修正主義は,マルクス主義の中で異端とされたものを指す蔑称として用いられる。異端と呼ぶ以上,正統の存在が前提されているはずであるが,正統性の基準は不変ではなく,その変化に伴って異端とされる対象も変わってくる。したがって,修正主義の概念規定はあくまでも相対的なものでしかありえない。しばしば修正主義と同様の意味で用いられる〈改良主義〉についても,事情は同じである。
最初に修正主義の烙印(らくいん)を押されたのは,19世紀末にマルクス主義に対して理論的批判を企てたドイツ社会民主党のベルンシュタインの主張であった。彼の《社会主義の諸前提と社会民主主義の任務》(1899)における問題提起,すなわち労働価値説および恐慌論への批判,窮乏化説および中間階級の両極分解説の否定,労働組合運動と議会主義による経済的・政治的民主主義推進の提唱は,当時のマルクス主義正統派の理論的・政策論的基盤であった資本主義の自動的崩壊論に対する批判を意味していたからである。こうした批判が生じるに至った背景には,世紀転換期における資本主義の新たな展開の下で露呈してきた大衆社会化状況と,労働組合の発展などに象徴される労働者階級の状態の変貌とを挙げることができよう。ベルンシュタインの主張に起因する〈修正主義論争〉は,1903年の社会民主党ドレスデン大会における修正主義断罪の決議で一応の終結をみる。しかし,K.カウツキーに代表される当時の正統派は,その後レーニンという新たな正統によって断罪され,さらに最近ではスターリン批判以後のソ連共産党が中国から〈現代修正主義〉として批判された時期もあった。日本で修正主義という言葉が流布されるようになったのは,1905年のロシア革命の影響を背景にした幸徳秋水らの直接行動派と田添鉄二らの議会政策派の論争にみられる社会主義者の分裂が発生したころであったとされる。
執筆者:亀嶋 庸一
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マルクス主義的労働運動の内部にあって、ブルジョア思想の影響を受けてマルクス主義に敵対する日和見(ひよりみ)主義的潮流をさす。その特徴は、マルクス主義の創造的発展や教条主義との闘いを口実に、マルクス主義の基本原則を根本的・体系的に修正し、その革命的内容を奪い、ブルジョア理論で置き換えようとする点にある。歴史的には、19世紀の90年代から20世紀初頭にかけてドイツ社会民主党の指導者の一人であるベルンシュタインによって体系づけられた理論的・政治的運動に対してこの用語が初めて用いられた。労働運動におけるマルクス主義の影響の拡大と、資本主義の自由競争段階から独占資本主義段階への移行による階級闘争の変化が、この潮流が当時出現した背景にあり、その社会的条件は、小ブルジョア階層の労働者階級への大量流入、労働貴族・労働官僚の発生などである。ベルンシュタインは哲学的には弁証法的唯物論・史的唯物論の立場を放棄し、新カント主義や歴史の漸進的「進化」を主張、経済学的には独占資本の形成が資本と労働の敵対関係を変化させたとして、剰余価値論、資本蓄積論、貧困化論などに修正を加え、政治的には階級闘争、国家の階級性、プロレタリア独裁の観点を排撃し、ブルジョア民主主義的改良による社会主義への漸進的変容を唱えた。「社会主義の最終目標は無であり、運動がすべてである」という彼のことばは、労働運動をその最終目標(共産主義社会の達成)から切り離し、目前の利益の追求に限定しようとする修正主義の本質を端的に示している。
現在では、修正主義の用語は、正統派マルクス主義(あるいは正統派マルクス主義を自称する陣営)の立場からみて、マルクス主義を修正しようとするあらゆる理論的・政治的運動や集団に対するレッテルとして用いられている。たとえば、かつてのソ連共産党の見解は多くの共産党によりフルシチョフ修正主義として非難されたが、近年のソ連共産党はユーロコミュニズムの動きに事実上修正主義の評価を与える傾向にあった。
[池田光義]
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1890年代後半から20世紀初頭にかけて,ドイツ社会民主党指導者の一人ベルンシュタインが新カント学派に近い立場からマルクスの革命理論を批判,それが党内改良主義者の党路線修正の要求と結びついたため,カウツキーらの主流派から修正主義と呼ばれた。のち,正統派からみて右派のマルクス主義が,しばしば修正主義として批判されるようになった。
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…ここにマルクスの窮乏化説ないし窮乏化法則といわれる論旨が端的に示されている。
[窮乏化説をめぐる論争]
マルクスの窮乏化説をめぐり,19世紀末のドイツ社会民主党の内部で,修正主義論争の一環として重大な論争がされた。その代表的理論家E.ベルンシュタインによれば,現実の資本主義の発展は,より少数の資本家と多数の労働者とへの両極分解とそれによる労働者の窮乏化をうながして社会主義革命を必然化する方向にない。…
…他方で党内左派のローザ・ルクセンブルクらは,ゼネラル・ストライキによる権力奪取という革命的変革の展望を抱いていた。 ベルンシュタインの修正主義と,カウツキーに代表される党主流との闘争は,1903年の党大会決議によって形式的には修正主義の敗北に終わったが,現実に修正主義は党の体質に浸透しており,第1次大戦が勃発すると党指導者は政府を支持し,党の革命的言辞が空文句であったことをおのずから露呈した。
[第二インターナショナル]
第一インターナショナルが1876年に解体されたことは,国際的な社会主義が一つの中心部から指導することはもはや不可能になったことを示していた。…
…こののち王国が復活し(ただし国王はいない),ホルティを摂政とする権威主義的反動体制が成立し,強烈な反ボリシェビズムが広がった。また20年のトリアノン条約で多数のハンガリー人居住地を周辺諸国に割譲したため,戦間期には国境の修正を目ざす熱狂的なナショナリズム(〈修正主義〉と呼ばれた)が国を支配した。ホルティ自身は伝統的保守主義者で,20年代には同じ立場のベトレンBethlen István(1874‐1947)が首相を務めたが,世界恐慌後の30年代にはゲンベシュを代表とする右翼急進主義が成長し,全体主義体制の樹立を目ざすとともに,ナチス・ドイツに接近した。…
…しかしマルクス主義はとりわけエンゲルスの諸著作のなかでときとして通俗化されながらもしだいに影響を広げ,パリ・コミューン以後は労働運動のなかにも大きな支持層を獲得するようになった。やがてドイツ社会民主党の理論史のなかではエンゲルスが党の権威として君臨するようになったが,19世紀末になるとベルンシュタインが《社会主義の諸前提と社会民主主義の任務》(1899)を著し,いわゆる修正主義の考えを展開した。ベルンシュタインは旧来のマルクス主義を批判し,それはヘーゲル弁証法にとらわれたユートピア思想であり,それでは現在の〈帝国主義段階〉を説明できないとしたのである。…
※「修正主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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