カウツキー(読み)かうつきー(英語表記)Karl Johann Kautsky

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カウツキー」の意味・わかりやすい解説

カウツキー
かうつきー
Karl Johann Kautsky
(1854―1938)

第二インターナショナル時代を代表するドイツ社会民主主義の理論的指導者。10月16日プラハに生まれる。ウィーン大学で歴史を学び、在学中にオーストリア社会民主党入党。初めはダーウィン主義の影響が強かったが、1879年ごろベルンシュタインと知り合い、その影響を受けて熱心なマルクス主義者となり、1881年にはロンドンマルクスエンゲルスを訪ねた。1883年、のちにドイツ社会民主党の理論機関誌となる『ノイエ・ツァイト』Neue Zeitを創刊、その編集にあたり、1885年には弾圧を避けてロンドンに移り、エンゲルスの愛顧を受けつつ同誌の編集を続けた。社会主義者鎮圧法廃止後の1891年のドイツ社会民主党エルフルト大会では「エルフルト綱領」の起草者となり、理論的指導者としての地位を確立した。1890年代なかば以降党内に台頭したベルンシュタインなどの修正主義に対して、彼は『農業問題』(1899)、『ベルンシュタインと社会民主主義の綱領』(1899)などの著作で反論し、正統派を代表する理論家としての権威を高めた。しかし1910年代に入ると、彼の理論的権威はローザ・ルクセンブルクなどの左派からの挑戦を受けるようになる。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)時には祖国防衛主義に傾いて政府を支持したが、やがて反戦に立場を変えたため、党の国会議員団から除名され、1917年には社会民主党を離れてH・ハーゼなどとともに独立社会民主党を創立した。彼の筆はレーニンの指導するロシア革命に対してもう一度燃え上がり、ボリシェビズムを反マルクス主義として激しく非難したが、そのためかつては彼を理論的権威として遇していたレーニンから「背教者」として痛烈に論難されるに至った。独立社会民主党も左右に分裂し、彼は1922年に社会民主党に復帰したが、もはや往年声望はなかった。晩年はウィーンで著作を続けたが、1938年ナチスに追われてプラハへ、ついでアムステルダム亡命、同年10月17日同地で客死した。

 著作は、『資本論解説』(1887)、『近代社会主義の先駆者たち』(1895)、『倫理と唯物史観』(1906)、『キリスト教の起源』(1908)、『権力への道』(1909)というように、きわめて多方面にわたっている。その博学多才と旺盛(おうせい)な文筆活動でマルクス主義思想の普及に果たした役割は大きい。またエンゲルスの死後、マルクスの遺稿の整理・編集の仕事を引き継ぎ、『経済学批判序説』『剰余価値学説史』『資本論・民衆版』を編集・刊行した功績も逸することはできない。

[山崎春成]

『玉野井芳郎著『カール・カウツキー』(『経済学説全集8 マルクス経済学の発展』所収・1956・河出書房)』『G・スティーンソン著、時永淑・河野裕康訳『カール・カウツキー』(1990・法政大学出版局・叢書ウニベルシタス)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カウツキー」の意味・わかりやすい解説

カウツキー
Kautsky, Karl Johann

[生]1854.10.16. プラハ
[没]1938.10.17. アムステルダム
ドイツの社会主義者。ドイツ社会民主党の代表的理論家,第2インターナショナルの理論的指導者。 1874年ウィーン大学に入学,オーストリア社会民主党に入党。 79年頃ベルンシュタインと知合い,さらにマルクス,エンゲルスとも知合う。 83年ドイツ社会民主党の理論誌『新時代』を発刊,91年にはエルフルト綱領を起草,ドイツ社会民主党の理論的指導者の地位を確立し,ベルンシュタインらとの「修正主義論争」では「正統派」マルクス主義の代表的論客として活躍。第1次世界大戦勃発時はドイツの参戦を是認するも,のちに戦争反対に転じ 1917年独立社会民主党創立に参加する。また同年ロシア革命に際してはレーニンらを批判した。 22年に社会民主党に復帰する。マルクスの『資本論』『剰余価値学説史』の編集者として,またマルクス主義の古典の監修,刊行に尽力したことでも知られる。

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