日本大百科全書(ニッポニカ) 「フラナガン」の意味・わかりやすい解説
フラナガン(Tommy Flanagan)
ふらながん
Tommy Flanagan
(1930―2001)
アメリカのジャズ・ピアノ奏者。デトロイトで、ギター奏者の父親とピアニストの母親の間に生まれる。6歳のとき、クリスマス・プレゼントにクラリネットを贈られ、小学校ではクラリネットを吹いていた。11歳ごろ、ピアノ奏者である兄の影響でピアノを演奏するようになる。15歳でプロ・ミュージシャンとしての活動を始め、1947年地元出身のテナー・サックス奏者ラッキー・トンプソンLucky Thompson(1924―2005)がデトロイトに戻った際に編成したセプテット(七重奏団)に参加する。この七重奏団には、バリトン・サックス奏者のペッパー・アダムズPepper Adams(1930―1986)、ギター奏者のケニー・バレルKenny Burrell(1931― )らがいた。
1951年兵役にとられ歩兵として朝鮮戦争へ出征する。1953年除隊しテナー・サックス奏者ビリー・ミッチェルBilly Mitchell(1926―2001)のバンドに加わり、ここでトランペット奏者サド・ジョーンズThad Jones(1923―1986)、ドラム奏者エルビン・ジョーンズElvin Jones(1927―2004)の兄弟と出会う。1956年バレルとニューヨークに出、すでに当地で音楽活動を行っていたサド・ジョーンズ、ミッチェルの紹介により中央のジャズ・シーンで活動を開始する。ブルーノート・レーベルのバレルのリーダー作『ケニー・バレルVol. 2』(1956)のサイドマンを皮切りに、テナー・サックス奏者ソニー・ロリンズの名盤『サキソフォン・コロッサス』(1956)、トロンボーン奏者J・J・ジョンソンJ. J. Johnson(1924―2001)の『ダイアルJ・J・5』(1957)など、著名なアルバムの名脇役としてしだいに頭角を現す。
1957年、ジョンソンのグループに加わりヨーロッパ・ツアーを行った際、彼のリズム・セクションを借り、スウェーデンでトリオによる初リーダー作『オーバーシーズ』Overseasを地元のレーベル、メトロノームに吹き込む。初めてのトリオ作品は希少価値もあり日本での彼の評価を高めたが、地味な持ち味のため、この時期アメリカで彼のリーダー作は1960年にムーズビル・レーベルに吹き込まれた『ザ・トミー・フラナガン・トリオ』しかない。しかし彼のサイドマンとしての力量は高く買われ「名盤の影にフラナガンあり」といわれ、歌の伴奏者としても評価され、歌手トニー・ベネットTony Bennett(1926―2023)、エラ・フィッツジェラルドのサイドマンとしても活躍する。
1975年、おりからの伝統的ジャズ見直しブームにのって、15年ぶりのリーダー作『ア・デイ・イン・トーキョー』を吹き込む。以後、日本におけるピアノ・トリオ人気を背景に多くのリーダー作を録音し、1978年に「スーパー・ジャズ・トリオ」を、1983年にはベース奏者ロン・カーターRon Carter(1937― )、ドラム奏者トニー・ウィリアムズTony Williams(1945―1997)を従えた「マスター・トリオ」を結成する。そのほかの代表作に『エクリプソ』(1977)、『セロニカ』(1982)などがある。彼のピアノ奏法はバド・パウエルの系列に連なるオーソドックスなもので、その繊細で控えめな魅力は、日本のジャズ・ファンによってみいだされたといえる。
[後藤雅洋]
フラナガン(Barry Flanagan)
ふらながん
Barry Flanagan
(1941― )
イギリスの彫刻家、版画家。ウェールズのプレスタチンに生まれる。1964年から66年までセント・マーチン美術学校に学ぶ。彫刻の素材自体のもつ表現力に強い関心を抱いており、60年代なかばには、砂、ヘシアン(粗麻布)、ロープなどによる作品を制作。68年にはブロンズを用い始め、73年からは大理石による彫刻も制作する。有機的なフォルムによってユーモラスな味わいをみせる作品が多い。80年代に入り「野ウサギ」のシリーズを手がけ、82年にはベネチア・ビエンナーレのイギリス代表となる。名古屋市美術館に彫刻『三日月と釣鐘の上を跳ぶ野ウサギ』(1983)が、また東京都現代美術館や世田谷美術館にも彫刻作品が収蔵されている。1983年パリのポンピドー・センターで「バリー・フラナガン:彫刻」展、86年ロンドンのテート・ギャラリー(現テート・ブリテン)で「バリー・フラナガン:版画1970―83」展、93年マドリードのラ・カイシャ財団で「バリー・フラナガン」展が開催された。
[斉藤泰嘉]