日本大百科全書(ニッポニカ) 「アービング」の意味・わかりやすい解説
アービング(Washington Irving)
あーびんぐ
Washington Irving
(1783―1859)
アメリカの小説家、随筆家。4月3日、富裕な商人の子としてニューヨーク市に生まれる。病弱のため正規の教育を受けず、独学で弁護士の資格をとった。その間、文学に興味をもち、ジョナサン・オールドスタイルの筆名で新聞に評論を寄稿したことが文筆活動に入るきっかけとなった。1804年ヨーロッパを訪れ、2年余り滞在した。帰国後、兄とともに、イギリスの『スペクテーター』誌を模した『サルマガンディ』誌を刊行したり、ニッカーボッカーの筆名で風刺とユーモアを交えた『ニューヨーク史』(1809)を出版したりして、文名を得た。その後、婚約者の死が原因で、しばらく不振な生活を送った。1815年、兄の事業を助けるために渡英し、17年間、海外に滞在することになる。この間イギリスの風物に少年時代からのロマンチックな憧憬(しょうけい)を満足させたり、小説家スコットを訪れたりした。彼の歴史に対する関心、懐古趣味もこの時代に形成された。渡英後3年にして兄の事業が破産し、文筆に頼らざるをえなくなり、34編の物語、随筆を収録した『スケッチ・ブック』(1820)をジェフリー・クレヨンの筆名で出版して、アメリカ最初の国際的作家としての名声を確立した。
続いて『ブレースブリッジ邸(ホール)』(1822)、『一旅行者の物語集』(1824)を発表した。1826年から3年間、スペインのアメリカ公使館に勤務しながら、『コロンブス伝』(1828)、『グラナダ征服』(1829)、『アルハンブラ物語』(1832)を出版。1832年に帰国後、西部開拓にまつわる『大草原の旅』(1832)、『アストリア』(1836)、および、かねてから私淑していたゴールドスミスの『伝記』(1840)などを発表。1842年から約4年間、スペイン公使としてふたたびスペインに赴き、帰国後、かねて計画していた『ワシントン伝』(1855~1859)を刊行した。彼の懐古趣味は、新しい創造を求めたアメリカ文学のなかでは古ぼけたものにみえるが、アメリカ最初の短編小説作家としての地位はいまも揺るぐことはない。1859年11月28日没。
[秋山 健]
『ワシントン・アーヴィング著、吉田甲子太郎訳『スリーピー・ホローの伝説』(新潮文庫)』▽『江間章子訳『アルハンブラ物語』(講談社文庫)』
アービング(Sir Henry Irving)
あーびんぐ
Sir Henry Irving
(1838―1905)
イギリスの俳優、劇場経営者。1856年初舞台を踏んだが、1871年にロンドンのライシアム劇場で翻案劇『ザ・ベルズ』の主役を演じて大成功、以後30年間イギリス劇壇に君臨した。1878年からはライシアム劇場の経営権も手に入れ、名女優エレン・テリーを相手役にハムレット、シャイロックなどシェークスピアやテニソン劇の役柄で語りぐさとなる名演技を示し、1895年には俳優として初めてのサーの称号を受けた。
スペクタクル尊重と主役優先の活動はしばしば批判の対象になったが、俳優中心時代の最後の巨星といえよう。
[中野里皓史]