フラー(読み)ふらー(その他表記)Samuel Fuller

デジタル大辞泉 「フラー」の意味・読み・例文・類語

フラー(hurrah)

[感]歓呼・喝采かっさいの叫び。万歳。

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精選版 日本国語大辞典 「フラー」の意味・読み・例文・類語

フラー

  1. 〘 感動詞 〙 ( [英語] hurrah ) 歓呼・喝采の叫び。万歳。フレー。
    1. [初出の実例]「一座の大衆はフラーと叫んで血の如き酒を啜る」(出典:幻影の盾(1905)〈夏目漱石〉)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フラー」の意味・わかりやすい解説

フラー(Samuel Fuller)
ふらー
Samuel Fuller
(1911―1997)

アメリカの映画監督、作家。マサチューセッツ州ウースター生まれ。一家でニューヨークへ移住後、12歳で『ニューヨーク・ジャーナル』New York Journal紙のコピーボーイ(記者から原稿を集めるなどの仕事)となり、17歳から事件記者として大都会での殺人事件などを記事にする。1930年代初頭には、大恐慌下のアメリカ各地をヒッチハイクで回り、ゼネストなどで国家分裂の危機に揺れる母国の惨状のレポートを、新聞に寄稿した。30代なかばから小説の執筆を開始、『燃えろ、ベイビー燃えろ』Burn Baby Burn(1935)を皮切りに、何冊かの小説を刊行する一方で、1936年から映画の脚本執筆や匿名による原案の提供を始める。

 第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると歩兵を志願、第一師団の小銃兵として、北アフリカ、シチリア、ベルギー、ドイツ、チェコなどを転戦、ノルマンディー上陸作戦にも加わる。持ち前のジャーナリスト魂から戦場でつぶさに見聞きした体験は、直接的には『最前線物語』(1980)として映画化されるが、それ以外の彼の多くの映画でも、記者時代の体験とともにその残響を聞き取ることができる。

 復員後ハリウッドへ戻り、『地獄への挑戦』(1948)で監督デビュー。製作費10万ドル、撮影日数10日間といった弱小プロダクションによる作品であったが、たびたび西部劇映画の英雄として登場してきたアウトロー、ジェシー・ジェームズの物語ではなく、その英雄を背中から撃ち殺し、卑怯者の烙印(らくいん)とともに多額の懸賞金を受け取った男のその後の人生を描き、ひねりの効いた 「大人の西部劇」と批評家から賛辞を受け、興行的にも成功した。監督としての手腕を認められたフラーは、朝鮮戦争を舞台とする2本の戦争映画『鬼軍曹ザック』(1950)、『折れた銃剣』(1951)などを経て、自身のルーツである、新聞社が密集するニューヨークの通りの名をタイトルとした『パーク・ロウ』(1952)で、勃興(ぼっこう)期にあったアメリカのジャーナリズムの世界を独創的なカメラの長回しなども交えて躍動感あふれるタッチで描ききった。さらにニューヨーク警察とコミュニストの諜報(ちょうほう)員間の死闘を扱う『拾った女』(1953)では、“赤狩り”が激化した時代背景下で映画会社の重役の発案で撮られた映画でありながら、ニューヨークの街頭をとらえるドキュメンタリー的な映像や奔放なカメラワークなどで「独自性」をアピールし、ベネチア国際映画祭で銅獅子賞に輝く。その後も、日本でロケされた『東京暗黒街・竹の家』(1955)、ベトナム戦争映画の先駆けとなった『チャイナ・ゲート』(1957)など、やや特異な設定の犯罪映画、戦争映画、西部劇を独自のスタイルで撮り続けた。その集大成として、1960年代前半のモノクロによる犯罪映画の三部作『殺人地帯U・S・A』(1960)、『ショック集団』(1963)、『裸のキッス』(1964)を発表する。とりわけ、ピュリッツアー賞を狙う野心的なジャーナリストが、その実体を暴くべく病人を装って精神科病院へ侵入するものの、病院内で実際に理性を失い、精神異常となる過程を幻影シーンなども交えてサスペンスフルに描く『ショック集団』は、ふたたびフラーのジャーナリズム観が色濃く反映されたもので、彼の演出力や創造力がもっとも自由奔放に展開された作品でもある。『裸のキッス』以降、映画作りの機会に恵まれずに歳月が流れ、ようやく16年ぶりにハリウッド資本で撮った作品が、自身の第二次世界大戦での体験に基づく戦争映画『最前線物語』であった。

 同世代の監督たちと比較して寡作で、しかもほぼすべてが低予算B級映画ながら、アメリカ映画界では例外的に「作家」(監督兼脚本家)としての地位をシステム内で貫き通したフラーへの評価は、むしろヨーロッパにおいて早くから高まり、パリをおもな活動拠点に移した晩年には、彼を慕う若手の監督たちの作品に役者として出演する機会が増えた。ボードレールの『悪の華』の映画化をもくろんでパリに滞在するアメリカ人映画監督の役を演じ(当時、フラー自身も『悪の華』の映画化を考えていた)、「映画とは戦場のようなものだ。それは愛、憎しみ、アクション、暴力、死、一言で言ってエモーションだ」との名台詞(めいぜりふ)を残したジャン・リュック・ゴダール作品『気狂いピエロ』(1965)に始まり、西部劇を演出中の映画監督役を演じたデニス・ホッパー作品『ラスト・ムービー』(1971)、ビム・ベンダース監督による一連の作品『アメリカの友人』(1977)、『ハメット』(1982)、『ことの次第』(1984)などが、そうした作品の代表例である。

[北小路隆志]

資料 監督作品一覧

地獄への挑戦 I Shot Jesse James(1949)
アリゾナのバロン The Baron of Arizona(1950)
鬼軍曹ザック The Steel Helmet(1950)
折れた銃剣 Fixed Bayonets!(1951)
パーク・ロウ Park Row(1952)
拾った女 Pickup on South Street(1953)
地獄と高潮 Hell and High Water(1954)
東京暗黒街 竹の家 House of Bamboo(1955)
チャイナ・ゲート China Gate(1957)
赤い矢 Run of the Arrow(1957)
四十挺の拳銃 Forty Guns(1957)
戦火の傷跡 Verboten!(1959)
クリムゾン・キモノ The Crimson Kimono(1959)
殺人地帯U・S・A Underworld U.S.A.(1961)
陽動作戦 Merrill's Marauders(1961)
ショック集団 Shock Corridor(1963)
裸のキッス The Naked Kiss(1964)
ザ・シャーク Shark!(1969)
最前線物語 The Big Red One(1980)
ホワイト・ドッグ White Dog(1982)
ストリート・オブ・ノー・リターン Street of No Return(1989)
デンジャーヒート 地獄の最前線 Tinikling ou 'La madonne et le dragon'(1989)

『吉村和明・北村陽子訳『映画は戦場だ!』(1990・筑摩書房)』『吉村和明・北村陽子訳『脳髄震撼』(1997・筑摩書房)』『山崎陽一・土肥悦子・安井豊編『サミュエル・フラー』(1990・ユーロスペース)』


フラー(Curtis Fuller)
ふらー
Curtis Fuller
(1934―2021)

アメリカのジャズ・トロンボーン奏者。デトロイトで生まれる。初めバリトン・サックスを吹いていたが後にトロンボーンに転向。1955年軍役につき、アーミー・バンドでアルト・サックス奏者キャノンボール・アダレイ、ピアノ奏者ジュニア・マンスJunior Mance(1928―2021)らと共演。同年除隊後、地元デトロイトでギター奏者ケニー・バレルKenny Burrell(1931― )、テナー・サックス奏者ユーゼフ・ラティーフYusef Lateef(1920―2013)らと共演する。1956年、マサチューセッツ州ケンブリッジのマイナー・レーベル、トランジションに初リーダー作『カーティス・フラー・ウィズ・ペッパー・アダムズ』を録音する。レーベルの知名度の低さもあってあまり注目されなかったが、翌1957年ニューヨークに進出するや、たちまちジャズ関係者の目にとまるところとなる。まず、プレスティッジに同レーベル初吹き込み『カーティス・フラー・クインテット』(1957)を含む2枚のリーダー作を、続いてブルーノートに、同レーベルにおける初吹き込み『オープナー』(1957)を含む3枚、計5枚ものリーダー作を出しており、いかに彼が新人トロンボーン奏者として注目されていたかがわかる。またブルーノートでは、テナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンの『ブルー・トレーン』(1957)、ピアノ奏者バド・パウエルの『バド』(1957)といったアルバムにサイドマンとして参加し、きわめて短期間にジャズ・シーンの大物たちと共演する。1958年、代表作『ブルースエット』をサボイ・レーベルに吹き込み、その温かみのあるトロンボーン・サウンドは多くのファンを魅了した。1959年トランペット奏者アート・ファーマーArt Farmer(1928―1999)、テナー・サックス奏者ベニー・ゴルソンBenny Golson(1929―2024)のグループ「ジャズテット」の創立メンバーとなり、1960年アルバム『ミート・ザ・ジャズテット』に参加。翌1961年から1964年にかけては、3管編成に拡大された、ドラム奏者アート・ブレーキーのジャズ・メッセンジャーズのトロンボーン奏者として多くのアルバムに参加する。

 1960年代なかばから末にかけては目だった演奏活動がないが、1970年代に入りふたたびフリーランスのトロンボーン奏者としてさまざまなセッションに参加。1970年代後半および1980年代の前半はカウント・ベイシー楽団に、1979年にはライオネル・ハンプトン楽団に加わってツアーを行う。そのほかの代表作にブルーノート吹き込みの3作目『カーティス・フラーVol. 3』(1957)、1961年にエピック・レーベルに吹き込んだ『サウス・アメリカン・クッキン』がある。彼の演奏は、モダン・トロンボーン奏法を確立させたJ・J・ジョンソンJ. J. Johnson(1924―2001)のきわめて高度な技法には及ばないが、朴訥(ぼくとつ)ともいえる味わいとまろやかで温かみのある音色で、トロンボーンという楽器の特色を生かした魅力を生み出した。

[後藤雅洋]


フラー(Richard Buckminster Fuller)
ふらー
Richard Buckminster Fuller
(1895―1983)

アメリカの建築構造デザイナー。マサチューセッツ州ミルトンに生まれる。ハーバード大学中退、海軍兵学校に学び、第一次世界大戦に従軍、船舶・航空機に興味をもつ。同様な角度から工業生産を予測したメカニックな住宅を設計、1929年からそれらの仕事に「ダイマキシオンDymaxion」(ダイナミックであり、maximum efficiency――最大限の能率をもつ)なる造語をつけた。第二次大戦後は、合金、合板、プラスチックなど規格化された三角形の部材でドームを形づくり、その下に可能な限り大きな空間を得る「ジオデシック・ドームGeodesic dome」の各種技法を展開、その名を世界的なものにした。これは住居から工場、展示場のほか、レジャー施設などに広く利用され、モントリオール万国博のアメリカ館(1967)にその頂点が示されている。彼はさらにこのドームを拡大して都市そのものを覆うような構想を発表するなど、現代工業社会に立脚し、そこから飛躍して将来の超建築の一つの姿を示して、その独創的発想で若い建築家に大きな影響を与えた。ロサンゼルスに没。

[近江 栄]


フラー(Sarah Margaret Fuller (Ossoli))
ふらー
Sarah Margaret Fuller (Ossoli)
(1810―1850)

アメリカの女流評論家。教養ある父から広い分野にわたる教育を幼児のころから受け、早くから数か国語に通じ、文芸評論に深い洞察を示した。ゲーテの翻訳を出したり、エマソンとともに、1840年、超絶主義者の一人として、『ダイアル』誌創刊に尽力し、編集に参加した。同誌に文芸批評や社会問題についての鋭い論文を発表。1846年は彼女の生涯の転機となった。かねてあこがれていたヨーロッパへ赴き、当時の文人たちと交わる機会を得たばかりでなく、10歳年下のイタリア人、オッソーリ侯と同棲(どうせい)するようになり、のち結婚した。家族とともにニューヨークへの帰途、船が難破し、不慮の死を遂げた。一生を通じて女性問題に関心をもち、『19世紀の女性』(1845)を出版した。

[秋山 健]


フラー(Roy Broadbent Fuller)
ふらー
Roy Broadbent Fuller
(1912―1991)

イギリスの詩人、小説家。1968年~73年度のオックスフォード大学詩学教授をつとめた。21歳で事務弁護士となり、かたわら詩作活動を続けた。初めはオーデンの影響のもとに社会的動物としての人間省察の詩を書いたが、しだいに個人の内面や心理を掘り下げる知的な詩風を示すようになった。その傾向は宗教の必要性を説き、老いを主題とする晩年の詩においていっそう強まった。50年代以降小説にも手を染めた。作品に『全詩集』(1962)、小説『破滅した少年たち』(1959)など。

[富士川義之]


フラー(John Frederick Charles Fuller)
ふらー
John Frederick Charles Fuller
(1878―1966)

イギリスの軍人、軍事理論家。陸軍士官学校を卒業後、ブーア戦争に従軍、さらに陸軍大学校を経て、第一次世界大戦では戦車部隊に入った。そこで近代戦における戦車の重要性を痛感し、戦車・飛行機などを中心とした新しい軍隊編成を提唱するようになった。陸軍少将を最後に1933年退役、以後も旺盛(おうせい)な著作活動に専念した。代表的著作に『将来の戦争について』On Future Warfare(1928)などがある。

[木畑洋一]


フラー(Loie Fuller)
ふらー
Loie Fuller
(1862―1928)

アメリカ生まれの舞踊家。おもにパリで活躍した。イリノイ州に生まれる。衣装の長いスカートにくふうを凝らして身体の外形に変化を与え、さらに光線の効果を研究して舞台の下から照明が当たる装置を考え出し、「蛇の踊り」や「蝶(ちょう)の踊り」といわれる踊りで大成功を収めた。この照明はその後のレビューに使われるようになった。1892年からパリのフォリ・ベルジェールと契約し、ミュージック・ホール時代の舞姫として、ロンドンのカティ・ランナーとしばしば比較された。1900年のパリ万国博覧会では自身の劇場をもち、川上貞奴(さだやっこ)に提供、川上一座の2回目のヨーロッパ公演のマネージャーでもあった。

[市川 雅]

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改訂新版 世界大百科事典 「フラー」の意味・わかりやすい解説

フラー
Sarah Margaret Fuller
生没年:1810-50

アメリカの作家,評論家。幼少から父親の厳しい教育を受け,10代でヨーロッパの古典から近代までの作品を学び,ハーバードの知識人とも親しく交わった。1839-44年,ボストンで〈会話〉集会を組織し,当時のインテリ女性や超越主義者(トランセンデンタリズム)たちと,芸術,倫理,信仰,女性などさまざまな問題を語り合い思想を深めていった。〈会話〉の内容は著書《19世紀の女性》(1845)にも示されており,社会的制約からの女性の解放を唱えた。40-42年にはエマソンらと超越主義者の雑誌《ダイアル》を編集。最初の著書《湖の夏》(1844)が認められ,44-46年H.グリーリーの《ニューヨーク・トリビューン》紙の文芸評論家となる。同紙での評論は《文学と美術》(1846)として出版され高く評価された。46年,ヨーロッパに旅し,イタリアで革命運動家オッソリ男爵と知り合い,ともに革命に参加した。48年オッソリとの間に男子をもうけ,翌年結婚,ローマ共和国崩壊後の50年,帰国の途についたが,ニューヨーク沖で船が難破し,一家は没した。
執筆者:


フラー
Richard Buckminster Fuller
生没年:1895-1983

アメリカの技術家,デザイナー,建築家。マサチューセッツ州ミルトンMilton生れ。ハーバード大学中退。第1次大戦中に入った海軍の時代が,この独創的な技術家の形成期となる。宇宙あるいは自然を〈人間の,理解され,伝達された経験の集合〉とみなし,それをエネルギーenergyとシネルギーsynergyの複合体ととらえる立場から,一連のテクノロジー開発を推進。その一つが1927年に始まる〈ダイマクション計画〉である。〈ダイマクションDymaxion〉とはフラーの造語で,最小のエネルギー入力で最大の効率をひき出すことを意味し,同計画はダイマクション・ハウス,ダイマクション自動車などを生む。もう一つは,建造物を不連続の圧縮と連続する引張りの複合として構造化しようとする着想で,これは〈ジオデシック・ドームgeodesic dome〉に結実した(モントリオール万国博アメリカ館,1967など)。こうした個々の開発をこえて,さらに彼の構想は地球全体,宇宙にまで拡大された。著書に《宇宙船地球号》(1969)などがある。
執筆者:


フラー
John Frederick Charles Fuller
生没年:1878-1966

イギリスの陸軍少将,軍事評論家,戦史家。チチェスターの生れ。ボーア戦争に参加,第1次世界大戦ではイギリス戦車隊参謀として,史上初の戦車の大量集結,奇襲的運用で成功したカンブレーの戦闘の計画に参加,また1918年以降の連合軍の攻勢における戦車運用を計画,戦後も将来戦は戦車を中心とする快速の機動戦であるとして,軍の装甲機械化を主張した。しかし軍の主流とはなりえず,33年退役,その後は軍事評論,新聞社特派員として著述に専念した。彼の機械化近代軍運用の思想は,イギリスに対する影響は小さかったが,ドイツ,ソ連の軍事界に,リデル・ハートの主張とともに大きな影響を与え,のちのドイツ軍の電撃戦を生むこととなった。第2次世界大戦後は多くの戦争史を著述している。
執筆者:


フラー
Lon Lovins Fuller
生没年:1902-78

現代アメリカの代表的法哲学者。1948年以降R.パウンドの後を継ぎハーバード大学教授。フラーは法を定義して〈人間の行動を規則(ルール)に従わせようとする企てである〉と,一種行動主義的に規定する。この規則が国家権力の命令でなく,これを日常的に扱う法律実務家の努力の所産たる命令であるという点で,オースティンやケルゼンの法実証主義はしりぞけられるが,この法を内的に支える道徳が最高の自己完成を目ざしての〈実体的〉自然法ではなく,法の一般性の確立,公布の必要,無矛盾性や明瞭性,不遡及などを求める低次の〈手続的〉自然法であるという点で,通常の自然法論者とも異なる。主著は《法と道徳Morality of Law》(1964)。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フラー」の意味・わかりやすい解説

フラー
Fuller, Richard Buckminster

[生]1895.7.12. マサチューセッツ,ミルトン
[没]1983.7.1. ロサンゼルス
アメリカの発明家,建築家,技術家,詩人,思想家。ハーバード大学中退。第1次世界大戦に従軍中,新式の救命具の考案が認められ,海軍兵学校の教官に任命される。戦後,義父と共同で建築会社を設立 (1922) 。南イリノイ大学教授 (59) 。建築会社倒産 (27) 後は,特異な観点から,宇宙的スケールの包括的長期技術・経済計画を構想,エネルギー,情報,都市問題,環境問題,交通,住宅,食糧など多分野にわたって独自の理論を展開。また構想実現のために多方面の発明,考案を行なった。特に 1933年発表のダイマクション・カーと呼ばれる低燃費の万能車,すぐれた構造をもつ建築ドーム (測地線ドーム,53年発表) などは,十分実用性をもち,その後の技術発展に大きく貢献した。 68年の建築部門でイギリス王立研究所のゴールド・メダル受賞をはじめ多くの栄誉を得た。主著『月への九つの連鎖』 Nine Chains to the Moon (38) のほか多数の著書がある。

フラー
Fuller, (Sarah) Margaret

[生]1810.5.23. マサチューセッツ,ケンブリッジポート
[没]1850.7.19.
アメリカの女流評論家。父親のきびしい知的訓練を受け,10歳足らずで数ヵ国語に熟達し,ヨーロッパ文学にも親しんだ。エマソンその他の超絶主義者たちと交わり,機関誌『ダイアル』を編集 (1840~42) するかたわら,婦人の意識向上のためのクラスを開設 (39~44) 。 1844年『ニューヨーク・トリビューン』紙の文芸欄を担当,社会改革を論じたり,自国およびヨーロッパの文学の批評,紹介を行い,46年ヨーロッパに渡った。翌年ローマに定住,オッソーリ侯と結婚,イタリア解放運動に加わったが,フランス軍の弾圧にあってローマを脱出,50年帰国の途上難船,家族とともに溺死。代表的著作に『19世紀の女性』 Woman in the Nineteenth Century (45) ,『故国と外国』 At Home and Abroad (56) ,回想録『外なる生活,内なる生活』 Life Without and Life Within (59) 。

フラー
Fuller, John Frederick Charles

[生]1878.9.1. ウェストサセックス,チチェスター
[没]1966.2.10. コーンウォール,ファルマス
イギリスの陸軍軍人,軍事評論家。南アフリカ戦争に従軍,第1次世界大戦で戦車隊を指揮し,ソンム,カンブレーの戦い (1917) で戦車による新作戦を用いて成功。 1918年連合軍機甲部隊の指揮官として活躍,第1次世界大戦を勝利へ導いた。 30年少将。 33年の退役後は軍事作戦の著述,『デイリー・メール』紙の特派員として第2次エチオピア戦争,スペイン内乱などを取材。第2次世界大戦中も著述に専念し,のちに戦争史を著わした。主著に『大戦下の戦車』 Tanks in the Great War (1920) ,『第2次世界大戦』 The Second World War,1939-1945 (48) がある。

フラー
Fuller, Roy (Broadbent)

[生]1912.2.11. ランカシャー,オールダム
[没]1991.9.27. ロンドン
イギリスの詩人,小説家。オーデンらの影響で社会意識の強い作品を書いた。『戦いのさなか』 The Middle of a War (1942) ,『失われた季節』A Lost Season (44) ,『墓碑銘と偶作』 Epitaphs and Occasions (49) を経て,『ブルータスの果樹園』 Brutus's Orchard (57) では心理的哲学的な傾向を強めた。『新詩集』 New Poems (68) のほか,『社会のイメージ』 Image of a Society (56) などの小説がある。 1968~73年オックスフォード大学詩学教授。

フラー
Fuller, Lon Luvois

[生]1902.6.15. テキサス,ハーフォード
[没]1978.4.8. マサチューセッツ,ケンブリッジ
アメリカの法哲学者。スタンフォード大学卒業後,オレゴン,イリノイ,デュークの各大学で教え,1939年にハーバード大学に移り,48年から法哲学講座を担当。自然法論者と目されたが,形而上学的な自然法論に対しては批判的で,共同生活を可能ならしめる社会秩序の原理という,いわば技術的な自然法を経験的に探求しようとした。法の目的を達成するために不可欠な要請を列挙し,それを「法の道徳」として示したことは特に名高い。主著『法の道徳』 Morality of Law (1964) 。

フラー
Fuller, Thomas

[生]1608.6.19. 〈洗礼〉ノーサンプトンシャー,アーニクル
[没]1661.8.16. ロンドン
イギリスの聖職者,歴史家。内乱が起ると王党派の従軍牧師となり,王政復古後はチャールズ2世の教会堂牧師に任命された。『聖戦の歴史』A History of the Holy War (1639) ,クロムウェルを風刺した『アンドロニカス,不運な政治家』 Andronicus,or the Unfortunate Politician (46) ,小伝を集めた『イギリス名士列伝』 History of the Worthies of England (62) などがある。

フラー
Fuller, Loie

[生]1862.1.15. イリノイ,フラーズバーグ
[没]1928.1.1. パリ
アメリカの舞踊家。正規の舞踊教育を受けず,幼少からショー・ビジネスの舞台を踏んだ。 1891年頃からスカーフやロングスカートなどを巧みに使うコスチューム・ダンスを考案し,独舞で踊った。『蛇の踊り』で成功を収めたのちパリに渡り,A.フランスやロダン,トゥールーズ=ロートレックらにその芸術性が高く評価され,1900年のパリの万国博覧会に登場。色彩的な照明を効果的に駆使して世紀末芸術の典型といわれた。モダン・ダンスの源流の一つともいわれ,そのほか『火の踊り』などが知られる。

フラー
Fuller, Melville Weston

[生]1833.2.11. メーン,オーガスタ
[没]1910.7.4. メーン,ソレント
アメリカの法律家。シカゴで弁護士として成功。 1888~1910年第8代連邦最高裁判所長官。伝統的な個人の権利および財産権を擁護し,法の厳格な解釈者として知られる。

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百科事典マイペディア 「フラー」の意味・わかりやすい解説

フラー

米国の映画監督。マサチューセッツ州生れ。新聞記者をへて小説を数点発表した後,脚本家に転向。《地獄への挑戦》(1949年)で監督デビュー。《拾った女》(1953年),日本ロケを行った《東京暗黒街・竹の家》(1955年),西部劇《四十挺の拳銃》(1957年)などの犯罪・アクション映画で注目される。低予算を逆手に取った簡潔かつダイナミックな演出が,ヌーベル・バーグの監督に影響を与えた。J.-L.ゴダール監督《気狂いピエロ》(1965年)に出演して語った〈映画は戦場だ〉という言葉は有名。他の作品に《ショック集団》(1963年),《裸のキッス》(1964年),自らの戦争体験を反映させた《最前線物語》(1980年),《ストリート・オブ・ノー・リターン》(1989年)などがある。

フラー

米国の作家,評論家。子を女性だと認めたくなかった父親の意向で,当時の男子の古典教育を受けた。早くから知的な話術で評判となる。1836年にはエマソンに感銘を受け,家族を離れてボストンで生活を始め,1839年にはトランセンデンタリズム運動の成立に関わる。《19世紀の女性》(1845年)は男女が補足しあう両性具有的イメージを描いて,その後のフェミニズム運動を大きく方向づけた。

フラー

米国の技術家,デザイナー,建築家。マサチューセッツ州生れ。ハーバード大中退。第1次世界大戦で海軍に入隊。1927年より〈最小のエネルギーで最大の意味を引き出す〉意味の造語からなる〈ダイマクションDymaxion計画〉を推進し,住宅や自動車の設計を行う。また基本単位となる四面体と八面体の組合せにより,廉価で迅速な大空間の構成を可能にした〈ジオデシック・ドームgeodesic dome〉を開発し,〈マンハッタンのジオテック・ドーム〉のプラン(1961年)やモントリオール万国博覧会アメリカ館(1967年)を手がける。著書《宇宙船地球号》(1969年)などとともに,地球環境のあり方に対するさまざまな提案を残した。
→関連項目フォスター

フラー

英国の陸軍軍人,戦略家。ボーア戦争に参加,第1次大戦では英国戦車隊の参謀として,戦車の有効利用の戦術を考案。戦車を中心にした奇襲攻撃こそが勝利を決定づけるとする軍の機械化構想を主張したがいれられず,1933年に退官。以後軍事評論家,戦史家として活躍した。彼の構想は第2次大戦においてドイツ,ソ連に採用されて,電撃戦を生んだ。

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367日誕生日大事典 「フラー」の解説

フラー

生年月日:1902年6月15日
アメリカの法哲学者
1978年没

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世界大百科事典(旧版)内のフラーの言及

【機甲部隊】より

…その後集団用法の採用,機動力の向上に努めた連合軍は戦車によって戦況の打開に成功した。第1次世界大戦後,イギリスのJ.F.C.フラー,B.リデル・ハートらは敵の指揮中枢を一挙に打撃して勝敗を決する機甲部隊の創設を提唱したが,現実にはドイツにおいてA.ヒトラーの支持を得たH.グーデリアンがこれを最初に建設した。第2次世界大戦においてこの機甲部隊が急降下爆撃機と連係して電撃戦を実施し成果をおさめた。…

【契約】より

…たとえ信頼関係に裏づけられた人間関係の中でも,契約関係は明瞭に定めるという習慣が必要となっているのである。現代の法哲学者L.L.フラーは,親密な関係と敵対的関係においては秩序づけの原理としての契約は適当ではなく,〈好意をよせあう他人〉の間でのみ契約が機能するといった考え方を提示したが,このような考え方が契約関係の最も困難な点を表現しているとみてもよい。【小坂 勝昭】
[日本史上の〈契約〉]
 約束すること,また言い交わすことで,用語としては現代とほぼ同じだが,必ずしも法律的用語として限定されてはおらず,現代の日常語としての約束にちかい。…

【トランセンデンタリズム】より

…超越主義,超絶主義と訳す。エマソンの《自然》(1836)出版後,彼の周囲に集まったユニテリアン派の牧師たち(ヘッジFrederic H.Hedge,T.パーカー,リプリーGeorge Ripley,W.E.チャニングら),随筆家H.D.ソロー,教育家A.B.オールコット,批評家S.M.フラー,詩人チャニングWilliam E.Channing,ベリーJones Veryなどがその代表者である。彼らの討論会が〈超越クラブTranscendental Club〉と報道され,この言葉が彼らの思想の名称となった。…

※「フラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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