〉として非難し,ボリシェビキ革命とその後にくるべき国家こそ〈もっとも完全な民主主義〉であると宣言した。レーニンは,この完全な民主主義も,それが国家であるかぎりいずれは〈死滅〉するであろうと予言したが,その後の歴史で実現したのは国家の死滅ではなくて,ソビエト社会主義における共産党一党支配の永続化であった。…
… 両大戦間期には,社会主義革命を指向する運動と民族資本の主導する民族主義との関係をめぐる理論領域が複雑にからみあっていた。第2回コミンテルン大会におけるM.N.ローイ(1887‐1954)とレーニンとの対立,トロツキーとスターリンとの対立がこの問題把握の難しさを示している。レーニン,スターリンは民族資本の運動を支援することによって,社会主義的勢力の成熟を期待した。…
…ロシア革命の経験とレーニンの思想理論を核とするマルクス主義の潮流。ボリシェビズム,共産主義,マルクス=レーニン主義ともいう。…
…ストルイピン改革の柱であった土地改革も農村構造を改革しえず,かえって共同体に立てこもる農民とそこから出た富農との新たな対立を生んだ。労働立法は遅れ,労働者は再び戦闘性を表し,12年プラハ協議会で独自党を結成したレーニン派のボリシェビキをみずからの指導者に選んだ。 注目すべきは,第1次革命の頂点で専制を助ける側にまわった資本家の中から,地主貴族を押しのけて国家の主人公になろうという政治志向が現れたことである。…
…91年の大飢饉や翌年のウッチのゼネストの影響下に数十のマルクス主義サークルが生まれた。その最有力グループがレーニン,マルトフらのペテルブルグ労働者階級解放闘争同盟である。レーニンらは逮捕・流刑になるが,各地にこれを模倣した〈闘争同盟〉がつくられた。…
※「レーニン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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