イギリスの建築家。マンチェスターに生まれる。1961年、マンチェスター大学卒業。都市計画および建築を専攻する。その後、アメリカのエール大学建築学科修士課程に留学。在米時には、アメリカの東西両海岸で都市開発事業のコンサルタントを行う。63年に帰国し、同年リチャード・ロジャーズらとともにチーム4を設立。67年、フォスター・アソシエーツを設立。フォスターの作品は、大胆な構造の採用とそれらの明快な可視化によって特徴づけられるものが多い。そのため、80年代までは、リチャード・ロジャーズやレンゾ・ピアノといった建築家と同一のカテゴリーに入れられて、ポスト・モダニズムの一系列をなす「ハイテク・デザイン」と称されることが多かった。視覚的にはフォスターの作品は、ハイテクノロジーを駆使したメカニカルな表情をもつように見えるからである。しかし、彼の作品群は、そうした表層的な「ハイテク・デザイン」というよりも、さまざまなシステムが統合された建築が目指されている。
フォスターの初期の代表作としては、イングランド東部のノリッジに建つセインズベリー・センター(1978)がある。大学の付属施設であるこのセンターは、立体トラス(三角錐のスチールの構造物を、同方向につなぎ合わせたもの)によって構成されたダブル・スキンの構造体が全体の空間を規定しており、そのダブル・スキンの内部において設備や構造、採光といった機能的要求等が統合的に処理されている。また、中期の代表作であるイギリス・ルノー社配送センター(1983、ウィルトシャー県)では、鉄骨による単一の構造体をそれぞれマストによって吊り下げ、それらを連結することによって軽快で大胆なテンション構造(引張力によって全体の荷重を支える構造体)を実現させている。83年、RIBA(英国王立建築家協会)より、ゴールド・メダルを授与される。その後、フォスターの名を一躍世界に知らしめることになる建築が実現する。香港上海銀行本社(1985)である。20世紀後半においてもっとも話題になったこの建築は、高さ180メートル、地上47階建ての超高層ビルであり、79年の指名設計競技において入選し、具体化したものである。フォスターはここで吊り橋の基本的な考えを応用し、超高層の全体を5段に分節したうえで上部に吊り上げる、という工法を採っている。10層吹き抜けの開放的なアトリウム(中庭)とサスペンションによる大胆な構造、そしてガラスによる透明度の高い外観により、この建築は世界中の注目を集めることになった。フォスターはここで、繰り返し提唱してきた「インテグレイティッド・デザイン」という手法を徹底的に駆使している。彼のいう「インテグレイティッド・デザイン」とは、相反する方向をもつことの多い社会やテクノロジー、美しさ、経済、法律といった異なる次元の要求を一体化するために、建築にかかわる異なる専門分野の人々が協同し、情報を共有しつつプロジェクトを遂行していくことである。そのため、彼の事務所には構造、設備、電気、照明、等々の異なった専門分野のエンジニアが多数おり、建築家は彼らとともにアイデアの妥当性を検証し、実験を繰り返してプロジェクトを進めていくのである。
90年前後からフォスターは、日本においても多くの作品をつくるようになる。その代表としては、東京湾を対象地とした、高さ840メートル、全170階からなる架空のプロジェクトである「ミレニアム・タワー」(1989)、巨大なアトリウムと2層ごとの吊り構造による東京のセンチュリー・タワー(1991)などがある。90年、ナイトの称号を受ける。94年、AIA(アメリカ建築家協会)ゴールド・メダル、2002年(平成14)世界文化賞受賞。90年代の代表作であるドイツのコメルツ銀行本社(1997、フランクフルト)では、高さ298メートルという超高層のビルの中心にアトリウムを配し、さらに周辺部分に4層分の広大なスカイガーデンを立体的に複数配置している。それによって新鮮な空気と自然光、および緑を、超高層ビルのなかへと三次元的に組み込み、サステイナブル・デザイン(持続可能なデザイン)の先がけをなす環境配慮型の建築を実現させている。
[南 泰裕]
アメリカの作詞・作曲家。7月4日、ペンシルベニア州ローレンスビルの実業家の家に生まれる。少年時代から音楽・演劇に才能を示し、14歳で作曲した『ティオガ・ワルツ』が処女作といわれている。1841年に大学に入るが1週間で中退し、音楽教師ヘンリー・クーパーの指導でベートーベンの音楽を研究、やがて歌曲をつくり始める。44年『窓をおあけ、恋人よ』を出版するが、このころ友人と合唱団をつくり、多くの歌曲をここに提供する。48年『おおスザンナ』が100ドルで売れたことに自信をもち、歌曲作家となる。以後『草競馬』『故郷の人々』『バンジョーをかき鳴らせ』『主人は冷たい土の下に』『ケンタッキーのわが家』『金髪のジェニー』『オールド・ブラック・ジョー』などの作品が、エドウィン・P・クリスティの一座をはじめその他のミンストレル・ショーで歌われて流行、全アメリカにその名を知られる人気作曲家になった。しかしその後、南北戦争(1861~65)の影響で彼の作品はあまり歌われないようになり、また家庭生活の破綻(はたん)もあって不調に陥り、1人でニューヨークに旅立つが、飲酒が原因の外傷から64年1月13日、貧困のうちに没した。死の2か月後、遺作『夢みる人(ビューティフル・ドリーマー)』が出版された。出版された作品は188曲、いずれも豊かな詩情、素朴な美しさのある旋律に、深い愛情と人間性が表出されている。そこにはヨーロッパ的感覚とともに、南部黒人の生活や民謡の影響もみられ、アメリカ民謡の父ともよばれている。
[青木 啓]
アメリカの共産党指導者。マサチューセッツ州タウントン生まれ。4年間しか初等教育を受けられず、新聞配達、印刷工、製材工などの職業を転々とする。19歳のとき社会主義の洗礼を受け、1900年社会党、1909年世界産業労働者連盟(IWW)に参加。1912年北アメリカ・サンジカリスト連盟、1915年国際労働組合教育連盟などを設立。1919年アメリカ史上最大といわれた鉄鋼ストを指導し、1921年共産党の創立に参加。中央委員会議長として1924年、1928年、1932年の共産党大統領候補。その後路線上の問題をめぐって党書記長のアール・ブラウダーと対立。1945年ブラウダーにより混乱した党を再建し、全国委員長となる。1947年反逆罪で起訴されたが、1953年保釈。1955年共産党名誉委員長。
[河内信幸]
『塩田庄兵衛他訳『世界労働組合運動史』上下(1957・大月書店)』▽『インタナショナル研究会訳『三つのインタナショナルの歴史』(1967・大月書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカの作曲家。独学で音楽を学び,1844年に歌曲を出版して以来,多くの作品を発表した。ミンストレル・ショーのために作曲した《おおスザンナ》《草競馬》《故郷の人々》《ケンタッキーのわが家》などは大ヒットした。一方,彼はサロンで歌うためのセンチメンタルな歌曲も書き,《金髪のジェニー》などを残している。平易で親しみ深い旋律によって,アメリカのみならず各国で愛唱されている。
執筆者:小場瀬 純子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…鉄鋼の町として有名なヤングズタウンの北西約20kmに位置し,石炭と鉄の町として知られる。かつては駅馬車の駅であり,スティーブン・フォスターが《金髪のジェニー》を作ったのは,この町の宿屋であったといわれる。また《ケンタッキーのわが家》もこの地で構想されたという。…
…ミンストレル・ショーに現れた黒人像は,白人大衆の恣意的想像力が生んだ現実離れしたものだが,他方,このジャンルはミュージカルの先行形態の一つとして重要である。とくにS.C.フォスターの《ケンタッキーのわが家》《オールド・ブラック・ジョー》をはじめ,ミンストレル・ショーから広まったポピュラー・ソングは多い。19世紀中葉にはいくつもの一座によって演じられたが,世紀末に至ってしだいに衰えた。…
※「フォスター」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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