レーニン(読み)れーにん(英語表記)Николай Ленин/Nikolay Lenin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「レーニン」の意味・わかりやすい解説

レーニン
れーにん
Николай Ленин/Nikolay Lenin
(1870―1924)

本名はウリヤーノフ Ульянов/Ul'yanov であるが、一般的に知られているレーニンの名のほか150ほどのペンネームを使ったといわれる。ボリシェビキ党(ソ連共産党)の創設者で、ロシア十月革命を指導、世界で初めての社会主義国家(ソビエト連邦)を樹立した。マルクス主義帝国主義・独占資本主義の出現や社会主義の建設といった新しい歴史的条件のもとで創造的に発展させた理論的功績も大きく、マルクスやエンゲルスに次ぐ評価を与えられているが、彼の定式化した諸命題が今日の発達した資本主義諸国にも妥当するのかどうか等をめぐって再検討の動きもある。

[池田光義]

生涯

1870年4月22日、シンビルスク(レーニンの本名にちなんで、1924~1991年はウリヤノフスクとよばれた)で、父イリヤー・ニコラーエビチIlya Nikolaevich Ul'yanov(1831―1886)と母マーリア・アレクサンドローブナMaria Alexandrovna Ul'yanova(1835―1916)の間に6人兄弟の3番目の子として生まれた。父親は中学校校長、国民学校視学官などを務めた進歩的な教育者で、レーニンは厳格ながらも自由主義的な雰囲気の支配する家庭環境のもとで、幅広い教養を身につけることができ、学業も非常に優秀であったといわれる。17歳のとき、ナロードニキ思想に傾倒した兄アレクサンドルAleksandr Ilyich Ul'yanov(1866―1887)が皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に参加した罪で処刑され、これがレーニンの社会観に大きな影響を与えた。1887年にカザン大学法学部に入学、学生運動に加わるが逮捕されて退学処分となり、コクシキノ村(カザン県)に追放された。ここで兄アレクサンドルの愛読書でもあったチェルヌィシェフスキーの『なにをなすべきか』を熟読、ナロードニキ主義克服のための本格的格闘が始まった。翌1888年カザンに戻り、マルクス主義的サークルに参加、マルクスの『資本論』にも初めて触れた。1891年にペテルブルグ大学で抜群の成績で国家検定試験に合格、翌1892年サマラで弁護士補として活動したのち、1893年ふたたびペテルブルグへ向かった。ここでのちに妻となるクループスカヤと知り合い、また自由主義的ナロードニキ批判を目的として『人民の友とは何か』(1894)を執筆、出版した。1895年にはヨーロッパ各地を訪れ、スイスでは労働解放団を代表するプレハーノフと接触した。帰国後、ペテルブルグに労働者階級解放闘争同盟を結成するが12月に逮捕、投獄され、1897年にはシベリアに追放される。そこで同じく流刑されたクループスカヤと結婚し、1899年にはロシアにおける資本主義の発展の可能性と必然性を論じた『ロシアにおける資本主義の発達』を書き終えた。1900年1月、流刑は終わり、7月には西ヨーロッパに亡命し、12月に経済主義者や合法マルクス主義者に対抗して戦闘的マルクス主義政党を組織するための新聞『イスクラ』を創刊した。このころ、同じ目的で『なにをなすべきか?』(1902)、『貧農に訴える』(1903)を刊行した。1903年にロシア民主社会党第2回大会に参加したが、レーニン派(ボリシェビキ=多数派)は組織原則をめぐってマルトフ派(メンシェビキ=少数派)と対立、敗北した。

 1905年には第一次ロシア革命を経験、『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を出版して労農同盟を中心思想としたボリシェビキの戦術を提起した。革命が失敗に終わったのち、ふたたび亡命(1907)を余儀なくされるが、『唯物論と経験批判論』(1909)で反動期に広がった日和見(ひよりみ)主義の観念論を批判したり、『ズベズダ』(1910)、『プロスベシチェーニエ』(1911)、『プラウダ』(1912)等の雑誌、新聞を創刊した。1912年初頭にはプラハの党会議でメンシェビキを除名し、ボリシェビキによる党再建に成功した。1914年に第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)、レーニンもスパイ容疑で逮捕されたが釈放されてスイスに移った。『戦争とロシア社会民主党』(1914)を発表して、戦争の帝国主義的性格を分析し、第二インターナショナルの諸党が戦争支持・自国政府擁護の立場に転換したのを批判、「帝国主義戦争の内乱への転化」「自国政府の敗北」というスローガンを提起した。1915年から1916年にかけて反戦派(国際派)社会主義者の国際会議を組織する一方、帝国主義の研究にも着手、『資本主義の最高段階としての帝国主義』(1916)に結実させた。

 1917年に二月革命勃発の知らせを受け、3月末に封印列車フィンランドを経由してロシアに潜入、4月4日『現在の革命におけるプロレタリアートの任務』(いわゆる『四月テーゼ』)を発表し、「全権力をソビエトへ」のスローガンのもとに社会主義への移行の方針を提起した。7月、臨時政府の弾圧を逃れてフィンランドに潜伏、『国家と革命』(1917)を執筆した。その後、機関車に隠れてふたたびロシアに潜入し、十月革命を成功させ、人民委員会議長に選出された。1918年3月、ドイツとブレスト・リトフスク条約を結び、『ソビエト権力の当面の任務』で社会主義建設の方針を示すが、反革命内乱や列強の軍事干渉が起こったので戦時共産主義体制に着手した。また、1919年3月にコミンテルン(第三インターナショナル)の結成に成功、内乱と軍事干渉が弱まった1920年から1921年にかけて新経済政策へと移行させ、経済再建に努力した。1922年から脳軟化症による発作を数回経験したのち、1924年1月21日、モスクワ郊外(ゴールキ村)で息を引き取った。遺体はモスクワ赤の広場の廟(びょう)に安置されている。

[池田光義]

人となり

レーニンの体格はむしろ小柄で、スラブ系の素朴な風貌(ふうぼう)をもち、生活態度も非常に素朴であったといわれる。だが流刑・亡命を含む波瀾(はらん)に富んだ52年の人生を通じて、終始精力的に理論的・実践的活動に打ち込み、言行ともに鋭いものがあり、多くの点でレーニンと対立したトロツキーもレーニン個人には高い評価を与えていた。芸術・文化に対しても幅広い関心と理解をもち、ゴーリキーに示した寛容な態度は有名である。

[池田光義]

思想的特徴

マルクス主義をロシアという後進国に適用しただけでなく、それを帝国主義、社会主義革命の時代という新しい歴史的条件のもとで創造的に発展させたという理論的評価が与えられているが、レーニンの学説が高度に発達した西欧資本主義諸国や現代の新しい諸条件にどれだけ有効であるかは、マルクス主義勢力の内部でも再検討が行われている。おもな理論的業績として、帝国主義を「資本主義の最高かつ最後の段階」「社会主義革命の前夜」として総合的に分析したこと、資本主義の不均等発展の理論によって世界再分割を目ざす列強による帝国主義戦争の不可避性、帝国主義諸国のなかでもっとも弱い環における社会主義革命の可能性を基礎づけたこと、抑圧されている諸民族の解放闘争を世界革命の一環として位置づけたこと、社会主義革命、社会主義建設における労働者階級と農民層の同盟の問題を提起したこと、労働者などの一般大衆に幅広く根を下ろし、民主集中制を組織原則とする新しい型の労働者党の必要性を説いたこと、などがあげられる。

[池田光義]

日本への紹介

レーニンの名が一般に日本で知られるようになったのはロシア革命以降のことである。それ以前には、日露戦争(1904~1905)前後に当時諜報活動に従事していた明石元二郎(あかしもとじろう)大佐がロシアの過激派の一人としてレーニンに注目していたのが知られている。1917年(大正6)堺利彦(さかいとしひこ)によって『新社会』に発表された「ロシア革命におけるロシア社会民主党の任務について」が日本で訳されたレーニンの最初の著作であった。

[池田光義]

『マルクス=レーニン主義研究所編・訳『レーニン全集』全45巻(1953~1969・大月書店)』『クループスカヤ著、内海周平訳『レーニンの思い出』上下(青木文庫/新装版・1990・青木書店)』『クリストファー・ヒル著、岡稔訳『レーニンとロシヤ革命』(岩波新書)』『ヴァルテル著、橘西路訳『レーニン伝』(角川文庫)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レーニン」の意味・わかりやすい解説

レーニン
Lenin, Vladimir Il'ich

[生]1870.4.22. シンビルスク
[没]1924.1.21. ゴルキ
ロシアの革命家。本名 Vladimir Il'ich Ul'yanov。国民学校視学官の子として出生。1887年カザン大学法学部在学中に革命運動に加わり放校。その後マルクス主義の勉学に没頭,1891年ペテルブルグ大学法科卒業検定試験に抜群の成績で合格。翌年一時弁護士となり,1893年ペテルブルグに出てマルクス主義グループに加わり,『「人民の友」とは何か』(1894)を書き,ナロードニキや合法マルクス主義者を批判。1895年ジュネーブへ赴き G.V.プレハーノフの「労働解放団」と連絡,帰国後逮捕され,3年間シベリアへ流刑。その間に『ロシアにおける資本主義の発達』Razvitie kapitalizma v Rossii(1899)を執筆。1900年亡命,ミュンヘン,ロンドン,ジュネーブ,パリ,チューリヒなどでロシア人社会主義者の組織化に活躍。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会でボルシェビキ(多数派)を指導した。『なにをなすべきか』Chto delat'?(1901~02),『一歩前進,二歩後退』Shag vpered,dva shaga nazad(1904),『唯物論と経験批判論』Materializm i empiriokrititsizm(1909),『帝国主義論』Imperializm,kak vysshaya stadiya kapitalizma(1916)など多数の著作を発表し,その革命理論を完成させていった。1917年の二月革命の報に接しドイツ軍部と交渉して「封印列車」でスイスから帰国,「四月テーゼ」によりソビエト共和国樹立の目標を提示。七月事件後一時フィンランドへ亡命し,『国家と革命』Gosudarstvo i revolyutsiya(1917)を執筆。L.G.コルニーロフ反乱の失敗後,革命的情勢の強まったペトログラード(→サンクトペテルブルグ)へひそかに戻り,1917年11月7日の武装蜂起を指導,成功させた(→十月革命ロシア革命)。ソビエト政権の人民委員会議議長(首相)に就任,平和の布告,土地に関する布告などの新政策を展開。1918年のドイツとのブレスト=リトフスク条約締結,1919年のコミンテルンの創設などを指導した。その間にも『プロレタリア革命と背教者カウツキー』Proletarskaya revolyutsiya i renegat Kautskii(1918),『共産主義の左翼小児病』Detskaya bolezn' "levizny" v kommunizme(1920)などにより革命の戦略戦術を指示。1921年には国際革命の退潮と国民の疲弊に応じてネップ(新経済政策)への転換を指導し,新国家建設の舵取りを行なおうとしたが,1922年に脳溢血で倒れ,闘病生活ののち 1924年に没した。(→マルクス=レーニン主義レーニン主義

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報