ミッチェル(読み)みっちぇる(英語表記)Sir Thomas Livingstone Mitchell

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミッチェル」の意味・わかりやすい解説

ミッチェル(Joni Mitchell)
みっちぇる
Joni Mitchell
(1943― )

カナダのシンガー・ソングライター。アルバータ州マクロードに生まれる。本名ロバータ・ジョーン・アンダーソンRoberta Joan Anderson。自立した女性の生き方が議論され、ポップ・ミュージックとアートの境界が消えた1960年代の時代精神を成熟させたシンガー・ソングライターの代表である。

 ミッチェルはまずフォーク・シンガーとしてキャリアをスタートさせるが、彼女自身のパフォーマンスよりはむしろ自作曲が高く評価される。ミッチェルの作品を取り上げたのは、ボブ・ディラン、フェアポート・コンベンション、ジュディ・コリンズJudy Collins(1939― )、ナザレス、ジョニー・キャッシュJohnny Cash(1932―2003)、そしてクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングなどである。

 10代でトロントのフォーク・ソング・クラブで活動を始め、1965年にはアメリカ、デトロイトに拠点を移す。1966年にはニューヨークに移り、リプリーズ・レコードと契約。『ジョニ・ミッチェル』(1968)、全米ヒット・チャート・トップ40入りした『青春の光と影』(1969)をリリース。前者には「イースタン・レイン」「サークル・ゲーム」、後者には「青春の光と影」などのスタンダードになったナンバーが収録されている。続く『レディーズ・オブ・ザ・キャニオン』(1970)、『ブルー』(1971)、『バラにおくる』(1972)と作品を重ねるごとにスケール・アップしていった。

 『ブルー』までの作品はギターの変則チューニングを生かしたものや、ダルシマー、ピアノをバックにシンプルに歌われていたが、『バラにおくる』からはジャズの要素が取り入れられ、ミッチェルはサウンドの実験に取り組む。当初はトム・スコットTom Scott(1948― 、サックス)がリーダーを務めるL.A.エクスプレス、次いでウェザー・リポートと、エレクトリック・ジャズ、フュージョン・ミュージックの最先端グループとのコラボレーションを通じて、レベルの高い作品を相次いで発表した。

 『コート・アンド・スパーク』(1974)で、それまでのフォーク的な作品にロックン・ロールとジャズを融合することに成功すると、『夏草の誘い』(1975)ではよりフュージョン・ミュージックに接近する。『逃避行』(1976)は、天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスをフィーチャーし、ジャズ的な要素を吸収した実験的サウンドを焦点にミッチェルの新しい世界は完成された。ウェザー・リポートの全面的な協力のもとで制作された2枚組アルバム『ドン・ファンのじゃじゃ馬娘』Don Juan's Reckless Daughter(1977)は、前作に第三世界の音楽に対する視点や組曲風の壮大な曲も加わった、ミッチェルの創造力の頂点を示したアルバムである。続いて、ジャズ・ベースの巨人チャールズ・ミンガスの曲にミッチェルが歌詞を付けた『ミンガス』(1979)ではより前衛的なアプローチをみせ、リスナーを驚かせた。この路線の集大成が2枚組ライブ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』(1980)である。その後、音楽的に新たな展開はないが、質の高いアルバムで存在感を示している。

[中山義雄]


ミッチェル(Margaret Mitchell)
みっちぇる
Margaret Mitchell
(1900―1949)

アメリカの女流小説家。11月8日、南部のジョージアアトランタに生まれ育ち、両親とも南部の歴史に興味をもっていたため、幼いころから南北戦争についてさまざまな挿話を聞いた。スミス・カレッジを中退後、アトランタで数年間新聞記者を勤めたが、足を痛めたため辞め、1926年から10年がかりで南北戦争にまたがるロマンチックな歴史小説『風と共に去りぬ』を書き上げた(1936刊)。旧南部の視点から書かれたこの小説は、爆発的人気を得て、ベストセラーの記録を更新し、発刊当時1日に5万部、半年間に100万部売れたといわれる。37年にはピュリッツァー賞を受け、彼女の存命中に18か国語に訳され、発行部数は800万部を超えた。49年8月16日、アトランタで自動車事故で死亡した。作品は長いあいだこの一冊しか残されていないと思われてきたが、95年に未発表作品、『ロスト・レイセン』(1916)が、知人宅から発見されたことが明らかとなった。

[松山信直]

『R・ハーウェル編、大久保康雄訳『「風と共に去りぬ」の故郷アトランタに抱かれて――マーガレット・ミッチェルの手紙』(1983・三笠書房)』『A・エドワーズ著、大久保康雄訳『タラへの道――マーガレット・ミッチェルの生涯』(1986・文芸春秋)』『テブラ・フリアー編『ロスト・レイセン』(1996・講談社)』


ミッチェル(Peter Dennis Mitchell)
みっちぇる
Peter Dennis Mitchell
(1920―1992)

イギリスの生化学者。ロンドン郊外のミッチャムに生まれる。クイーンズ・カレッジ、ケンブリッジ大学で生化学を学び、1951年博士号を取得した。ケンブリッジ大学で助手を務めたのち、1955年エジンバラ大学に招かれ、1961年講師となった。1963年大学を去り、コーンウォール県のボドミンでグリン研究所を設立した。この研究所はミッチェルの個人的な研究所といえるもので、そこで研究生活を続けた。

 細胞がいかにして外部からエネルギーを獲得するかについて考察した。細胞のエネルギー代謝アデノシン三リン酸(ATP)が重要な役割をしていることは知られていたが、そのメカニズムについては解明されていなかった。ミトコンドリアの膜内外で生じる水素イオンの電気化学的勾配(こうばい)がATPの合成の元になるという「化学浸透圧説」を提唱した。1961年にこの説が発表されたときは疑問視する声が大きかったが、やがて実証され、認められるに至った。1978年この業績に対してノーベル化学賞が与えられた。

[編集部]


ミッチェル(Silas Weir Mitchell)
みっちぇる
Silas Weir Mitchell
(1829―1914)

アメリカの神経病学者。フィラデルフィアの生まれ。1850年ジェファーソン医学校卒業。その後パリへ遊学してベルナールに師事する。帰国後ペンシルベニア大学教授に就任。南北戦争に際してはフィラデルフィアのターナー・レーン病院で多くの神経外傷患者を診療し、1872年に『神経損傷とそれらの結果』を著した。そのほか、灼熱(しゃくねつ)痛、皮膚紅痛症を最初に記載し、神経痛の治療に「ウェア‐ミッチェル法」といわれる療法を創案した。また毒矢や蛇毒の毒性およびモルヒネの生理学的作用を研究し、さらに詩や歴史小説の分野でも優れた天分を発揮した。1901年(明治34)に来日。

[大鳥蘭三郎]


ミッチェル(Wesley Clair Mitchell)
みっちぇる
Wesley Clair Mitchell
(1874―1948)

アメリカの経済学者。イリノイ州に生まれ、シカゴ大学で学ぶ。1899年に同大学で博士号を取得したが、その後もさまざまな大学から学位が贈られている。彼は当初、統計局に勤務したが、1900年にシカゴ大学の教員になり、02年にはカリフォルニア大学の経済学教授に就任した。その後、コロンビア大学の教授なども務めている。その間にNBER(全国経済調査会)理事長などの公職に携わり、またアメリカ経済学会の会長などにもなった。彼はアメリカの制度学派の学風を受け継ぎ、景気循環などに関する実証研究の分野でとくに著名な業績を発表している。

[笹原昭五]

『W・C・ミッチェル著、春日井薫訳『景気循環Ⅰ――問題とその設定』(1961・文雅堂書店)』『W・C・ミッチェル著、種瀬茂他訳『景気循環』(1972・新評論)』


ミッチェル(William Mitchell)
みっちぇる
William Mitchell
(1879―1936)

アメリカ陸軍の戦略爆撃思想の開拓者。フランスに生まれ、1898年アメリカ陸軍志願兵となる。第一次世界大戦に従軍し、ツェッペリン飛行船や、イギリス爆撃機の空襲を見て、帰国後は空軍万能・陸海軍無用論を唱える。1921年にニューヨークで標的艦を爆撃により撃沈し、自説を立証するが、保守的な陸海軍幹部に反対され、軍法会議で有罪となる「ミッチェル将軍反抗事件」を起こした。曲折ののち、1933年に戦略爆撃機の開発が決まって、爆撃機部隊の創設になった。

[青木謙知]


ミッチェル(Sir Thomas Livingstone Mitchell)
みっちぇる
Sir Thomas Livingstone Mitchell
(1792―1855)

オーストラリアの測量技師、探検家。スコットランド生まれ。1827年ニュー・サウス・ウェールズ州に測量技師として来訪、翌年測量長官となる。35、36年、ダーリング川がマリー川に注いでいるというスタートの説を探検によって証明。45~47年には、ニュー・サウス・ウェールズからカーペンタリア湾までの内陸路を求めてバークー川をさかのぼるが失敗。バークー川の源を発見して引き返した。

[越智道雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミッチェル」の意味・わかりやすい解説

ミッチェル
Michell, John

[生]1724. ノッティンガムシャー
[没]1793.4.21. ソーンヒル
イギリスの地質学者,天文学者。地震学(→地震)の父の一人とみなされている。1760年にロンドンのロイヤル・ソサエティ会員となり,1762年にケンブリッジ大学のウッドワーディアン地質学教授に就任した。1767年にソーンヒルの教区牧師となった。1750年に人工磁石に関する大規模な論文を発表。フランスの物理学者シャルル=オーギュスタン・ド・クーロンクーロンの法則を見出す以前に,ねじり秤の原理を発見した可能性があり,ミッチェルはこれを使って地球の平均密度を測定しようと考えていた。研究の道半ばで死去したが,実験装置を引き継いだイギリスの物理学者ヘンリー・キャベンディッシュが,万有引力定数の値を測定した。1760年には,1755年のリスボン地震の研究結果を発表した。この論文で,リスボン地震の震源は大西洋海底下にあったことを示したうえで,地震の原因は,海水が地下熱に接して高圧の水蒸気がつくられたためだとする誤った説を提唱した。天文学の分野では,地球から恒星までの距離を現実的に推定する方法を初めて提唱した。また,連星は二つかそれ以上の恒星が物理的に近接し,互いのまわりを回っているものだとする見方を示した。この説はのちにイギリスの天文学者ジョン・F.W.ハーシェルによって証明された。

ミッチェル
Mitchell, Arthur

[生]1934.3.27. ニューヨーク,ニューヨーク
[没]2018.9.19. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の舞踊家,振付師。ニューヨークの舞台芸術高等学校在学中から,ブロードウェーのミュージカルやドナルド・マッケイル舞踊団,ジョン・バトラー舞踊団の舞台に出演。1956年アメリカを代表するバレエ団,ニューヨーク・シティー・バレエ団 NYCBに唯一の黒人ダンサーとして入団,1962年最高位のプリンシパルに昇進した。NYCBではジョージ・バランシンが振り付けた『夏の夜の夢』(1962),『アゴン』(1967)などに出演した。1969年黒人のみで構成されるバレエ団,ダンス・シアター・オブ・ハーレムをバレエ教師カレル・シュックとともに設立,芸術監督として,振付師として,また併設する舞踊学校の指導者として活躍した。

ミッチェル
Mitchell, Wesley Clair

[生]1874.8.5. イリノイ,ラッシュビル
[没]1948.10.29. ニューヨーク
アメリカの経済学者。シカゴ大学で学び,母校で講じ,1902年カリフォルニア大学教授,13年以降コロンビア大学教授 (1944名誉教授) 。この間に全米経済研究所 NBER所長 (20~45) ,フーバー大統領の社会情勢調査会議長 (29~33) 。ことに全米経済研究所で精力的に景気変動の研究に取組み,膨大な時系列の統計的分析,そこから得られた仮説の検証,歴史的資料の集積などに多大の成果をあげ,また研究所の運営と指導にも大きな業績をあげた。主著『景気循環 I.問題とその設定』 Business Cycles: The Problems and its Setting (27) ,A. F.バーンズとの共著『景気循環 II.景気循環の設定』 Measuring Business Cycles (47) ,『景気循環 III.景気循環の過程』 What happens during Business Cycles (51) 。

ミッチェル
Mitchell, William

[生]1879.12.29. ニース
[没]1936.2.19. ニューヨーク
アメリカの陸軍軍人。 1898年アメリカ=スペイン戦争勃発時に,大学を中退し陸軍に志願,以後キューバ,フィリピン,アラスカなどで軍務についた。 1915~16年飛行訓練を受け,第1次世界大戦中の 18年,当時としては史上最大の約 1500機から成る米仏連合航空隊を指揮。イギリスの H.トレンチャード将軍の主張する戦略爆撃に共鳴し,19~25年陸軍航空部隊副司令官をつとめたが,空軍の独立を強く主張して,これに反対する陸海軍首脳部を激しく非難したため,25年 12月軍事裁判で軍の身分と職務を5年間停止され,26年2月には陸軍から退いた。死後,彼が生前主張していた戦略爆撃,空挺作戦など,航空機の重要性を強調した政策が実現した。しかし海上作戦における航空母艦の圧倒的な価値については,認識不足であった。 46年議会は彼に名誉の勲章を贈ることを決定し,48年新設されたアメリカ空軍の参謀長から彼の息子に手渡された。

ミッチェル
Mitchell, Margaret

[生]1900.11.8. ジョージア,アトランタ
[没]1949.8.16. ジョージア,アトランタ
アメリカの女流作家。『風と共に去りぬ』 Gone With the Wind (1936,ピュリッツァー賞) 一作でその名を知られている。父はアトランタ歴史協会の会長をつとめた弁護士で,南北戦争は一家のお好みの話題であった。医師を志望してスミス大学に入学したが,母の死にあい1年で帰郷。 1922年から『アトランタ・ジャーナル』紙に勤務,Peggy Mitchellの筆名で記事を書いた。 25年結婚。翌年足を病んで同紙を去り,以後 10年間,幼時から心を占めていた主題を練り,発表したのがこの小説で,南北戦争を背景に,勝ち気な女性スカーレット・オハラと偽悪家レット・バトラーを配したこの大型ロマンスは,発表と同時に大好評を博し,国の内外に多数の読者を獲得した。自動車事故で不慮の死をとげた。

ミッチェル
Mitchell, Thomas

[生]1892.7.11. ニュージャージー,エリザベス
[没]1962.12.17. カリフォルニア,ビバリーヒルズ
アメリカ合衆国の俳優。1913年『あらし』でニューヨークにデビュー。その後『西の国の人気者』 (1921) ,『夜の来訪者』 (1947) ,『セールスマンの死』 (1950) などに主演。1936年以後映画への出演も多く,ジョン・フォード監督の『駅馬車』Stagecoach(1939)でアカデミー賞助演男優賞を受賞した。同年映画化された『風と共に去りぬ』Gone with the Windでは,スカーレット・オハラの父親役を務めた。またフロイド・デルの小説『未婚の父』を作者とともに脚色,上演した。

ミッチェル
Mitchell, Peter Dennis

[生]1920.9.29. ミッチャム
[没]1992.4.10. コーンウォール,ボドミン
イギリスの生化学者。ケンブリッジ大学卒業 (1943) 後,助手として母校で研究を続け,1950年学位取得。エディンバラ大学 (55) を経て,グリン研究所所長 (64) 。学生時代から生物のエネルギー変換について研究を進め,61年に生体膜の内部に存在する酵素の1つが,アデノシン二リン酸からアデノシン三リン酸への転換を引起すという「化学浸透圧理論」を発表し,理論の完成に努め,実験を重ねた。この業績に対し,78年にノーベル化学賞が授与された。

ミッチェル
Mitchell, S(ilas) Weir

[生]1829.2.15. フィラデルフィア
[没]1914.1.4. フィラデルフィア
アメリカの医学者,小説家。パリで医学を修め,毒物学,神経学に関するすぐれた業績を残すとともに,文筆にも手を染め,専門を生かして心理分析を中心とした歴史小説を多く書いた。代表作は,独立戦争を背景にクェーカー教徒を描いた『ヒュー・ウィン』 Hugh Wynne,Free Quaker (1897) 。ほかに南北戦争を舞台とする『戦時に』 In War Time (85) ,『ローランド・ブレーク』 Roland Blake (86) ,女性の仇討ち物語『コンスタンス・トレスコット』 Constance Trescott (1905) など。

ミッチェル
Mitchell, Sir Thomas Livingstone

[生]1792
[没]1855
スコットランドの探検家。ナポレオン戦争で測量の経験を積み,1827年オーストラリアのニューサウスウェールズ植民地で測量指導にあたり,35年同植民地の測量図を公刊。 36年 C.スタートの見出したダーリング川を南下してマリー川に達し,次いでポートランドにいたり,そこからビクトリア植民地を横切ってシドニーに戻った。この探検によって開拓可能な地域の範囲とその地勢を解明した。

ミッチェル
Mitchell

アメリカ合衆国,サウスダコタ州南東部の都市。ジェームズ川の谷にある。 1879年に鉄道の町として発足し,シカゴ・ミルウォーキー・セントポール鉄道会社の社長の名を取って命名された。トウモロコシの生産,家畜,酪農を中心とする経済から,軽工業とキジ狩猟期のスポーツ中心地に変った。ダコタウェスリー大学 (1885創立) の所在地。人口1万 3798 (1990) 。

ミッチェル
Mitchell, Donald Grant

[生]1822
[没]1908
アメリカの随筆家。筆名 Ik Marvel。独身者が結婚,恋愛,友情などについて感傷的に語るという体裁のエッセー集『独身者の空想』 Reveries of a Bachelor (1850) などで知られる。

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