第二インターナショナル時代を代表するドイツ社会民主主義の理論的指導者。10月16日プラハに生まれる。ウィーン大学で歴史を学び、在学中にオーストリア社会民主党に入党。初めはダーウィン主義の影響が強かったが、1879年ごろベルンシュタインと知り合い、その影響を受けて熱心なマルクス主義者となり、1881年にはロンドンにマルクス、エンゲルスを訪ねた。1883年、のちにドイツ社会民主党の理論機関誌となる『ノイエ・ツァイト』Neue Zeitを創刊、その編集にあたり、1885年には弾圧を避けてロンドンに移り、エンゲルスの愛顧を受けつつ同誌の編集を続けた。社会主義者鎮圧法廃止後の1891年のドイツ社会民主党エルフルト大会では「エルフルト綱領」の起草者となり、理論的指導者としての地位を確立した。1890年代なかば以降党内に台頭したベルンシュタインなどの修正主義に対して、彼は『農業問題』(1899)、『ベルンシュタインと社会民主主義の綱領』(1899)などの著作で反論し、正統派を代表する理論家としての権威を高めた。しかし1910年代に入ると、彼の理論的権威はローザ・ルクセンブルクなどの左派からの挑戦を受けるようになる。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)時には祖国防衛主義に傾いて政府を支持したが、やがて反戦に立場を変えたため、党の国会議員団から除名され、1917年には社会民主党を離れてH・ハーゼなどとともに独立社会民主党を創立した。彼の筆はレーニンの指導するロシア革命に対してもう一度燃え上がり、ボリシェビズムを反マルクス主義として激しく非難したが、そのためかつては彼を理論的権威として遇していたレーニンから「背教者」として痛烈に論難されるに至った。独立社会民主党も左右に分裂し、彼は1922年に社会民主党に復帰したが、もはや往年の声望はなかった。晩年はウィーンで著作を続けたが、1938年ナチスに追われてプラハへ、ついでアムステルダムに亡命、同年10月17日同地で客死した。
著作は、『資本論解説』(1887)、『近代社会主義の先駆者たち』(1895)、『倫理と唯物史観』(1906)、『キリスト教の起源』(1908)、『権力への道』(1909)というように、きわめて多方面にわたっている。その博学多才と旺盛(おうせい)な文筆活動でマルクス主義思想の普及に果たした役割は大きい。またエンゲルスの死後、マルクスの遺稿の整理・編集の仕事を引き継ぎ、『経済学批判序説』『剰余価値学説史』『資本論・民衆版』を編集・刊行した功績も逸することはできない。
[山崎春成]
『玉野井芳郎著『カール・カウツキー』(『経済学説全集8 マルクス経済学の発展』所収・1956・河出書房)』▽『G・スティーンソン著、時永淑・河野裕康訳『カール・カウツキー』(1990・法政大学出版局・叢書ウニベルシタス)』
マルクス主義理論家,文筆家。プラハに生まれ,ウィーン大学に学ぶ。1875年,オーストリア社会民主党に入党。83年,ドイツ社会民主党系の理論誌《ノイエ・ツァイトDie Neue Zeit》を創刊,1917年まで編集に当たった。1890年ドイツに移り,エルフルト綱領の作成に関与,その《解説》(1892),《農業問題》(1899)を執筆,同党および第二インターナショナルの指導的存在となる。修正主義論争ではマルクス主義〈正統派〉の立場からベルンシュタインを批判,1910年には《権力への道》を書いたが,そのころ大衆ストライキをめぐってローザ・ルクセンブルクら左派と袂を分かって〈中央派〉を形成した。17年,独立社会民主党の創立に参加,18年,ドイツ革命に際しては外相補佐として第1次大戦勃発に関する外交文書の編纂を手がけ,社会化委員会議長を務める一方,《プロレタリア独裁》を発表してボリシェビズムを批判した。22年,社会民主党に復帰,25年,ウィーンに戻って《唯物論的歴史観》(1927)などを書いた。38年,アムステルダムに亡命,客死。
執筆者:西川 正雄
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1854~1938
ドイツの社会主義理論家,政治家。ウィーン大学で学び,1875年オーストリア社会民主党に参加。80年代にマルクス主義理論家として頭角を現し,ドイツ社会民主党の理論機関誌『ノイエ・ツァイト』を創刊(83年),エルフルト綱領の作成に尽力し,中央派の論客として活躍した。独立社会民主党の結成に参加したが,ボリシェヴィキには反対して,1920年社会民主党に復帰。晩年ウィーンで活動。ナチスに追われ,アムステルダムで客死。『農業問題』『キリスト教の起源』など著書多数。
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…いっそう深刻だったのは,革命を志向し帝国主義を批判する左派と,改良に重点を置き植民地領有・移民制限に原則的反対を唱えない右派との対立である。カウツキーに代表される〈中央派〉が組織統一の理論を提供したが,14年8月,第1次世界大戦の勃発に際して,第二インターナショナルは実際に国際的な反戦行動を取ることができなかった。その月ウィーンで開催されるはずだった第10回大会は実現せずに終わり,組織は弱体化した。…
…こうした修正主義の主張の背景をなしていたのは,マルクスが依拠していた19世紀中ごろまでのイギリス資本主義と異なり,19世紀末以降のドイツに,当初から高度な技術を導入しつつ金融資本が急速に形成され,そのもとで農村には多数の農民が存続し,都市には新中間層が生み出されるといった,帝国主義段階の資本主義の発展の様相であった。一方,マルクス主義正統派を代表してK.カウツキーは,マルクスの窮乏化説が労働者階級の窮乏化傾向とともに組織的階級闘争の発展による反対方向への傾向をも含んでいたこと,しかも労働者階級の窮乏の増大は生理的窮乏にかぎらず,社会的欲望の不充足たる社会的窮乏の増大を意味しうることを強調し,マルクス主義を擁護した。この論争以来,窮乏化説の継承がマルクス主義正統派の義務・信条とされてきた感さえある。…
… その後,トゥガン・バラノフスキーやR.ヒルファディングは,固定資本の建設をめぐる需要と供給の変動やその建設に動員される貸付資本の過不足の変動をも考慮に入れながら,基本的には不均衡説的商品過剰論を主張する。これに対し,K.カウツキーやN.ブハーリンは,マルクスの再生産表式の均衡条件が資本主義では不可避的な労働者大衆の消費制限によって破壊されざるをえないことを主張し,過少消費説的商品過剰論を説く。剰余価値の実現のためにかならず非資本主義的外囲が必要とされるとみたR.ルクセンブルクの資本蓄積論も,この系譜につらなる。…
… すなわち,マルクスが1883年に,ついでその緊密な協力者F.エンゲルスが95年に亡くなると,その有力な後継者の一人とみられていたE.ベルンシュタインが,マルクスの学説,とりわけ資本家と労働者とへの社会の両極分解と労働者の〈窮乏化〉の理論(窮乏化説)は,19世紀末以降の資本主義の新たな発展にそぐわなくなっていると主張し,ドイツ社会民主党にマルクス主義から改良主義への修正を要求した。これに対しK.カウツキーは,当時の正統派を代表して反論を加え,たとえば大量に残存している農民層も事実上プロレタリア化していることなどをあげ,マルクスの学説の妥当性を擁護しようとした。しかしこの論争では,資本主義の新たな発展の様相を《資本論》によってどのように解明するかは未解決であった。…
…マルクスの手で仕上げられたのはその第1巻(第2版まで)だけで,第2巻(1885),第3巻(1894)は,残された未整理の草稿を,友人のF.エンゲルスが編纂(へんさん)したものである。なお第4巻として予定されていた〈理論の歴史〉の草稿は,エンゲルスの死後,K.カウツキーに託されて編纂され,《剰余価値学説史》全3巻(1905‐10)として刊行された。マルクスは研究と執筆を進めるうちに何度もプランを練り直し,また何回も草稿を書き直している。…
… ドイツ社会民主党の指導者は,革命的マルクス主義の言葉を語ってはいたが,現実には議会活動に専念していた。党の理論的指導者カウツキーは,経済関係の発展によって社会主義が必然的に到来するという経済決定論を唱えた。またベルンシュタインは,イギリスのフェビアン社会主義の影響を受け,他の進歩的政党と協力して議会立法を通じて社会を社会主義の方向に改革する路線を提唱した。…
…05年から始まった中央集権的な組織の整備とともに,12年には397の選挙区のすべてに党組織が存在するに至り,12年の帝国議会選挙では,得票率34.8%,議席397中110を獲得して第一党となった。中央機関紙の《フォアウェルツVorwärts(前進)》(1914年の予約購読者数16万)をはじめ,各地に機関紙があり(1913年には90の日刊紙),理論機関誌《ノイエ・ツァイトDie Neue Zeit(新時代)》(1883年創刊,1917年までカウツキーの編集)は1911年に発行部数1万を超えた。また,1890年に実質的に発足した〈自由労働組合Freie Gewerkschaften〉は,社会民主党と密接な関係を保ちつつ,中央集権的・産業別組織に成長し,1913年には250万人を擁するまでになった。…
…
[マルクス主義]
マルクス=エンゲルスの思想を継承した自称他称の〈マルクス主義者〉たちにおける弁証法観や弁証法の処遇はかなり多様である。マルクス主義を社会主義思想の主流に押し上げたドイツ社会民主党の理論的指導者E.ベルンシュタインやK.カウツキーは,弁証法を一種の〈進化論〉と受けとり,マルクス=エンゲルスの弁証法にみられるそれ以上の諸契機は〈悪しきヘーゲル弁証法の残渣(ざんさ)〉として排除しようとした。ロシア・マルクス主義は弁証法を客観的存在界の一般的法則性として受けとるむきが強く,スターリンは〈否定の否定〉を弁証法の根本法則から除外した。…
…彼は,現実の資本主義の発展動向は,マルクスのいうような資本家と労働者の対立激化の方向にではなく,株式会社形態の発達による財産の分散化,中小経営の存続,そして恐慌の相対的緩和の方向に進んでいる,したがって,《資本論》の理論は基本的な点で〈修正〉されるべきである,と主張した。 これに対して,K.カウツキーは,信用制度や経済恐慌の変化は資本主義の発展にとって二義的なものであり,少数の大資本による集中と増大する賃金労働者の窮乏化とは現実に進行中であること,この意味で,マルクス理論の核心は今なお一般的に貫かれつつあることを主張し,ベルンシュタインに反論した。 両者の議論は,ともに《資本論》第1巻における,特徴的であるがイデオロギー的なマルクスの主張を過大に評価し,その理論の修正ないし貫徹のいずれか一方のみを強引に迫るものであった。…
※「カウツキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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