日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジョンソン」の意味・わかりやすい解説
ジョンソン(Philip Johnson)
じょんそん
Philip Johnson
(1906―2005)
アメリカの建築家。オハイオ州クリーブランドに生まれる。ハーバード大学で古典文学を学び、1932年、26歳の若さでニューヨーク近代美術館の初代建築部長となり、近代建築の紹介と評価の確立に大きな足跡を残した。同年「インターナショナル・スタイル――1922年以後の建築展」と題された企画展示において、歴史家のヘンリー・ラッセル・ヒッチコックHenry Russell Hitchcock(1903―1987)とともに、バウハウスを中心とした当時のヨーロッパの最新の建築スタイルをいち早くアメリカに紹介した。やがて評論活動に飽き足らず、自ら建築家となることを決意して母校に戻り、バウハウスを代表する建築家の一人であるマルセル・ブロイヤーに師事し、建築家の資格を得てキャリアを再スタートした。ニューヨーク近代美術館で建築部長を務めた時代から、一貫してスタイル(様式)としての建築を追求したが、建築家としての最初の作品は「ガラスの家」とよばれるコネティカット州ニュー・カナンの自邸(1949)であり、そこにはバウハウスから大きく影響を受けた理論家としての意識と、ロマン的傾向とが一体化したさまがみられる。1959年には建築家ミース・ファン・デル・ローエと共同で、ニューヨークに超高層のシーグラム・ビルを設計した。
1970年代から1980年代にかけては、自ら「インターナショナル・スタイル」とよんだ建築スタイルから、さまざまな材質と色彩を多用した非機能主義的なスタイルへと移行した。この時代の傾向は、彼の代表作の一つであるAT&Tビル(1984)においてとくに開花し、後に「ポスト・モダン建築」とよばれるスタイルを象徴する建築物の一つとなる。1980年代後半、のちに評論家・教育者として活躍するマーク・ウィグリーMark Wigleyと共同で「ディコンストラクティビスト・アーキテクチャー展」(1988)を企画し、それまでのスタイルとは明らかに異なる傾向をもった建築家フランク・O・ゲーリー、ピーター・アイゼンマン、レム・コールハースらを紹介し、彼らのもつスタイルとロシア構成主義絵画との関連性を示した。
ジョンソンは、インターナショナル・スタイルからポスト・モダンを経てディコンストラクティビズムの建築へと至る、20世紀の建築の動向を特徴づけたこれら三つの互いにはっきり異なる傾向にそれぞれ関心をもち、移動し、アメリカにおけるそれらの紹介にかかわった。資産家であり大いなる趣味人でもあるジョンソンは、各時代ごとのさまざまな建築スタイルの傾向を、自身の所有する広大な敷地を実験場として自ら設計し実際に建設したという点で、他の一般的な職業建築家とは著しく異なっている。建築文化の一つの側面である表層的なスタイルの問題を、あたかもモードのように扱う姿勢については評価が分かれるところであるが、現実的な影響力は多大であった。1979年、その影響力をたたえられてプリツカー賞の初代受賞者となった。
[堀井義博]
『大江宏・明石乃武文、二川幸夫写真『現代建築家シリーズ フィリップ・ジョンソン』(1968・美術出版社)』▽『ロバートソン・ブライアン文、二川幸夫企画・撮影『GAグローバル・アーキテクチュア12 フィリップ・ジョンソン』(1972・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『デイヴィッド・ホックニー編、横山正訳『フィリップ・ジョンソン著作集』(1975・エーディーエー・エディタ・トーキョー)』▽『ヘンリー・ヒッチコック、フィリップ・ジョンソン著、武沢秀一訳『インターナショナル・スタイル』(1978・鹿島出版会)』▽『中村敏男編、モーラン・マイケル写真『フィリップ・ジョンソンの「ガラスの家」』(1998・YKK AP)』▽『John BurgeeArchitecture 1979-1985 ; Philip Johnson(1985, Rizzoli, New York)』▽『Jeffrey KipnisPhilip Johnson ; recent work(1996, Academy Editions, London)』
ジョンソン(Robert Johnson)
じょんそん
Robert Johnson
(1911―1938)
アメリカのブルース・シンガー、ギタリスト。のちにシカゴ・ブルース(第二次世界大戦後シカゴで根づいたバンド・ブルース)として発展してゆくブルース・スタイルをギター1本でつくり出した。死後50年以上を経てつくられた、全作品を収めたアルバム『コンプリート・レコーディングス』(1990)は世界中で100万セットを越す売り上げを記録、そのミステリアスな人生もあいまって、ブルースの歴史において特異な人気を獲得する。
ミシシッピ州南部のヘイズルハーストに私生児として生まれる。子供のころは母親の正式の夫、再婚相手、親類らのもとを転々としていたが、上部デルタ(ミシシッピ川とヤズー川にはさまれたデルタの上流地帯)のコマース、ロビンソンビルでの生活でブルースを知る。とくにサン・ハウスSon House(1902―88)とウィリー・ブラウンWillie Brown(1900―52)という、デルタでもっとも活躍していたブルース・コンビが近郷におり、ジョンソンは夜中に家を抜け出しては彼らの演奏を聞きに行った。
最初はブルース・ハープ(ハーモニカ)を演奏していたが、1930年代初めに故郷に戻ったころ出会ったアラバマ州出身のギタリスト、アイク・ジナーマンIke Zinnermanから強い影響を受ける。このあと、デルタに戻りギターの腕前を披露したところ、その超絶したテクニックにハウスらは驚き、ジョンソンのいう「深夜の十字路で自分の魂を悪魔に売って得たギター・テクニック」が信憑(しんぴょう)性をもって語られるようになる。低音弦でのブギ・ウギ・ピアノを模したウォーキン・ベース(歩くようなゆっくりとしたリズムのベース・ライン)と高音弦での自在なメロディ・ラインの同時奏法は、しばしば聞く者に2人の奏者による演奏ではないかと思われるほどだった。このベース・ライン、ギター・ブギは南部一帯に広がり、やがてシカゴ・ブルースを演奏するバンドが結成されていくなか、高音部のメロディ・ラインと低音部のベース・ラインの分業が進む過程でブルース・サウンドを特徴づけるものとして受け継がれた。また、ジョンソンの鬱屈(うっくつ)したボーカルは悪魔に追いかけられる者の妄想を感じさせ、時にギターのモダンなシティ・ブルース的な奏法と一体となって、ブルースの根源的な力、表情をみせる。
1936年から37年にかけて、29曲をテキサス州サン・アントニオおよびダラスで録音。のちにブルースのスタンダードとなる「スウィート・ホーム・シカゴ」「アイ・ビリーブ・アイル・ダスト・マイ・ブルーム」「クロスロード・ブルース」といった曲に加え、当時の唯一のヒット(南部で数千枚売れた)となったセックス・メタファーも強烈な「テラプレイン・ブルース」、キリスト教の最後の審判と南部フードゥー(ブーズー教の影響を受けた民間伝承)のシンボリズムが混ざり合った「イフ・アイ・ハド・ポゼッション・オーバー・ジャッジメント・デイ」、地獄の猟犬に追われつづけていると告白する「ヘルハウンド・オン・マイ・トレイル」、また優美なだけにその孤独さが際だつ「カモン・イン・マイ・キッチン」など、時代がいくら経過しようともけっして古びることのない、歌うことによってのみ救われるかのような名作を、短い生涯の証(あかし)として残した。
初めての結婚相手を出産で失った後はとくに、このハンサムなギター弾きの行く先々には女性の影がみえていたが、38年にミシシッピ州グリーンウッド郊外で演奏した際、妻を寝取られた嫉妬(しっと)に狂った男によって毒殺されてしまう。それは当時のデルタでは、ミュージシャン仲間は別として、放浪するギター弾きが死んだという程度の話にすぎなかったようだが、61年フォーク・リバイバルの波のなかで初めてのアルバム『キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース・シンガーズ』King of the Delta Blues Singersがリリースされ、ジョンソンは広く世界に知られる存在となる。エリック・クラプトンが在籍したクリームが「クロスロード」を、ローリング・ストーンズが「ラブ・イン・ベイン」をカバーし、ロックの世界でも知名度を上げ、同時に伝説も増幅されていった。
全曲集アルバム『コンプリート・レコーディングス』発売時点で初めて、本人の写真も公表され、田舎で寂しいブルースを1人で歌った男というイメージをくつがえすような伊達(だて)男ぶり、ミュージシャンとしての全体像は、世界中のブルース・ファンに衝撃を与えた。マディ・ウォーターズやエルモア・ジェームズ、ロバート・ジュニア・ロックウッドRobert Jr. Lockwood(1915―2006)といった、ごく近い距離にいたミュージシャンに影響を及ぼしただけでなく、ダンス・ビートとしてのブルースに革新をもたらし、それ以降のブルースの方向性を明確に示した存在である。
[日暮泰文]
『『ブルース&ソウル・レコーズ』第33、35号(2000・ブルース・インターアクションズ)』▽『Peter GuralnickSearching for Robert Johnson(1989, Dutton, New York)』▽『Walter MosleyRL's Dream(1995, Washington Square Press, New York)』
ジョンソン(Randy Johnson)
じょんそん
Randy Johnson
(1963― )
アメリカのプロ野球選手(左投右打)。本名Randall David Johnson。大リーグ(メジャー・リーグ)のモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)、シアトル・マリナーズ、ヒューストン・アストロズ、アリゾナ・ダイヤモンドバックス、ニューヨーク・ヤンキースで投手としてプレー。208センチメートルという長身で「ビッグユニット」の異名をとり、スリークォーターから時速160キロメートル以上の豪速球を投げ込む。1998年から2002年にかけて5年連続300奪三振以上を続けた。
9月10日、カリフォルニア州ウォルナットクリークで生まれる。南カリフォルニア大学から1985年、ドラフト2巡目指名を受けてエクスポズに入団。1988年に大リーグにデビュー、翌年途中でトレードされ、移籍先のマリナーズで頭角を現した。1990年6月2日の対デトロイト・タイガース戦でノーヒットノーランを達成した。しかし当時はコントロールが悪く、2桁(けた)勝利はあげても、2桁の敗戦と3桁の四球も同時に記録した。尊敬するノーラン・ライアンにアドバイスを仰いでから急成長し、1992年から4年連続奪三振王に輝き、とくに95年は最優秀防御率との二冠王となってマリナーズの球団初の地区優勝に貢献し、サイ・ヤング賞(最優秀投手賞のこと)に選ばれた。1998年途中でアストロズへトレードされ、翌年からダイヤモンドバックスへ移籍、以降は4年連続して奪三振王とサイ・ヤング賞を独占、99年と2001年は最優秀防御率との二冠王、02年は自身初の最多勝利も含めた三冠王に輝いた。2001年にはニューヨーク・ヤンキースとのワールド・シリーズで3勝(先発2、救援1)をあげる活躍をみせ、ダイヤモンドバックスが史上最速の球団創設4年目での世界一となる原動力となり、僚友のカート・シリングとシリーズ最優秀選手(MVP)を分け合った。2004年5月には対アトランタ・ブレーブス戦で完全試合を達成、これは大リーグ史上最年長(40歳8か月)記録であった。翌05年1月に交換トレードでヤンキースに移籍して17勝、06年にも17勝をあげて、それぞれ地区優勝に貢献。2007年1月、4選手と交換で古巣ダイヤモンドバックスに移籍した。
[出村義和]
2007年以降
2007年は故障のためにわずか10試合の登板にとどまり、4勝3敗、防御率3.81。
2007年までの通算成績は、登板試合566、投球回3855と3分の1、284勝150敗、セーブ2、防御率3.22、奪三振4616、完投98、完封37。獲得したおもなタイトルは、最多勝利1回、最優秀防御率4回、最多奪三振9回、サイ・ヤング賞5回。
[編集部]
ジョンソン(Walter Johnson)
じょんそん
Walter Johnson
(1887―1946)
アメリカのプロ野球選手(右投右打)、監督。1907年から27年まで21年間、大リーグ(メジャー・リーグ)のワシントン・セネタース(現ミネソタ・ツインズ)一筋に投げ続けた「ビッグ・トレインBig Train」(人間機関車)の異名をもつ剛球投手で、大リーグ歴代2位の通算417勝をあげた。
11月6日、カンザス州のハンボルトで生まれる。1907年、マイナー・リーグを経験せずにセネタースに入団。翌08年にはニューヨーク・ハイランダーズ(現ニューヨーク・ヤンキース)相手に3連続完封を演ずる活躍をみせるが、チームが弱く、14勝14敗でシーズンを終えた。しかし、1910年から19年まで10年連続20勝を達成、1912年からは8年連続奪三振王となった。その間、1913年には55回3分の2連続無失点を達成するなど、36勝7敗で初めての最多勝に輝いた。1910年から19年までのセネタースは年平均76勝に対し、ジョンソンはその3分の1にあたる平均27勝をあげていた。1920年の対ボストン・レッドソックス戦で初のノーヒットノーランを達成したが、その直後に右腕を痛めてシーズンを欠場。しかし、翌21年に復活し、24年には23勝で6回目の最多勝を獲得、チームを創設24年目で初のリーグ優勝に導いて最優秀選手(MVP)に輝き、ワールド・シリーズでも初優勝を遂げた。1927年に引退するまで、開幕戦で7回の完封勝利や、2回にわたって無死満塁のピンチを3者3球三振で切り抜けるなどの離れ技を演じた。通算完封勝利110は歴代1位、通算奪三振3508の大リーグ記録は56年間破られなかった。1929年から32年までセネタース、33年から35年までクリーブランド・インディアンスで監督を務めた経験がある。1936年に初めての選考で、ベーブ・ルースらとともに野球殿堂入りを果たした。
選手としての21年間の通算成績は、登板試合417、投球回5914と3分の1、417勝279敗、防御率2.17、奪三振3508、完投531、完封110。獲得したおもなタイトルは、最多勝利6回、最優秀防御率5回、最多奪三振12回。監督としての通算成績(7年)は、529勝432敗。1936年に野球殿堂入り。
[出村義和]
ジョンソン(Boris Johnson)
じょんそん
Boris Johnson
(1964― )
イギリスの政治家。1964年、ニューヨークで生まれる。父スタンレーStanley Johnson(1940― )はイギリス保守党の欧州議会議員を務めた政治家、母(1979年にスタンレーと離婚)は画家。弟のジョーJo Johnson(1971― )も下院議員を務めた。名門私立学校のイートン校を卒業した後、オックスフォード大学で古典学を学んだ。保守的な『デイリー・テレグラフ』紙のブリュッセル特派員として、EUに批判的な記事を数多く執筆し、注目を集め、また公営放送BBCの風刺番組の出演者として国民的な知名度を獲得する。『スペクテイター』誌の編集長を経て、2001年下院議員に初当選する。2期目途中の2008年、ロンドン市長選に出馬して当選するが、2015年、総選挙で下院議員に復帰する。
2016年6月に行われたEU残留の是非をめぐる国民投票では、イギリス独立党のファラージNigel Farage(1964― )とともに、離脱派キャンペーンの中心的人物となった。キャメロン首相の辞意表明後に行われた保守党党首選への出馬を見送り、メイ政権で外務大臣を務めたが、メイがEUと結んだ離脱協定案を、イギリスの主権を過度に制約するものだと批判して辞任した。2019年7月、メイが合意案に対する議会の支持を得られず辞任したあと、後任の首相に就任する。
「EUとの合意なしの離脱も辞さず」と主張する一方、議会を5週間にわたって閉会すると表明して国論を二分する論争となった。これに対して、最高裁判所は議会閉会を違法だと判断した。EUとの新たな離脱案に合意したジョンソンは、自らを国民投票で離脱(ブレグジット)を支持した「一般の人々」の代弁者と位置づける一方、国会議員や裁判官のような「エリート」が民意の実現を妨げているというポピュリズム的なレトリックに訴え、世論の支持を集めた。2019年12月総選挙で、保守党は国民投票でEU離脱を支持した有権者の票を集めて大勝し、2020年1月にイギリスはEUから離脱した。同年2月に始まった新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)の流行では、リバタリアン(自由至上主義者)的な立場から厳格な行動規制に消極的な態度をとり、初動の遅れから多くの犠牲者を出したため、厳しい批判にさらされた。
毀誉褒貶(きよほうへん)に満ちた政治家と評される。
[池本大輔 2022年3月23日]
ロックダウン中の2020年5月に首相官邸でパーティを開くなど、さまざまな不祥事から保守党内の支持を失い、2022年7月に党首を辞任、9月に首相を退任した。
[編集部]
『池本大輔著「イギリス:強硬離脱の原因とその帰結」(『混迷する欧州と国際秩序』所収・2020・日本国際問題研究所)』▽『池本大輔著「英国:変化を加速させた新型コロナ危機」(植田隆子編著『新型コロナ危機と欧州:EU・加盟10カ国と英国の対応』所収・2021・文眞堂)』
ジョンソン(Samuel Johnson)
じょんそん
Samuel Johnson
(1709―1784)
イギリスの詩人、批評家、辞書編纂(へんさん)家。一般にドクター・ジョンソン(ジョンソン博士)とよばれる。書店の子としてイングランド中部の田舎(いなか)町リッチフィールドに生まれ、神童の誉れが高かったが、頸部(けいぶ)リンパ節結核に悩み、そのため片方の目を失明。容貌魁偉(ようぼうかいい)が一生彼を苦しめる。やがて心気症の激しい発作にも襲われるようになる。オックスフォード大学に学ぶが、中退。文学を志すも貧乏で世に出るのに苦労する。20歳年上の寡婦と結婚し、郷里の近くに私塾を開くが失敗。そこで教えた、のちに役者となるデイビッド・ギャリックとともにロンドンに出た。詩人たらんとしたが心ならずも雑文を書いて生活を支える。詩としては『願望のむなしさ』(1749)がもっとも優れている。『英語辞典』の計画、出版(1755)をめぐり、時の有力者チェスターフィールド伯とのいきさつが有名。初め伯に後援を求めて断られ、独力で着手、完成まぎわ、伯の側からの援助の申し出があったのを蹴(け)る。これを機にイギリスの出版は後援者と絶縁することになる。この『ジョンソン辞書』は、英語では最初の学問的辞書で、保守的な編集方針により標準英語の確立に貢献した。「からす麦=イングランドでは馬に食わせるが、スコットランドでは人間さまの食べ物」などといった人をくった定義があちらこちらにみられ、辞書の欠点とされたが、いまではかえってそういう箇所に人気がある。母の葬式の費用に困り、1週間で小説『ラセラス』(1759)を書き上げた。このころから文名が高まり、年金300ポンドを受け、文芸クラブをつくり、コーヒー店での談論を楽しみ、文壇の大御所と称された。70歳近くなって『詩人伝』(1779~1781)に着手し、52人の伝記を書き上げる。イギリス伝記文学の白眉(はくび)、ボズウェル『ジョンソン伝』の伝える彼の人柄、不屈の意志、健全な良識などによって、広く敬愛される国民的理想の一人である。
[外山滋比古 2018年6月19日]
『永嶋大典著『ジョンソンの「英語辞典」――その歴史的意義』(1983・大修館書店)』
ジョンソン(Magic Johnson)
じょんそん
Magic Johnson
(1959― )
アメリカのプロバスケットボール選手。8月14日、ミシガン州生まれ。本名アービン・ジョンソンEarvin Johnson。1979年ミシガン州立大学をバスケットボール全米大学チャンピオンに導いたのち、中退してNBA(アメリカ・プロバスケットボール協会)ロサンゼルス・レイカーズに入団。1988年までチームを5回NBAチャンピオンに導き、ファイナルMVPを3回獲得。206センチメートルという長身を感じさせない俊敏な身のこなしと魔術師のような天才的なプレーから「マジック」という愛称がつけられた。1991年11月エイズウイルス感染を理由に現役を引退。1992年復帰し、オリンピック・バルセロナ大会に出場。ラリー・バードLarry Bird(1956― )、マイケル・ジョーダンらが加わった「ドリームチーム」は圧倒的な強さで金メダルを獲得した。同年10月ロサンゼルス・レイカーズとアメリカ・プロスポーツ史上最高の年俸1460万ドル(約17億7000万円)で延長契約を結んだが、11月現役復帰を撤回。1994年3月レイカーズにコーチとして復帰。1995年1月には同チームの選手として復帰するが、1996年5月引退。エイズ研究を援助するマジック・ジョンソン財団の代表を務める。2002年にバスケットボール殿堂入りした。
[編集部]
『アービン・ジョンソン、ウィリアム・ノヴァク著、池央耿訳『マイ・ライフ』(1993・光文社)』▽『ジョージ・リベイロ著、師岡亮子訳『マジック・ジョンソン エンドレス・マジック』(1997・TOKYO FM出版)』
ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)
じょんそん
Lyndon Baines Johnson
(1908―1973)
アメリカ合衆国第36代大統領(在任1963~1969)。テキサス州南西部の田舎(いなか)に貧しい地方政治家の長男として生まれ、「アメリカの夢」を信じて育った。州立の教育大学を出て、教職、下院議員秘書などを経て、1937年民主党員として同州から下院議員に当選(6期)、大統領ルーズベルトのニューディール政策に協力した。1948年連邦上院議員に当選、1954年再選された。政治家としての天分が下院議長サム・レイバーンらによって磨かれ、1953年には史上最年少の党院内総務となり、議会を操縦した。1960年の党大会でジョン・F・ケネディと大統領候補を争って敗れたが、副大統領候補となり、南部諸州の支持を固めて、ケネディ政権誕生を可能にした。1963年11月、ケネディの暗殺により大統領に昇格、国民の共感をバックに巧みな政治力の行使で、公民権法など多くの進歩的政策を実現し、さらに「貧困との戦争」を柱に広範な社会福祉政策に基づく「偉大な社会」の実現を唱えた。対外的にもハト派の政策を主張し、1964年の選挙には共和党保守派のゴールドウォーター候補を大差で破ったが、その慢心からベトナム戦争を反共の聖戦として軍事介入を強めた。外交の未経験に加えて、国内政治流の秘密主義を戦争遂行に持ち込んだため、国民の不信を買い、人種対立、ドルの低落と相まって国内危機を招いたため、1968年3月、任期満了後の引退を声明した。
[袖井林二郎]
『ニューヨーク・タイムズ編、杉辺利英訳『ベトナム秘密報告』上下(1972・サイマル出版会)』▽『デイビッド・ハルバースタム著、浅野輔訳『ベスト&ブライテスト』全3巻(1976・サイマル出版会)』
ジョンソン(Douglas Wilson Johnson)
じょんそん
Douglas Wilson Johnson
(1878―1944)
アメリカの自然地理学者、とくに地形学者として著名。ウェスト・バージニア州のパッカーズバーグに生まれ、ハーバード大学を卒業後、1912年以来コロンビア大学教授を務めた。地形学者デービスの後継者として、多くの論文を発表した。とくに海岸地形に関する研究が多い。デービスの海食輪廻(りんね)説を発展させ、合成海岸や海岸線の形態のなかのカスプの形成の仮説の提示、海岸の後退作用に関する研究などは有名である。主著に『海岸の営力と海岸線の発達』(1919)、『ニューイングランド・アカディア海岸』(1925)などがある。晩年には、コロンビア大学から地形学雑誌を発行し、編集にあたった。
[市川正巳]
ジョンソン(Andrew Johnson)
じょんそん
Andrew Johnson
(1808―1875)
アメリカ合衆国第17代大統領(在任1865~69)。貧しい農民の子として生まれ、テネシー州で仕立屋になる。1828年以降、市会議員、州民主党下院議員、州上院議員、連邦下院議員、テネシー州知事、連邦上院議員を歴任した。50年代なかばに自営農地法を支持。南北戦争に際して奴隷制を容認したが、南部の連邦離脱には反対し、戦争派民主党員になった。62年テネシー州軍政官、64年リンカーン政権の副大統領になり、翌年リンカーン暗殺で大統領に就任。就任後、旧奴隷主勢力の復活を許す反動的再建政策を遂行しようとして、共和党急進派提出の諸法案にことごとく拒否権を発動したが、いずれも乗り越えられた。67年成立の官職保有法を犯し、急進派の路線を支持する陸軍長官を罷免したのを契機に弾劾裁判にかけられたが、1票差で弾劾を免れた。
[竹中興慈]
ジョンソン(Eastman Johnson)
じょんそん
Eastman Johnson
(1824―1906)
アメリカの画家。19世紀アメリカの風俗画を代表する一人。メーン州ローウェルに生まれる。1849年渡欧し、デュッセルドルフ、ハーグなどで研鑽(けんさん)を重ねて55年に帰国して以来、健康で穏やかな市民生活を描いた。なかでも『オールド・ケンタッキー・ホーム』(1859・ニューヨーク歴史協会)は奴隷制度の明るい局面をとらえて一般の嗜好(しこう)に投じた。70年代になって集中的に描いた野外の風俗画シリーズのなかには、フランス印象派と並行する光と色の実験の跡がみられたが、ホーマーの画業の陰に隠れた存在になっている。
[桑原住雄]