ロジャーズ(読み)ろじゃーず(英語表記)Richard Rodgers

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロジャーズ」の意味・わかりやすい解説

ロジャーズ(Richard Rogers、建築家)
ろじゃーず
Richard Rogers
(1933―2021)

イタリア生まれのイギリスの建築家。フィレンツェに生まれる。4歳のときにイギリスに移住し、ロンドンのAAスクール(Architectural Association School)で建築を学ぶ。後にアメリカのエール大学に移り、ピーター・シェマイエフPeter Chermayeff(1936― )のもとで都市におけるハウジング計画論を研究。その後ロンドンに戻り、独立。初期のころには伝統的な素材を利用した住宅等を設計する。1963年、ノーマン・フォスターらとともにチーム4を設立。フォスターとの協同作としてリライアンス・コントロール工場(1967、イギリス、ウィルトシャー県)がある。この作品は鉄骨ブレース構造(鉄骨のフレームを、斜めの部材によって補強した構造)の平屋建てで、軽量壁パネルの使用によって空間の可変性や軽量性、フレキシビリティなどが追求された。こうした方法論の試行を、ロジャーズウィンブルドンの自邸(1969)において行っている。このころから、イギリスのケンブリッジ大学やAAスクール、アメリカのエール大学、コーネル大学、プリンストン大学など、多くの学校で教鞭(きょうべん)をとるようになる。

 1970年にはレンゾ・ピアノと共同でパリのポンピドー・センターのコンペティションに参加し、一等入選。1977年にこれを完成させる。パリの伝統的な街並みに建つポンピドー・センターは、設備の配管や構造、チューブ上のエスカレーター等がむき出しのままで外部に露出し、それらが赤や青や緑の原色で着色されて巨大な工場のような外観を呈している。6層からなるポンピドー・センターは、構造や設備を外部へと持ち出すことで、内部空間を完全なフリースペースとしており、機能の変化に対応する可変的な平面を実現させている。この過剰なメカニカル・デザインは、その後のポスト・モダニズムの流れに大きな影響を与えることになった。

 ロジャーズは、自らはほとんど図面やスケッチを描かず、人間をオーガナイズすることによって都市・建築のプロジェクトを遂行していく組織型の建築家である。ロジャーズの建築的な理念は標準化された部材の選択と組合せによって、軽量で可変的な建築をつくるシステムそのものを社会の要請に同調させること、すなわち、科学技術とデザインというプロセスをつき合わせようとするものであり、その点でチャールズ・イームズの方法論にも通じる。

 1977年、リチャード・ロジャーズ・パートナーシップを設立。このころの作品としては、インモス・マイクロ・プロセッサー工場(1982、イギリス、ウェールズ南東部ニューポート)、PAテクノロジー・プリンストン社屋・研究所(1986、アメリカ、ニュー・ジャージー州)などがある。これらはいずれも、鉄骨による橋梁(きょうりょう)のような吊(つ)り構造の建築で、支柱からトラス梁(ばり)(三角形状に梁をつなぎ合わせた構造体)を吊り、それによってフレキシブルな無柱空間をつくりだしている。さらに上部には設備の配管を露出させ、ポンピドー・センターの手法を踏襲したデザインとなっている。

 ロジャーズの、こうした表現の頂点となる作品が、ロイズ・オブ・ロンドン(1986)である。ロジャーズは1980年代におけるポスト・モダニズムの潮流において、ハイテク・デザインの代表と目された建築家であったが、そうしたデザインのシンボルをなしたのがこのロイズ・オブ・ロンドンだった。ロンドン市街地に建つこの高層ビルにおいても、むき出しになった外部階段や設備の配管がメタリックな仕上げによって荒々しく表現され、それらがユニット化されて幾層も積み上げられている。また、クレーンやボルトを思わせるメカニカルな形態がデザイン要素として各所に引用され、構造と設備と外皮が意図的に分解されて、機械としての建築を過剰に表象している。

 1986年には、ロンドンのロイヤル・アカデミーでの「ありうべきロンドン」London As It Could Be展に出品し、ロンドンの市街地を大規模に改変する再開発計画案を発表。1990年代に入り、EUにおけるサステイナブル・デザイン(持続可能なデザイン)の隆盛を背景に、地球環境を視野に入れた都市・建築のデザインを追求するようになる。その後、都市機能を1か所へと集約させることによって環境への負荷を低減させようとするコンパクト・シティ論を積極的に展開し、著作や講演を通した、一般市民向けの啓蒙(けいもう)活動も積極的に行った。また、そうしたコンパクト・シティ論の具体化として、上海マスタープラン(1997)のプロジェクト等を発表した。

[南 泰裕]

『リチャード・ロジャース、フィリップ・グムチジャン著、手塚貴晴他訳『都市――この小さな惑星の』(2002・鹿島出版会)』


ロジャーズ(Kenny Rogers)
ろじゃーず
Kenny Rogers
(1938―2020)

アメリカのカントリー歌手。生年は1937年説もある。テキサス州ヒューストン生まれ。少年のころ教会の合唱団で歌う。高校時代にロカビリー・バンドのスカラーズを結成して初録音。1958年に単独で録音。翌1959年ヒューストン大学に入学して商業美術を学ぶ。ジャズのボビー・ドイル・トリオのベース奏者を経て、1966年フォーク・グループのニュー・クリスティ・ミンストレルズThe New Christy Minstrelsに歌手・ベース奏者として参加。1967年にマイク・セトルMike Settle(1941― )らとカントリー・ロックのグループ、ファースト・エディションThe First Editionを結成する。『ジャスト・ドロップト・イン』Just Dropped In(1968)、『町へ行かないで』Ruby, Don't Take Your Love to Town(1969)などのヒットを出したが1975年に解散、ソロ活動に入った。1977年のヒット『ルシール』Lucilleグラミー賞の最優秀カントリー男性歌唱賞、1978年の『ギャンブラーThe Gamblerでふたたび同賞、1987年のロニー・ミルサップRonnie Milsap(1944― )とのデュオ曲『メイク・ノー・ミステイク』Make No Mistake, She's Mineでグラミー賞最優秀カントリー・デュエット賞を受賞した。1979年度カントリー音楽協会賞の男性歌手賞を受賞。1991年ロースト・チキンのレストラン・チェーン「ケニー・ロジャーズ・ロースターズ」を開設した。1998年には自身のレコード会社「ドリームキャッチャー」を設立した。

[青木 啓]


ロジャーズ(Carl Ransom Rogers)
ろじゃーず
Carl Ransom Rogers
(1902―1987)

アメリカの心理学者。イリノイ州オーク・パークに生まれる。ウィスコンシン大学で農学、史学専攻。その後2年間ユニオン神学校で過ごし、さらにコロンビア大学教育大学大学院で教育および臨床心理学を学ぶ。1931年学位取得。ニューヨーク州ロチェスター児童虐待防止協会の役職を務めるかたわら多くの臨床経験をもつ。1945年オハイオ州立大学臨床心理学教授となり、同年カウンセリングセンター創設のためシカゴ大学へ移籍。1957年ウィスコンシン大学名誉教授となる。彼の業績は、来談者中心療法として知られ、さらに自己の構造・機能に関する研究を通して自己実現の原理を構築した。代表的著作には、『カウンセリングと心理療法』Counseling and Psychotherapy(1942)、『来談者中心療法』Client-centered therapy(1951)、『エンカウンター・グループ』Carl Rogers on encounter groups(1970)などがある。

[木村 裕]

『畠瀬稔他訳『エンカウンター・グループ――人間信頼の原点を求めて』(1973・ダイヤモンド社/1982/新版・2007・創元社)』


ロジャーズ(Richard Rodgers、作曲家)
ろじゃーず
Richard Rodgers
(1902―1979)

アメリカのミュージカル作曲家。ニューヨーク生まれ。コロンビア大学在学中に作詞家ロレンツ・ハートと知り合い、1919年から42年までコンビとなって『ジャンボ』『パル・ジョーイ』ほかの名作を生む。43年からはオスカー・ハマースタイン2世とのコンビで『オクラホマ!』『南太平洋』『王様と私』『サウンド・オブ・ミュージック』などの傑作を作曲し、60年にオスカーが没してからは自ら作詞もした『ノー・ストリングス』ほかを発表。作品は多彩で美しい。

[青木 啓]


ロジャーズ(James Edwin Thorold Rogers)
ろじゃーず
James Edwin Thorold Rogers
(1823―1890)

イギリスの経済学者。ロンドン大学とオックスフォード大学で学び、イングランド教会の聖職者となったが、のちR・コブデンらとの交友で経済学に転じた。ロンドン大学、オックスフォード大学教授を経て、1880~86年下院議員となり、のちまたオックスフォード大学教授となる。C・F・バスティアやコブデンの影響のもとに自由放任論を唱えたが、後年は労働組合を擁護した。主著に『イングランド農業・価格史』全八巻(1866~93)や『イングランド銀行初期九年史』(1887)などの史的研究がある。キャナン版が出るまでは、『国富論』の編者としても知られた。自由主義的経済学入門書の著者としても著名で、明治前半期の日本でも高橋達郎訳『泰西経済新論』や小山雄訳『社会経済要略』などが出版されている。

[杉山忠平]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロジャーズ」の意味・わかりやすい解説

ロジャーズ
Rogers, Ginger

[生]1911.7.16. ミズーリ,インディペンデンス
[没]1995.4.25. カリフォルニア,ランチョミラージュ
アメリカ合衆国のダンサー,女優。本名 Virginia Katherine McMath。1930年代のミュージカル映画におけるフレッド・アステアとのコンビで知られる。ボードビルでダンサーとして仕事を始め,1929年に『トップスピード』Top Speedでブロードウェーにデビュー。ジョージ・ガーシュイン作曲の『ガール・クレイジー』Girl Crazy(1930~31)に主演後ハリウッドへ移住,映画に出演するようになると軽薄なブロンド女という役回りが定まった。1933年にアステアと初共演した『空中レビュー時代』Flying Down to Rioが好評を博し,『コンチネンタル/離婚協奏曲』The Gay Divorcee(1934),『トップ・ハット』Top Hat(1935)など 9作品続けて共演した。ダンサーとして有名だが本人は演技を好み,『恋愛手帖』Kitty Foyle(1940)ではアカデミー賞主演女優賞を獲得。1965年『ハロー・ドーリー』Hello Dollyで舞台に復帰した。

ロジャーズ
Rodgers, Richard

[生]1902.6.28. ニューヨーク
[没]1979.12.30. ニューヨーク
アメリカのミュージカル作曲家。コロンビア大学 (中退) ,音楽芸術学校 (現・ジュリアード音楽院) 在学中から,脚本家ローレンツ・ハートとのコンビで数多くのミュージカルを手がけ,1942年ハートが没するまで,『マイ・ファニー・バレンタイン』などの名曲を含むミュージカル,喜劇などを発表。その後,O.ハマースタイン 2世とコンビを組み,43年の『オクラホマ!』 Oklahoma!は 2248回というブロードウェー史上に残るロングランを続け,ピュリッツァー賞も受賞,世界的な名声を得た。以後次々とトニー賞を受賞するヒット作を生み出し,『南太平洋』 South Pacific (1949,ピュリッツァー賞も受賞) ,『王様と私』 The King and I (51) ,『サウンド・オブ・ミュージック』 The Sound of Music (59) など,のちに映画化されたものも数多い。

ロジャーズ
Rogers, Richard

[生]1933.7.23. フィレンツェ
イタリア生まれのイギリスの建築家。フルネーム Richard George Rogers。1937年イギリスに移住。ロンドンの AAスクールで学び,アメリカ合衆国のエール大学に留学。そこでノーマン・R.フォスターと知り合い,1963年チーム4を設立。この頃の作品には映画『時計じかけのオレンジ』のロケーションに使われたジェッフィ邸(通称スカイブレイク・ハウス)がある。1970年,レンゾ・ピアノとともにピアノ・アンド・ロジャーズを設立。国際設計競技(コンペティション)によって機会を得てジョルジュ・ポンピドー国立芸術文化センター(1977)を完成させる。1977年にジョン・ヤング,マイク・デービスらとリチャード・ロジャーズ・パートナーシップを設立。コンペティション 1等入選に,ロイズ・オブ・ロンドン(1986),ヨーロッパ人権裁判所(1995)などがある。

ロジャーズ
Rogers, James Edwin Thorold

[生]1823. ハンプシャー,ウェストメオン
[没]1890.10.12. オックスフォード
イギリスの経済学者。ロンドン大学,オックスフォード大学に学び,1859年ロンドン大学経済学,統計学教授。 62年,88年にオックスフォード大学経済学教授。自由党に属し,80~86年下院議員となる。イギリス歴史学派の一人で,研究分野は経済史が中心だったが,R.コブデンの見解を支持した自由貿易の理論家であり,また経済政策家であった。主著『イギリスの農業および物価の歴史』A History of Agriculture and Prices in England (8巻,1866~93) ,『歴史の経済的解釈』 Economic Interpretation of History (88) ,『英国商工業史』 Industrial and Commercial History of England (92) 。

ロジャーズ
Rogers, Carl R(ansom)

[生]1902.1.8. イリノイ,オークパーク
[没]1987.2.4. カリフォルニア
アメリカの心理学者。オハイオ州立大学,シカゴ大学,ウィスコンシン大学教授を歴任。非指示的カウンセリングによる精神療法 (→来談者中心療法 ) によって知られ,また自我構造とその機能に関する研究や生活史における自我実現の原理などにより人格理論に貢献。主著『カウンセリングと精神療法』 Counseling and Psychotherapy (1942) ,『クライアント中心療法』 Client-Centered Therapy (51) ,『エンカウンター・グループ』 On Encounter Groups (70) など。ほかに『ロジャーズ全集』 (23巻,66~85) がある。

ロジャーズ
Rogers, Samuel

[生]1763.7.30. ロンドン近郊
[没]1855.12.18. ロンドン
イギリスの詩人。富裕な銀行家の家に生れた。詩作のかたわら,E.バーク,W.スコット,バイロンなど多くの文人と交わり,巧みな話術によって社交界の寵児となった。『迷信に寄せる』 Ode to Superstition (1786) ,『記憶の楽しみ』 The Pleasures of Memory (92) ,バイロンの『チャイルド・ハロルドの巡礼』を模した『イタリア』 Italy (1822~28) などのほか,死後出版の『回想録』 Recollections (59) がある。

ロジャーズ
Rogers, William

[生]1819.11.24. ロンドン
[没]1896.1.19. ロンドン
イギリスの教育家。教義の教育は両親と牧師の手にゆだねるべきであると主張し,「神学吊しのロジャー」として知られた。 1841年聖職に叙任。 45年ロンドンのチャーターハウスのセント・トマス教会の牧師補に任じられ,教区内の貧民や犯罪者の教育に打込んだ。 63年ビショップスゲートのセント・ボトルフ教会の教区牧師に任じられ,中等教育レベルの高等小学校の教育に取組んだ。そのほかダルウィッチにある E.アレインの慈善事業を再興し,ビショップスゲート学院を設立するなど,教区の教化に努めた。

ロジャーズ
Rogers, Will; William Penn Adair Rogers

[生]1879.11.4. オクラホマ,クレアモア近郊
[没]1935.8.15. アラスカ,ポイントバロー近郊
アメリカの俳優。 1905年からニューヨークの舞台に登場,軽喜劇やミュージカルで人気を博し,特に「ジーグフェルド・フォーリーズ」にしばしば出演。 18年以後は映画にも出演。また『ニューヨーク・タイムズ』などに軽妙洒脱な警句に富んだ寄稿文を載せた。著書『自称外交官の大統領への手紙』 Letters of a Self-Made Diplomat to His President (1927) 。

ロジャーズ
Rodgers, John

[生]1773. アメリカ,メリーランド
[没]1838.8.1. アメリカ,フィラデルフィア
アメリカの軍人。 1799年海軍大佐。 1802~06年のバーバリ海賊との戦いでトリポリを封鎖。 12年のアメリカ=イギリス戦争ではイギリス海上交通の妨害,ワシントン攻撃後のイギリス軍に対する海兵隊による攻撃,ボルティモア防衛などで活躍。 23年に一時海軍長官をつとめた。

ロジャーズ
Rogers, Woodes

[生]1679?
[没]1732.7.16. バハマ諸島,ナッソー
イギリスの私略船船長。 1708年外国の海賊に船を奪われたブリストル商人の援助を受け,世界をまたにかけた私略行為に出航。途中太平洋でアレクサンダー・セルカーク (ロビンソン・クルーソーのモデルとなった人物) を救出。各地で海賊行為を働いて,11年帰国。 17年バハマ総督に任じられ,これまでとは逆にカリブ海の海賊を平定して秩序確保に貢献した。

ロジャーズ
Rogers, William Pierce

[生]1913.6.23. ニューヨーク,ノーフォーク
[没]2001.1.2. メリーランド,ベセスダ
アメリカの政治家。コルゲート大学卒業。弁護士を経て 1957年 D.アイゼンハワー政権の司法長官,1969~73年 R.ニクソン政権の国務長官を務め,対外政策の面で堅実な手腕を発揮した。

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